*必ず先に注意事項に目を通してからお読みください
『今日買った服可愛かった』
『次のデートに着てきなよ』
送信元は棘。
その文字列を四度見した私の口から、気付けばこんな音が漏れていた。
「――――は?」
ことのはじまり
オーケー落ち着こう。
完全に日が落ちた任務帰りの新幹線の中。ふう、と息を吐き、もう一度画面を見つめる。
今日買った服。
私は昨日の前泊を含め、朝から晩まで新潟に居た。夕方になってお土産を買うために適当なお店に入って甘味を買ったけれど、決して服なんて買ってない。ましてや棘とは顔を合わせてすらいないのに。
昨晩棘に電話をしたときは後ろでテレビの音がしていたし、翌日――つまり今日――の予定を訊いたときもこう答えたのだ。
明日は後輩と出かける、と。
すぅっと頭の後ろが冷えていくような感覚がした。不意に手に力が入って、カシャリと機械音が鳴る。
あぁそうか。音量ボタンの下と電源のところを同時押しすると、スクリーンショットが撮れるんだった。
今まさに魚拓が保存された証拠として、右下に小さく窓が出た緑色のチャット画面をまじまじと眺める。
……と、私が見つめている窓と画面の間に差異が生まれた。
消える直前のスクリーンショットと一瞬で見比べ、どうやら先程送られてきた二つのメッセージが削除されたらしきことを理解する。
『ごめん間違えた』
『気にしないで』
「…………」
誰と? と返信してやろうか三秒迷い、結局その言葉は飲み込んで、違う文章と共に撮れたてピチピチのスクリーンショットを送りつける。
『おっけ〜お土産買ったから今新幹線』
自分でもどうかと思うくらいに平常通りの文章と、これみよがしに誤りを突きつける画像。温度差で身体が震えるより先に、気分が悪くなるくらい胃が焼け付いている。
棘はきっと、私が送った画像を慌てて確認したのだろう。次に送ってきたメッセージの横には私の“贈り物”とほとんど同じ時刻が記されていた。
『ごめんそういう意味じゃなくて本当に間違えた』
その文章にも『オケまる!』と軽く滑る指先で返信し、流れるようにもう一度スクリーンショットを撮った私はトーク画面の右上にある三本線を押して、迷わずに「通知オフ」のアイコンをタッチした。
そのままアプリを落とし、いつも使う予約サイトを開いて明日朝イチに予約が取れそうな美容院を探す。
案外、休日の開店直後は混んでいるらしい。
いつものお店は予約が埋まっていたし、他もなかなか合う時間がなかったものだから、仕方なく都内の主要駅にワンカットいくらで髪を切ってくれそうな店が無いかを探し始める。
棘が「好きだ」と言ってくれたこの長い髪。明日と言わず、いっそのこと今日切ってしまえ。
「……」
ここなら、新幹線から降りた後に移動して入れそうだ。
めぼしい店を探し当てた私は駅名と地図を頭に叩き込み、次に電子書籍のアプリを起動させる。
待ち時間の多い任務では、持ち歩きの紙の本は不便なことこの上ない。
高専に入って少ししてから買い始めた電子の本は、そんな理由でだんだんと数が増え、きっと現実に存在するなら寮の部屋は足の踏み場もなくなるだろうなと想像しては苦笑するほどだ。
手に収まる程度の液晶画面では、文庫を読むのはなかなかに厳しいものがある。文字のサイズを変更できるのは便利だけれどやっぱり紙の本に勝るものはないな。
『ナマエちょっとだけ電話したいんだけど』
読み途中だった物語の中盤。ちょうど行頭の単語を視界に入れた途端、画面上部からそんな文章が下りてきて私の読書の邪魔をした。
「……」
棘との個人チャットは通知を切っているし、つまり棘は私たち二年生が全員含まれているグループにメッセージを送ることにしたらしい。
仕方ないので緑色のアプリケーションを立ち上げ、棘個人とのやり取りを示すパネルの端に表示されている赤い未読のマークと二桁の数字は見なかったふりをして、『里香と愉快な仲間たち』と名前の付けられたパネルをつつく。
これは確か、前に棘がふざけて変えたグループ名だ。確か以前は『乙骨憂太を歓迎する会』とかなんとかいう名前だった気がする。
『電話出てほしい』
追加で送られてきたその文章に『新幹線だからごめん〜』とだけ送り返す。
『ここでやんなよ』
『夜には帰ってくんだろ我慢しろ』
どうやらちょうど通知に気付いたらしい。パンダと真希が棘と私のやり取りに反応してメッセージを送って寄越す。
私の吹き出しの横には既読という文字と数字と時刻が表示されていて、どうやら憂太だけがこれを見ていないのだということまでは理解した。
『お土産みんなの分も買ったからね!』
『いえーいふとっぱら』
『本当にごめん』
『新潟銘菓?』
『美味しいやつ!』
『誤解だから説明させて』
いつもどおりのやり取りの中に挟まる棘の文章。
真希もパンダも伊達に一年と少し友人の座に居るわけじゃない。私たちが何かしらの問題を抱えているのだということを察知したのか、ほんの少しの間だけメッセージの送信が止まる。
『電話させてお願い』
『説明する』
『よそでやれ』
真希のそのメッセージを区切りにして、全然別の知らないトーク画面からの招待メッセージが届く。
面倒くさくなった真希が新しいグループを作って、棘と私をそこに突っ込んだのだ。もちろん話すつもりもないので参加するだけ参加して、真希が退室したと表示されるのとほぼ同時に「通知オフ」のアイコンをタッチして画面を閉じる。
私が棘の連絡先を消してしまわないのは、ひとえに呪術師という肩書の為せる技だった。
緊急の時に連絡が取れないのは困るし、かといって応じるつもりのないメッセージが延々と表示されるのは鬱陶しいし、他の物事に差し障りがある。
緊急の時はこんなアプリじゃなくて、ちゃんとした電話の方でかかってくるしね。
そんなことを考え、読書に戻ろうかと画面を切り替えたところで、今度は別の同級生から連絡が来た。
『今隣に狗巻くんがいるんだけど』
困り果てて親友に伝書鳩を頼んだのか、と一瞬呆れかけたけれど、憂太が続けて送ってきたのは私の想像とは違う文章だった。
『何か伝えておいたほうがいい?』
『棘の分もお土産あるから安心してね、以上 でよろしく』
『了解』
『ごめんね』
かけている迷惑には不釣り合いな謝罪の長さだったけれど、ここで長々と謝ったところで余計迷惑をかけるだけだ。
憂太からは気にしないでという意味を含んだスタンプが送られてきて、棘の親友という立ち位置に甘えてしまったなと改めて申し訳なく思う。
「……」
無言で自分の髪を触り、長さを確かめた。
胸下まで届くストレート。綺麗だと棘が褒めてくれたから伸ばしていた黒髪。
ワンカットいくらだけじゃなくて、いっそついでにピンクにでも染めてやろうか。
……そう思うのは、髪に対するただの八つ当たりだった。
高専の校門が近づくにつれ、だんだんと鳩尾から上が熱く痛みを訴えるようになっていた。
それとは対象的に、肩口より少し短めにまっすぐ切り揃えた髪のせいで露出した首元が少し涼しい。
棘が用意して、一緒につけようと懇願されてつけるようになった、ペアリングを通したチェーンも外気に触れて冷えていた。
「……」
棘の博愛主義は、今に始まったことではない。
街中で困っている人がいれば声をかける。泣いている子供、荷物が重そうなお年寄り、違法駐車の自転車の群れに向かって転倒した人、荷物で両手が塞がっていて扉を開けられない人。道に迷った人に声をかけられることもある。
語彙を絞っているせいで他人とのコミュニケーションを嫌がる、ということは無い。通じなくて困ることもあるけれど、大抵の人は棘が優しいということを知ると「この子は言葉が不自由なのに助けてくれたんだな」と好意的に捉えてくれるからだ。
別に棘は不自由なわけじゃない。選んで、そうすることに決めたのだ。人のために。自分のために。
だからこそ、私は棘のことを好きになった。博愛主義の棘が、それでも私を一番に想っていると言ってくれて、その熱意に惹かれて恋人という立場を受け入れたのだ。
……悲しいことに、棘はその優しさのせいで女性関係のトラブルに巻き込まれることも多かった。
しかも面倒くさいタイプの女にロックオンされるのだ。
話せなくたっていい。皆に分け隔てなく優しい。眠たげな瞳がミステリアスで素敵。たまに緩む目元がカッコいい。
私にわざわざ絡んでくるような子は少なかったけれど、それでもゼロじゃない。彼女たちはああだこうだと理由をつけて棘を頼るフリをして、彼の博愛主義に甘えている。
棘は別に不特定多数にモテたいわけじゃなくて、困っている人を見捨てられないだけだ。
だから「今度何かあったら連絡していい?」と言われたら、困りながらも最終的には連絡先を交換してしまうし、相談事にも乗るし、呼び出されたらよっぽどのことがない限りは会いに行ってしまう。
私という恋人がいるから「今度ご飯食べに行こうよ」とか「狗巻さんのことが好きです」といったような、直接的な誘いや連絡は目を通すだけで放置しているみたいだけど。計画を立てて相手を落とそうと画策する女にとって、『狗巻棘』という不落の城はさぞや魅力的に見えたことだろう。
どれだけアタックして自分の存在をアピールしたって、棘が相手を恋愛感情で見ることはないのだ。それに気付かず、悩み相談と称して棘に甘えて擦り寄って、そろそろ落とせるだろうかと舌舐めずりをする。
私もそんな彼の博愛主義を理解して付き合っている。
……でも、理解することと受け入れることは、似ているようで全然違う。
そこにどんな理由があったかはわからない。でも棘が私以外の人にデートという単語を使ったことと、可愛いねと言ったことは事実なのだ。
いっそ泣き喚いて周囲に当たり散らしてやろうか。心配させるだけ心配させて、夜も寮に帰らず、すべての連絡を無視して彼の愛を試す。
追いかけてきてくれるだろうか。それとも土下座でもして謝ってくれるだろうか。
――――そうしたら、私の心臓の痛みを理解してくれるだろうか。
そう思ってもやらないのは、私がそこまでぶっちぎった子供になれないだけだ。思い通りにならないから癇癪を起こして駄々をこねるなんて、みっともなくて想像するだけで気分が悪くなる。
だから、今まで棘が女の子にトラブルを押し付けられても見て見ぬふりをして、焼け付くような胃の不快感を放置してきただけのこと。
子供のようになりたくないという考えはあれど、棘からの連絡を黙殺してわざと普段通りに振る舞うことも、当てつけのように髪をバッサリと切ることも、それと殆ど同義なのではないだろうか。
……あぁ嫌だ。胃が気持ち悪い。
怒りよりも諦めと悲しみが感情の大部分を占めていて、それなら今まで通り気付かなかったふりをして、棘の謝罪を受け入れた方がいいんじゃないかという気さえしてくる。
「……重いなぁ」
手に持つ新潟銘菓がやけに重く感じた。
中に入っているのはただのお土産なのに、何か見えないものでも手提げ袋の隙間いっぱいに詰められているかのようだ。
早くこれを下ろしてしまいたい。どこか机にでも置いて、早く皆に食べてもらおう。
私とすれ違うことを危惧したのか、棘は携帯片手に寮の入り口で壁にもたれて立っていた。
――――その指には何もつけられていない。呪具を扱う私は肌見放さず首にかけているのに、どうせ今日の昼間に会った女の子にでも気を使ったか、何か言われたかして外したんだろう。
……彼女がいる自覚なんて、棘にはないのかもしれないな。
「いく、……っ、明太子」
「ただいま」
ひときわ胸の痛みが強くなった。痛みというよりも、最早気管支いっぱいに詰まった銅が熱によって膨張して、中から私の胸を破裂させようとしているみたいに苦しい。
正面から棘に向き合うことも難しくて、お土産を渡すので精一杯だ。
棘が一瞬言葉に詰まったのは、きっと私が急にバッサリと髪を切ったから動揺したのだろう。ざまあみろ。
棘が気に入ってた長い髪は、今頃ゴミ箱の中に居るに違いない。
「すじこ、た」
「お土産これね。こっちは棘の分。この間ハンカチ失くして困ってたでしょ」
「高菜」
「日本海側はちょっと寒かったから、温度差で疲れちゃった」
「ツナ、」
お土産をすべて押し付けられた棘は、いったい今どんな顔をしているのだろうか。
「だから今日はもう寝るね」
顔は向けずに棘の方へ流し目をやってそれだけ言うと、棘の言葉も聞かずにさっさとその場から立ち去った。
「棘の謝罪を受け入れた方が」とか考えていたくせに、いざ本人に会うと胸が痛くて苦しくて、私はこんなにも痛みに弱かったのだと思い知る。
――――明日が休日でよかった。こんな顔じゃあ教室で皆に心配をかけてしまいそう。
翌日と翌々日は棘どころか皆に会うことすら避けて、殆どの時間を自室で小説を読むことに費やした。
その間に同級生から『ナマエチョイスはハズレがなくて最高』という称賛のメッセージと、後輩の伏黒からは『お土産美味しかったです、ありがとうございます』という可愛らしいメッセージが届き、それとは別にドアのノック音が合計五回響いたけれど、私が返事をしたのは前者のふたつだけだった。
返信する途中、いつもの癖で髪を耳にかけようと手を動かして、何も触れず空を切ったことにショックを受ける自分が居た。綺麗だね、って言いながら髪を撫でてくれる、あの手が好きだったのに。
日曜の夜に一度、緑のメッセージアプリではなく十一桁の数字が表示される方の電話が鳴った。
ちょうど電子書籍を読んでいた私は、間髪入れずに応答の文字を押して電話に出る。
「もしもし」
『……』
数字の上には狗巻棘という文字がちゃんと表示されていたから、電話口にいるのが棘だということくらいは把握している。
私が電話に出るのは当たり前のことだ。だって、緊急事態だとしたら一分一秒を争うかもしれないのだから。
「何かあった?」
『……、』
「棘? 今どこ? 外?」
『おか、か』
寮に居る。その言葉を聞いて緊張の糸が解ける。
私が公私混同を良しとしない性格だということを理解していて尚、棘は私が電話に出たことに驚いているようだった。
『……』
「……何か緊急の話?」
『しゃ……お、おかか』
「そう……」
緊急じゃないならいいか。そう判断して「それじゃ切るね」と告げると、慌てた声で「ちょっと待って」というような言葉が聞こえてくる。
「……」
『……いくら、ツナマヨ』
「……誤爆の話?」
『っしゃ、しゃけ』
会って説明させてほしい、と懇願するような声が聞こえてきて、会話を諦めた私は携帯電話を耳から離す。
「明日でいい? もう眠いんだ」
彼が何か言ったような音がしたけれど、スピーカーは遠すぎて私には何もわからなかった。
月曜日。すべての授業が恙無く終わり、棘に手を握られ一歩後ろを歩く形で校舎脇のベンチに連れてこられた私は、言われるがままにそこへ腰を下ろし、包み込むように握られた両手を眺めながらぼんやりと彼の言い訳を聞き流していた。
「明太子」
「うん」
「ツナマヨ、こんぶ」
「そうなの」
「しゃけ。……高菜?」
「ううん。大丈夫」
基本的にすべての言葉には相槌を打って、語尾が上がる単語は疑問形だと判断して「大丈夫」と返す。
……日本語って便利だ。「大丈夫」はまるで神様が用意した魔法の言葉みたいで、「もういいよ」「わかった」「問題ない」のどれにでも使えるオールラウンダー選手。
しかも棘の言葉は、理解しようと努めなければただのおにぎりの具でしかないから、たまに理解できてしまう意味以外は思考の上を横滑りしていく。
たぶんあのメッセージの理由を説明しているんだろう。聞いたところで理解はできても、受け入れられなくて苦しむことは容易に想像できたから、説明なんて最初から聞くつもりはなかった。自分を守るため、これからもこの関係を続けていくため、と私自身に言い訳して、絞られた語彙を駆使して説明しようと頑張っている棘の気持ちを踏みにじるような、最低な手段。
「うん」
「ツナマヨ、め」
「――――あ、狗巻くん!」
少し遠くから聞こえた女の子の声と、こちらへ近づいてくるような足音。
隣に座って私の両手を握っている棘の手。誠意を見せようとしたのか、今日はペアリングをつけているらしい。彼の指元の輝きに固定していた視線をそちらへ向けると、可愛らしいひらひらしたワンピースを着た女の子が小走りに近寄ってくるところだった。
「……」
「高菜」
「ごめんね狗巻くん、今ちょっとだけいいかな……?」
「……」
「お、おかか」
「ほんとにちょっとだけなの!」
「…………、……しゃけ」
ひらひらふわふわした、男ウケしそうな服を着た女。仕方なく頷いてみせた棘が私の手を放して立ち上がる。
……そういうところだ。棘のそういうところが、たとえ幻覚であっても、鋭い刃物のように私の臓器を抉っていく。
「金曜はお洋服選ぶの手伝ってくれてありがと!」
「すじこ」
「昨日ね、あの服着てデート行ってきたんだけどぉ、全然上手くいかなかったの」
「……ツナマヨ」
「だからね、今度また選んでほしいなぁー、なんて……」
「お……おかか」
女子とベンチに二人きりで座って、手まで繋いでいる男にわざわざ声をかける理由なんて、最初から決まっている。
この女は甘ったれた言葉を吐きながら私にアピールしているのだ。
「私は狗巻くんを狙ってるの」「真剣な話を中断してまで私の話を聞いてくれるんだから」「この間は一緒に買い物に行ったんだからね」
言わなくてもわかってる。棘に向けている笑顔の仮面の裏にびっしりと生やした棘で、彼女は私を刺そうとしているのだ。
なんで棘はいちいちこんな面倒な女にロックオンされてしまうのだろうか。理解に苦しむ。
「……そうだよねぇ、いっつも狗巻くんに頼ってちゃダメだよね」
「いくら」
「でもぉ……っ狗巻くんはぁ、私の相談乗ってくれて、私に似合う可愛い服選ぶセンスもあるしぃ、う、うぅ」
「お、おかか」
「ごめん、狗巻くんが優しいからいっつも泣いちゃうのぉ……っ迷惑だよね、ごめんねぇ」
「……おかか、ツナマヨ」
「ぐす、うぅ……ひぐ」
冷めた目でそのやり取りを眺めている私に見せつけるようにして、演技派の小賢しい彼女は涙を流してみせた。
するとどうだろう、棘は慌てた様子で肩に手を置こうかどうしようか迷って――私が居ることを思い出したのかもしれない――女の子の体に触れるようなことはせずに、ポケットに手を突っ込んだ。
「ツナツナ」
「ふぇ……いいよ、汚しちゃうぅ……」
「おかか、すじこ」
そのポケットから出てきたのは、金曜の夜に新潟土産として棘に渡したハンカチだった。
私の彼氏であるはずの棘は、泣いている女の子へそれを差し出して「泣かないで」と涙を拭くように声をかけている。
「使っていいの? えへへ、狗巻くんってやっぱり優しいね……あっ! ご、ごめんなさい、ハンカチ汚しちゃったぁ……!」
「め、めんたいこ」
見れば、棘にあげたハンカチには薄っすらとしたファンデーションの肌色と、可愛らしいピンク色のグロス跡が刻まれていた。
……目元を拭くだけで、口紅がつくわけないでしょ。
さも「うっかり汚してしまいました」という風を装った女は、あろうことか「お化粧品だからもう落ちないかも……本当にごめんね」と嘯いている。
アカデミー賞主演女優賞を狙ってるお馬鹿さん。……知ってるよね? 服についたソレはあなたの顔とおんなじで、完璧ではないにしろ、毎晩メイク落とす時に使ってるやつで落ちるんだよ。
「おかか高菜、」
「うん。本当にごめんねぇ……あ、そうだ! これね、次にデート行けたら彼にあげようと思って持ってたんだけどぉ、よければ使って?」
「お、おかか」
「大丈夫だよ、新品だからっ!」
困ったように首を横に振る棘へ、彼女が鞄から取り出して押し付けたそれは、ラッピングがされていない未開封の男物のハンカチ。
……「次にデートに行けたら」なのに、常日頃持ち歩くわけないでしょ。しかもプレゼント包装もせずに。わざわざ棘のハンカチを借りてから差し出してくるくらいなら、最初から自分で使えばいいのにね。
どことなく結末は見えていたけれど、もしかしたらという淡い希望に縋り付くみたいに静観してしまう。
バカな私。……さっさとこの二人を置いて、寮に帰ってしまえばよかったのに。
「しゃけ、ツナマヨ」
「もしかして、褒めてくれたの? えへへ、センス良いでしょ。ありがと! じゃあこれと交換こだねっ!」
別に褒めたわけじゃないのに、棘の言葉を半分も理解していなかった女は「じゃあまた連絡するね!」と大きな声で言い置いて走り去っていった。
…………私が棘にあげたはずのハンカチを持ったまま。
「こんぶ」
「……もういいの?」
「しゃけ」
「そっか。新しいハンカチ貰えてよかったね、棘」
びく、と肩を震わせた棘が無言で固まった。
別にハンカチを汚すなとか人にあげるなとは思ってない。誰かが怪我をしたり、何かを包む必要があったり、使わなきゃいけないときは迷わず使ってくれて構わない。
泣いてる女の子に差し出すのだって、間違っているとは思わない。
それでもあんな見え透いた罠に引っかかって、メイク落としのことを知らなかったとはいえ、洗えば問題なく使えるはずなのに取り返しもせず。あまつさえ贈り主である私の前で、押し付けられた代用品に「ありがとう」とお礼を言える精神に呆れただけだ。
それ以上に……あのハンカチはもう棘のものなのに、勝手にショックを受けている私も。本当に呆れちゃう。
「可愛い柄だね。あの子センスいいよ」
私にもわかるブランド物のロゴに加え、品のいい色をした犬がプリントされた、男物のハンカチ。
ホント、“狗巻棘”によく似合う。
汚すのを躊躇ってしまいそうなくらいセンスがいい。
「っおかか、」
「で、私たち何の話してたんだっけ?」
「……こんぶ」
「じゃあもうおしまいにしていい? 説明聞くの疲れちゃった」
「おかか明太子」
「もう言い訳しなくていいよ。ミュートも解除しとくから」
そこまで伝えてベンチから立ち上がり、スカートのお尻をパタパタと叩いてから踵を返す。
「高菜!」
「……」
腕を掴まれそうな気配がしたから迷わず術式を使った。棘と私の間に白くて薄べったい壁が現れて、伸ばそうとした手をぶつけたらしきべちりという音がする。
「っ………待っ、」
「ねぇ」
彼の言葉を遮って、振り返る。
「まさか、私に呪力で守らせるなんてこと、しないよね」
「…………」
私の言葉に物言いたげな表情を浮かべ、数度瞬きを繰り返した棘は、小さく頷いてから「しゃけ」とだけ言う。
「そう。ならよかった」
そうして私は、さよならの言葉だけを置いてその場を立ち去った。
……あぁそうだ、ついでに“元”彼氏も置いてきんだった。
胃は焼けるように痛かったけど、荷物はだいぶ軽くなったから、この痛みもいずれ消えるだろう。
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2021.07.15
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