「いつまで泣いているんだ君は……」
「加茂先輩ぃ……だって、だってぇぇ」

寮の共用スペース、たまたまテレビの前に座っていた二年の先輩たちと同級生たちのところへ、私は慰めてもらいに来たのだ。
それなのにこの仕打ち。

「女がいつまでもうじうじ泣いてるんじゃない。もうすぐ高田ちゃんの特番が始まるんだ、騒ぐなら別の場所に行け」
「東堂先輩のばかぁ! もしその高田ちゃんが、親の決めた縁談相手と交際ゼロ日婚させられるとしたら理不尽だと思うでしょ!?」
「俺ならゼロ日婚だとしても高田ちゃんを幸せにする自信はある」
「うわーん加茂先輩〜東堂先輩がいじめるぅ〜」
「……すまないが、私にもナマエがそこまで騒ぐ理由がいまいちよくわからない」

そりゃ御三家の方はそうでしょうね。相伝を持って生まれたら、小さい頃には既に許嫁が決まっている……なーんてこともあるらしいし。いつの時代の話だよ。更に加茂先輩は現代から少し以上に足を踏み外しているから、乙女の悲しみを理解することは難しいのだろう。

「まぁまぁ……卒業まではまだ何年もあるし、私たちもそろそろ二年生になりますし、いずれ東京に行く機会もありますよ」
「写真は? 流石にお見合い写真くらいあるでしょ」
「ないんだなぁこれが」
「なにゆえ」
「じーさんばーさんに聞いてよ……写真も無しに婚約者決めるとかありえないでしょ普通」

そう。私はまだ、自分の結婚相手の顔も知らないのだ。

「敢えてバカのフリして会いに行けば? 向こうが幻滅して断ってくるかもしれないわよ」
「そうしてくれるなら願ったり叶ったりだけど……でも向こうが私を指名してきてるから、うちの爺さんと婆さんにそんなことしたって知られたらたぶん烈火の如く怒って絶縁宣言されると思う……だから長女でもない私は大人しくドナドナされるしかないんだよ……」

私の家は特段歴史も古くなく、ごくごく普通……でもないが、そこそこに自意識過剰な老害……失礼、祖父と祖母が居て、正月早々持ち込まれた縁談に彼らが一も二もなく大喜びで頷いてしまったのが私の運の尽きだった。
相伝を継いだ姉とは違い、父と母の術式を合いの子にしたような私は、祖父母にとってはたぶん一番どうでもいい孫だったのだろう。
ちなみに、特に強力な術式や呪力にも恵まれることの無かった真ん中の姉は、一般高校を卒業後にさっさと非術師の男を見つけて出奔し出来婚したので、祖父母の中では居ないものとして認識されているらしい。
入り婿の父は義父母と妻の間に挟まれていつも苦笑いばかりしているけれど、私たち三姉妹の幸せを第一に考えてくれる優しい父親だ。

……まぁ、それでも彼は、妻が長期任務で不在にしている間に持ち込まれた縁談になんとか異を唱えてはみたものの、義父母に逆らうことはできず……結果は推して知るべしである。
あまりのことに母は激怒し、年始から実家では冷戦状態が続いているらしい。
私も姉二人も父の微妙な立場をわかっているからこそ、この婚約話はどうすることもできなかった。

「でもさぁ、なんでわざわざ東京の家なの? 京都でよくない? 私たち今どこにいると思う? 本来の日本の都だよ?」
「元はと言えばナマエちゃんが東京がイヤだって言うからこっちに来たわけでしょ? そもそも実家が関東なんだから文句言っちゃダメだよ」
「だってぇ……クソジジイ達がOBの学校なんて嫌だったんだもん……」

この時ばかりは、そんな意地を張らずに素直に東京の高専に通えば良かったと思わずにはいられない。だって、もし私が東京校に通っていたら、今回の縁談の相手も私を選ぼうとは思わなかったはずだ。
まぁその場合はみんなと出会うことはできなかったから、本当にそうであったらと悔いているわけではない。最高の同級生と先輩に恵まれたと、誰に聞かれても私は胸を張って言えるから。

きっと私の祖父母も、最初っから姉相手の縁談であれば渋っていただろうし、入り婿が良いだのなんだのゴネまくっていたはずだ。
でも奇特なソイツは、何が良いのかわからないが縁談相手としてわざわざ三女の私を指名して寄越したのだ。

「呪言師とか絶対亭主関白だよ……『おい、茶ぁ持ってこいや』とか『こんな飯不味くて食えるもんじゃないな』とか『俺より早く起きないなら追い出すからな』とか、きっと毎日毎日ネチネチ言われるんだよぉ」
「私も狗巻くんは顔しか見たことないけど、そんなヤバそうな子だって噂は聞いてないなぁ」
「絶対外面だけはいいんだって! 俺は人畜無害ですよ、みたいな顔して裏では好き放題やってるんだよ!」

うわぁーん、と私が泣きつくと、霞はとても困った顔で私の頭を撫でてくれた。

「……試しに会ってみれば、ちょっとは印象変わるかもしれませんよ?」
「…………向こうが想像してたよりもずっっっっとヤバい奴だってわかっちゃったら? 私このあと卒業するまで三年近くはあるのに毎日泣いて過ごす羽目になるんだよ」
「もう高田ちゃんの出番だ。おまえら静かにしないなら追い出すからな」

時間になってもぐだぐだ愚痴をこぼし続けて東堂先輩に放り投げられた私は、共同スペースから渋々退散した。




その数週間後、私が二年生になってすぐのある日。件の彼に会うことになるとは夢にも思っていなかった。
今から思い出してみても、なぜ彼を後輩だと勘違いして、自分の婚約者だと気付けなかったのだろうか。不思議でならない。

…………いや、どう考えても語彙を絞っている上に言葉も足りていない彼が悪いよね。きっとそう。








「ナマエー。正門にいぬ……お客さんが来てるって」
「私に?」
「ナマエに会いに来たって言ってるらしいけど」

寮に備え付けられた共同電話を取った真依がそう言った。
私と親しくしている人なら携帯電話の番号を知っているはずだから、わざわざ高専まで来て……しかも正門で私を呼び出すなんて、普通の来客ではないだろう。
せっかくの休日が無駄になりそうな予感に痛み始めた頭を押さえながら、私は普段着のまま寮を出た。




「あの……私にお客さんだって聞いたんですけど」
「あぁ、入ってそこのベンチに座って待っててもらってるよ」

寮へ内線をかけてくれた職員さんにお礼を言って、私は指し示された方向へ顔を向ける。
そこには、高専の制服を着た男の子がベンチに座っていた。長い襟で口元を隠していて、色素の薄い髪に眠たげな瞳が印象的だ。
彼は私の顔を見てパッと立ち上がると、ぺこりと会釈をした。

「こんにちは……えっと、私に何か用ですか?」
「こんぶ」
「コン……なんて?」

誓って、私にはこんな奇抜な知り合いは居ない。中学の頃の非術師の同級生だって、ただの普通のバカな男子しかいなかった。どいつもこいつも、週末だけヘアカラースプレーで髪を染めたり、海に行って女性の水着を見てはしゃいだり、教室の隅でエロ本を広げて自慢話をしたり、チャリンコを手放し走行でどれくらい長く乗っていられるかという争いに人生の全てをかけているようなアホばかりである。

私と全く同じ身長の目の前の男の子は、私の言葉にぱちぱちと瞬きをしてから思い出したように手を打ち、ベンチの上に置いたままだった紙袋を手に取ってこちらに寄越した。

「え、あ? これは?」
「高菜、ツナマヨ」
「はい?」
「ツナマヨ」
「おにぎりかなんかですか?」
「おかかおかか」

私は英語の成績はそこそこ良いが、言うて母国語を含めた二ヶ国語しか話せない普通の呪術師なのだ。目の前の男子生徒は高専の制服を着ているから私と同じ呪術師であることだけは確かだが、意思疎通に大変な問題があった。

紙袋の中を覗いてみても、包装された小さな四角い箱が見えるだけ。
これは一体何なのかと問おうとした瞬間、正門の外から女性の大きな声が聞こえた。
私と男の子が揃ってそちらを見ると、そこには見知った顔――――に良く似た女の子が立っていた。話だけは真依に聞いている。彼女の双子の姉、真希だ。

「おまえ勝手にどこ行ってんだ」
「明太子」
「もう新幹線の時間だっつってんのにぶらぶらほっつき歩いてんじゃねーよ。行くぞ」
「おかか……」
「ゴネるな。シバキ倒すぞ」

彼女は異世界語を披露している男子生徒の首根っこを引っ掴み、私へ視線を投げた。

「あー……アンタ、確か」
「ミョウジです」
「真依と同期の……あぁ、なるほどそういうワケか」

真希は知った風にひとり頷くと、まだ異世界語で反抗し続けている男の子の頭に拳骨を落とした。

「また今度東京でな、ナマエ」

彼女は痛がる彼をそのまま引きずり、私に手を振って正門を抜けて去っていった。

「なんで私の名前……」

真依の姉と私は別に仲が良かったり、特別やり取りをしているわけではない。
彼女の名前を憶えていたのもたまたま真依が近くにいたからであって、きっと真依が双子でなかったら彼女の名前も私は憶えていなかっただろう。

不思議な顔をしたまま寮へ戻り、真依に今あったことと率直な疑問をぶつけてみる。

「真依、東京のお姉さんに私の話とかしてる?」
「はぁ?」

めちゃくちゃ嫌そうな顔をした真依は眉間にマリアナ海溝ほどの皺を寄せ、鼻で笑った。

「なんであんな四級術師に友達の話なんてしなきゃいけないのよ」
「いや……さっき正門で会ったんだけどさ」
「なんで」
「知らないよ。なんかあっちは私の名前知っててさ」
「……」
「ナマエちゃん、もしかしたらあれじゃない? 東京で狗巻くんが婚約者の話とかしてて、敵情視察的な」
「えぇーなにそれ。いや、でもありえるか……?」

真依のお姉さんは東京校に通っているから、つまりあの二人は関東の高専生徒で確定だろう。後輩との出張ついでに、奇特な呪言師が選んだ婚約者の顔を拝んでやろう、といったところか。
そうだとわかっていれば、もうすこし心証を悪くさせるようなことを言っておけばよかった、と私は少しだけ後悔した。

「で、それ一体どうしたのよ」
「どれ?」
「紙袋。爆発物かもよ?」

にやにやと笑いながら言う真依に呆れて溜息を返しながら、私は東京校の男子にもらった紙袋の中身を取り出した。
綺麗に梱包されたそれは両手の中に収まる程度の大きさで、可愛らしい水玉の包装紙にはリボンで飾られたシールが貼られている。

「お土産?」
「さぁ……」

ガサガサと包み紙を取り払っていくと、中の箱から出てきたのは可愛らしい文鎮だった。透明で、中には綺麗な花が詰め込まれている。

「プリザーブドフラワー?」
「なにそれ」
「ナマエアンタねぇ、もっと女子らしいことに興味を示しなさいよ」
「ゲームとか漫画のほうが面白いじゃん」

真依の発した単語を端末で検索してみれば、どうやらそれはお花を特殊な溶液に浸して長期保存可能にした物の一種だということがわかった。
問題は、あの男の子が何を思ってこれを私に渡してきたのか、ということだ。

「真希がなんでこんなのナマエに渡してくるわけ?」
「いや、なんか一緒に来た男の子が置いてった」
「はぁ?」








同封されていたメッセージカードによると、どうやらあの文鎮を選んだのは東京に居る私の婚約者、狗巻棘さんその人だったらしい。

――――あなたに似合いそうだと思ったので贈ります。 狗巻棘

一文と名前しかない手書きの文字を睨み、私は溜息を吐いた。
なんて野郎だ。自分が来るわけでも郵送するわけでもなく、同じ学校の人をパシリに使うとは。しかも届けてくれた眠たげな表情の男の子は後輩……私より一つ年下の一年生だろう、たぶん。
身長もそこまで高くなくて私と目線がほぼ同じだったからそう思っただけだけれど、醸し出す雰囲気と線の細さからして間違いなくあれは年下だ。
入学早々厄介な先輩に目をつけられたのだな、と襟巻後輩くんに同情し、そのカードは机の上に適当に放っておいた。






……それからというもの、東京に戻った真希さんからなんらかのお叱りを受けたのか、一週間に一回のペースで狗巻さんから押し花の栞が送られてくるようになった。
男の人らしい少し角ばったような字でただ一言花の名前が書かれているだけのシンプルなメッセージカードが、私の机の上にどんどん溜まっていく。
捨てるのもどうかと思って、桃からお土産にもらったお菓子の空き箱に栞とメッセージカードを詰めていっているけれど……生憎、私は小説は読まないのだ。
彼は文字通りの花札ができそうなほど毎回毎回栞を送ってきたが、裏が透けるので賭け事には向かなさそうである。
同じものばっかり贈って寄越せばプレゼントになるとでも思ってるのか?

増えていく押し花を眺めては溜息を吐くのが私の日課になった。








「ナマエーまたお客さんだって」
「またぁ?」

狗巻さんは一週にいっぺんの栞以外にも、京都の近くへ後輩が出張に来る時にはお土産の配達をパシらせているらしい。
もう何度目だよと私は心中で呟き、会ったこともない婚約者への評価がどんどん下がっていくのを感じる。

「高菜」

東京から来た襟巻き呪術師はいつものようにうちの正門から入ってすぐのベンチに腰掛けていた。眠たげな表情は変わらず、私に軽く手を挙げておそらく挨拶の類の単語を発しながら近づいてくる。
彼が左手に下げている紙袋を見た私は大きく溜息を吐いた。

「あのねぇ……」
「?」
「君さ、嫌なことは嫌って言ったほうがいいよ。こっち来るたびにそんなパシらされてさ、困るでしょ」
「おかか」
「おかか、じゃないの。もう要らないってば……せめて後輩に預けるんじゃなくて自分で持ってきなさいって伝えてくれる?」
「おかか、明太子」
「もー……別に私の後輩じゃないけど、年上としては心配になっちゃうよ。ほんと酷いヤツだな」

今度交流会で顔合わせる時は容赦なんかしてやるものかと心に決め、私は可愛そうな襟巻後輩くんに視線を戻した。

「今回は貰ってあげるけど、君の先輩に伝えてくれる? ミョウジは小説は読まないので、栞はもう結構です、って」
「……しゃけ」

彼は驚いたように目を丸くし、ぱちぱちと瞬きをしてから頷いた。
それでよし。

「ほら、もう帰りな。どうせ今日も呪霊とやりあって疲れてるでしょ」
「おか」
「おかかじゃないの。ユーマストゴーホーム、オーライ?」
「……サーモン」

律儀に英訳して返してきたねむねむ襟巻きくんを見送り、私は受け取った紙袋に目をやった。
どうやら今回は東京名物のばなななお菓子らしい。
……まさかとは思うが、後輩をパシらせるだけでなく自分のお土産代まで肩代わりさせたりなんてしてないよな?







その三日後、私の手元には「ミョウジナマエ様」と宛名の書かれた小包が届いていた。バカヤロウ、もう送ってくるなと言外に伝えたつもりが、後輩くんは狗巻さんにそれを上手く伝えられなかったらしい。
封を開けてみると、中にはまたもやメッセージカードと、今度は可愛らしいプリザーブドフラワーの置物が入っていた。はじめに後輩くんがパシらされてきた文鎮ではなく、アクセサリーを置けるようなすり鉢状になった小物入れだが、最初のものとは違って少しだけ色味が悪いような、バランスが悪いような花が散りばめられている。
メッセージカードにはお決まりの花の名前ではなく、こう書かれていた。

――――婚約指輪でも入れてくれたら嬉しいです。 狗巻棘


「婚約指輪ぁ?」

んなもん貰った記憶はない。いつかくれるのだとしても、せめてコレよりは先に贈ってきてほしかった。
しかしながら物には罪はない。私は仕方無しにそれを机の上に置き、少し悩んでから、余っていた消しゴムをその中にコトリと置いた。


その翌週、今度は指輪かと思いきや花があしらわれたイヤリングが送られてきたのを見て、私は目前に迫っている交流会でなんとしてもコイツを潰してやると心に決めた。
普段なら問題行動だろうが、交流会という特殊な状況下では例え婚約者であれボコってしまってもジジババは強くは言えまいと思ったのだ。








「東京の三年は謹慎らしい」
「加茂先輩、つまりそれってどういうことですか?」
「人数が足りないから一年も出るそうだ」
「ってことは……」

一年は三人……いや、ひとり減って今は二人しかいないというから、あのパシられ襟巻後輩くんもきっと出てくるだろう。
私はげんなりしながら東京高専の門をくぐり、待ち構えていた黒ずくめ達の前に立った。

真依によく似た顔の真希はわかるけれど、後は全然わからない。噂だけは聞いていたパンダ型呪骸が一頭、真希さんと、もう一人女の子。男の子はあの襟巻ねむねむ後輩くんと、それに加えてとびっきり目つきが悪そうなやつがひとり。

"コイツが例の狗巻さんだ"、と私は直感した。そもそも襟巻き後輩くん以外の男子は黒髪長身のそいつしか居なかったから。目つきも悪いし、不良を牛耳っていそうな雰囲気を醸し出している。

私は敢えて黒髪長身野郎に視線を向けたまま、こう言った。

「どなたが狗巻棘さんです?」

私の問いに黒髪は素直に手を挙げる――――かと思いきや、予想に反して手を挙げたのは襟巻きねむねむ後輩くんだった。
呆れてモノも言えない。後輩に自分の名前を騙らせて飄々とした顔をしていられるだなんて、さすがに悪ふざけが過ぎるだろう。

「君ねぇ……いくらなんでも言うこと聞きすぎ。そんなに先輩にいい様に扱われてたら禄な人生にならないよ」
「こんぶ?」
「だいたいアンタもアンタよ」
「は?」

我慢の限界を超えた私が黒髪長身の"狗巻さん"を睨みつけてそう言ってやると、"狗巻さん"はすっとぼけた顔をしてこちらを見つめ返した。

「なに後輩パシってるワケ? 別に私に贈り物くれるならそれはそれでいいけど、あんなに毎週送ってこられても困るし第一自分で持ってきなさいよ」
「ちょっと、何言ってるかわからないんですが」
「何その態度ぉ! 私はご指名されたから仕方なく婚約者になってあげてるってのに!! あーもう腹立つ!! 正直言って、アンタとは結婚もしたくないんですけど!!!」
「いや、ほんとになんの話か」
「おかか、」
「おかかじゃないの!!! 君は黙っててよ!」

私を宥めようとしているのか、襟巻後輩くんは私の肩に手を置き、また宇宙語を口にした。仏の顔も三度までだ。今まで送られてきた謎のプレゼントとパシリお土産の分を数えても、"狗巻さん"は悠に十回は私という仏を怒らせている。
面倒くさそうに眉を顰めた黒髪の"狗巻さん"の態度に腹が立った私は、目つきの悪い長身の彼の胸倉を思い切り掴んだ。

「私はアンタみたいなプライド高くて女にはとりあえずプレゼントやっときゃいいって思ってる男よりも! このちょっと眠そうな後輩君の方が百万倍マシだって言ってんの…………ッ何目ぇ逸らしてんのよオイ聞いてるのか狗巻棘!!」
「しゃけ」
「……俺は、伏黒ですけど」
「まだ言うか、」
「落ち着けナマエ、彼は狗巻じゃない」
「……」
「しゃけ」

窘めるような加茂先輩の声で、私は我に返った。一年と半分、同じ釜の飯を食べた仲だ。この人が嘘をつくような人じゃないことくらいは嫌というほどわかっている。

つまり、

「じゃあアンタは」
「伏黒です」
「じゃあこっちの襟巻き後輩は」
「そもそもその人は後輩じゃなくて先輩です」
「しゃけ」
「そっちが、狗巻くんだよ。ナマエちゃん」

桃の言葉に、私は"伏黒くん"の胸倉を掴んでいた手をゆっくりと放した。
私の隣で不思議そうに首を傾げている"狗巻さん"と目が合う。

「……じゃあ、今まで毎週押し花の栞送ってきてたのは」
「しゃけ」
「婚約指輪入れてって小物入れ送ってきたのは」
「しゃけ」
「関西くる度にお土産持ってきてたのも」
「……しゃけ」
「棘おまえそんなことしてたのか」
「道理で帰りの新幹線は遅い時間にしたがったワケだ」
「ツナ」

私は今まであったあれやこれを思い出して、はっと気が付いた。

「真依!! 気づいてたでしょ!!」
「なにが?」
「寮に連絡来た時! わざと私に名前教えなかったでしょ!」
「ワザとじゃないわよ、言い忘れただけ。それに何度か自分でも電話取ってたじゃない」

そう、何度かは私が呼び出しの内線を取ったけれど、その時には既に"狗巻さん"は常連と化していて、電話口の人ですらも「ミョウジさーん、いつもの人来ましたよー」くらいのレベルに格上げされていたのだ。
正門で私を待っていた"狗巻さん"だって、名前を聞いてもしゃけしゃけツナツナ明太子と宇宙語で返すものだから、私はいつしか彼の素性を聞くことを諦めていたのである。

「え、じゃあこの人が狗巻先輩の婚約者?」
「しゃけ」
「先輩から聞いてた話と随分違うんですけど」
「確か、向こうも乗り気で二つ返事で頷いたって」
「乗り気で喜んでたのは実家の老害達です」
「じゃあ婚約者さんは?」
「正直断りたいです」
「……ツナ、マヨ」

私がそう言うと、"狗巻さん"が消え入りそうな声で呟いた。
少し伏し目になった彼を憐みの目で見た東京勢が、物言いたげな顔でこちらを見る。

「だって、ちゃんと恋愛して、自分が好きになった人と結婚したいじゃない……身請けみたいな感じで顔も知らない人のところになんて嫁ぎたくない」
「高菜」
「棘はちゃんと写真送ったって言ってるぞ」
「届いてないです」
「いくら」
「指輪も渡したって」
「どこ経由でですか?」
「明太子、すじこ」
「……親経由で」
「…………」

私はゆっくりと携帯電話を取り出し、連絡先から迷うことなく一人の名前を選び出すと電話を掛ける。
その間に最強の呪術師・五条悟が何かを引いて通り過ぎていったが、私は気にも留めなかった。
コール音が止むと、聞き慣れた声が電話口から聞こえてくる。

『――――ナマエ? どうした?』
「お父さん、今東京に来てるんだけど」
『そうなんだ? 交流会だっけ?』
「うん。でね、狗巻さんと会ったんだけど」
『はぁ』
「私に指輪贈ってくれたって」
『……え?』
「写真も親経由で渡したって言ってるんだけど」
『…………ちょっと待ってて、』

電話口のお父さんは、どうやらたまたま家に居たらしい。携帯電話を持ったまま引き戸か何かを動かす音が何度か聞こえた。耳を澄ませてみると、父は誰かに声をかけているようだ。

『お義父さん、今ナマエから電話が来ているんですが』
『あぁそう』
『狗巻さんの家から何か送られてきたり、貰ったりしたものとかありますか?』
『写真と指輪なら来てる』
『……それって、ナマエには』
『言っとらんけど。今度ウチに顔出した時に渡しちゃろう思って』
『…………いつ、頂いたんですか?』
『写真は年始の挨拶の後で、指輪は……確かひと月半前か』
『……………………そう、ですか……ありがとうございます』
『はいはい。明日交流会が終わって、ナマエが帰って来たら狗巻のお宅に挨拶に行くもんで、美容院行って綺麗にしてから来いって言っといてくれや』
『はい…………失礼します……』

事情は理解した。つまり、うちのクソジジイとクソババアは"善意から"私に黙っていたわけだ。
ちなみに私は、交流会の後に実家に帰る予定は一秒たりともスケジュールには入れていなかった。

『ナマエ、聞こえたかもしれないけど』
「全部聞こえた。もう驚かないよ、言ってることはわかった」
『あの、実物は無理でも写真だけでも撮って送るようにするから』
「ありがとうお父さん……またね」

電話を切った私は特大の溜息を吐いた。頭痛が痛いとバカなことを言っても、今なら許されるだろう。頭痛は痛いし、眩暈も回るし、倦怠感で体が怠い。
私はファンシーなパンダを背景にしてこちらを見ている狗巻さんに改めて向き直る。

「……狗巻さん、明日交流会終わった後にウチと挨拶する話って、聞いてます?」
「しゃけ」
「それはどっちの」
「聞いてるってさ。ちなみにしゃけは肯定でおかかは否定だから、結婚するまでには憶えとけよ婚約者さん」
「……それは、ご親切に、ドーモ」

何の話も聞かされていない私が明日普通に京都へ帰ろうとしたら、この人はどうするつもりだったんだろう。また明太子おかかおかか高菜とか言って私を引き留めて、引きずってでも行くつもりだったのだろうか。

「……」
「ツナマヨ、」

こちらをじっと見ている狗巻さんへ私が胡乱気な瞳を向けると、彼はちょっと嬉しそうに目を細めた。
そして私の左手を取ると、男の人にしてはひらひらとした綺麗な指をするりと私の薬指に滑らせる。

「棘、おまえこれから交流会なのわかってるか?」
「しゃけしゃけ」
「可愛い可愛いフィアンセと殴り合うかもしれないんだぞ」
「しゃけ」
「……明日は雪が降るらしいぞ」
「しゃけ」
「聞いてないな」
「しゃけ」
「あの……手ぇ放してほしいんですが」
「こんぶ?」

なんで? という顔で狗巻さんは私をまっすぐ見つめ、小首を傾げた。初めてこの人の言語が理解できた気がする。

「これからミーティングですし」
「……おかか」
「もうちょっと、じゃなくて俺たちも呼ばれてんだから行くぞ」
「……」
「ハァー…………わかりました、こっちのミーティング終わったら明日の予定の話させてください」
「――――しゃけっ!」
「あの」
「俺は同席しないぞ。馬に蹴られたくないからな」
「蹴る理由もありませんが……」

仕方なしに狗巻さんと連絡先を交換して、私は京都のみんなと合流すべく小走りに走っていった。
手に持ったスマートフォンが早くも通知を告げる。

あのおにぎり星人と、この後どうコミュニケーションを取ればいいのか。それに加え、楽巌寺学長が発した"東京の一年・宿儺の器を殺せ"という言葉にも大反発した東堂先輩と私は、二人して自販機の前で溜息を吐いた。

久しぶりに訪れた東京には、頭を悩ませる問題しか待っていなかった。早く京都に帰りたい。

ミーティングをボイコットする少し前あたりから来始めた通知は、先ほどから長いものへと振動を変えている。アレと電話で話したところで、果たして伝わるのか?
慣れない敷地でどうにか狗巻さんと合流した私が「誤って罵声を浴びせた伏黒くんへ謝りたい」と告げると、狗巻さんは露骨に厭そうな顔をした。

……まだ、指輪も頂いていないんですケド。彼氏面するには早すぎるんじゃありません?











時は移り変わって秋口。

「ナマエ? コンビニ行くならついでにアイス買ってきて」
「自分で買ってきてよ……夜になってもいいなら買ってくるけど。雪見?」
「夜って、ナマエちゃん駅前にでも行くの?」
「……ちょっと、買い物行ってくるだけ」

気配を殺して共有スペースを通り抜けようとした私を見過ごすことなく、目ざとい友人たちはこちらへ視線を向けた。尋ねてくる桃と真依に何と言ったらいいかわからなくて、私は曖昧に言葉を濁す。

「え? 買い物っていうかデート行くって……」
「か・す・み・さ・ん? 昨日買ってあげたダッツ返してくれる?」
「アッ……ご、ごめんなさいつい口が」
「デート?」
「まさか東京の」
「だ、誰だっていいでしょ。霞は私が帰ってくるまでにダッツ十個用意しときなさい」
「二個貰っただけなのに五倍!?」
「口が軽い子には相応の罰が必要でしょ」
「そんなぁ」

それ以上追及される前に、私は小走りで寮の通用口を抜けた。霞め、覚えてろよ。帰ったら擽り三十分耐久コースだこのやろう。


あの交流戦から少し経ち、私の自室の小皿には綺麗な指輪が入れられている。
ダイヤモンドが輝くソリティアの婚約指輪は綺麗な意匠が施されていて、裏には彼のイニシャルと私のイニシャルが既に彫られていた。更に言うと、なぜか私の指にぴったりのサイズだった。どうやら彼は交流戦の前に私の指を触った時、既に私の実家へ渡していた指輪のサイズが誤っていることに気づいたらしい。
野球で勝敗を決めた後に実家へ向かう道すがら、嫌がる私を引きずってそこそこ有名なお店で指輪のサイズを測らせたのだ。そしてウチの老害……失礼、祖父母から小箱ごと婚約指輪を回収し、直したものを私の手元へ届けてくれた。

……今度は親経由ではなく、自分の足で京都まで。しかも任務でもなんでもないオフの日に。
高そうなダイヤのそれを付けて歩くほど私は能天気でも馬鹿でも無くて、頂いた婚約の証は自室に飾ってこっそりと眺めている。

「こんぶ!」
「お待たせ、真依たちに捕まって遅くなっちゃった」
「……」

いつもの待ち合わせ場所で手持ち無沙汰に携帯電話を弄っていた彼に声をかける。その眠たげな瞳が緩い弧を描くが、私の手元を見て彼は瞬時に目を細めた。

「どうかした?」
「……すじこ」

指輪、と少し不機嫌そうに零した彼の言葉に、私はその存在をすっかり忘れていたことに気づく。

「だって、学校でつけてたら皆に揶揄われるだけだし」
「高菜」
「はいはいごめんなさい。これでいい?」

バッグに入れていたアクセサリーポーチから取り出したそれを指に嵌め、彼に向かって右手を掲げてみせた。
東京でサイズを測るついで、とばかりにプレゼントされた有名ブランドのピンクゴールドのそれは、この人と会う時だけにつける特別なものだ。
……常日頃からペアリングをつけている棘からしたら、それが不服らしいけれど。

「しゃけ。高菜」
「誰も手なんか出さないって……だいたい、他に興味とか……ないし……」

恥ずかしくなって目を逸らした私の右手を彼がするりと握って、指が絡む。所謂恋人つなぎというやつだ。

「ツナマヨ」
「ん……だいぶ先になっちゃうけど、クリスマスとかどうする?」
「明太子?」
「東京のお店とか新幹線とか、考えとこうかなって……予約はまだできないけど」
「……すじこ、いくら」
「えっ」

どっか旅行、行く? と告げられた言葉に、私は思わず棘の方を二度見した。

「……何泊」
「……」

二十五日に休みを取って、金曜の夕方から現地に向けて出発。

「ツナマヨ」

四泊五日、とスマートフォンのカレンダーを見て呟いた彼の言葉に、自然と頬が熱くなるのを感じる。

「……どこに居るかとか、高専に届け出なきゃいけないでしょ」
「しゃけ」
「急に呼び出されたりとか」
「おかか明太子」

その時は速攻で祓って終わらせると棘が言って、繋いでいる手に力を込めた。

「……じゃあ外泊届、出しとく」
「しゃけ」

どこへ行くかまだ旅程は考えていないけれど、その四泊五日の間はこの指輪を外さなくてもいいのだ。
そう思うと、気恥ずかしさと心が弾むような感覚がない交ぜになって胃の中がふわふわする。

まだお泊りをしたことは無いが、実家の祖父母が知ったら「嫁入り前になんて破廉恥な」とか時代錯誤なことを言うだろうか。
その様を想像してつい零れそうになる笑い声を堪えていると、棘が不思議そうな顔でこちらを覗き込んでいた。

「ツナマヨ?」
「なんでもない。旅行楽しみだなーって」
「しゃけしゃけ」

そう告げ私は彼の手を引き、人混みを縫って歩き出した。







指名制婚約者






「で、ナマエちゃんはあんだけ嫌がってたくせに何だかんだと狗巻くんに絆されて、最近じゃ毎週末出かけてるわけ?」
「それに加えて遠出になった平日の任務帰りに落ち合ったり、毎晩電話してるらしいですよ」
「何それカワイイ。ラブラブじゃん」
「この間、街中で偶々見かけた時は手繋いでお揃いの指輪までつけてましたよ」
「外出するときだけつけてるの? 今度ナマエちゃんにカマかけてやろ」
「ていうか霞、そんなにペラペラ喋って大丈夫? ナマエにバレたら拳骨じゃ済まないわよ」
「ダッツ倍量で返せって言われた時点で開き直りました。こうなったら全てぶちまけて皆でナマエを揶揄おうと思いまして」
「いいわねそれ。もっと話しなさいよ」
「じゃあ、ナマエが外出前に二時間かけて服選びしてる話聞きたいですか?」
「そんなんしてるの! かわいいー聞く聞く!」








「あれ、狗巻先輩もう押し花やめたの? 最近ナントカフラワーの液体とか買ってたっすよね」
「しゃけ」
「プレゼント攻撃よりも素直に気持ち伝える方が効くわよ、ってアドバイスしてやったわ」
「高菜」
「お礼はダッツでいいわよ。箱でね」
「しゃけ」
「で、"東海の任務でたまたま会った時に一目惚れしたので縁談申し入れました"、ってちゃんと伝えたのかよ棘?」
「……おかか」
「婚約申し込むより先にそっちじゃね? ペアリング強要する話もだけど、呪術師の感覚ってそういうとこズレてますよね?」
「悠仁、言ってやるな。誰にも盗られたくなかったんだろ」
「しゃけ」
「しかもコイツの待ち受け見たか? 電車で居眠りしてるナマエの隠し撮りだってよ」
「うわ、隠し撮りとか流石にヒくわね」
「お、おかか」
「先輩そこはプリクラとかにしときましょうよ」
「……ツナマヨ」
「目隠しあるし自撮りと違ってキスのハードル下がるわよ」
「……」
「こら、百円玉の枚数確認するな。現地で崩せ」


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2021.01.13




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