新年度、急遽決まった京都高専から東京高専への異動は光の速度で事が進み、気付けば私は伊地知さんの下で補助監督業務に勤しんでいた。
元々私は高専卒業後に一般企業で事務をやっていたから、伊地知さんが必要とするスキルはおおよそ備え持っている。たぶん東京高専の伊地知潔高という補助監督がそろそろヤバい、という話が京都にまで響いてきて、こりゃ一大事だと火消し役に私を放り投げたんだろう。
その証拠として私は補助監督の身分にもかかわらず、任務への送迎や帳を下ろすことよりもパソコンの前に座っていることの方が多かった。
そんな中でも、数少ない呪術師送迎に駆り出される相手は決まっている。
今も大火事の中にいる伊地知さんへ、どんどん燃料を追加している張本人だ。

「よかった、今日は君が来たんだね」
「伊地知さんはお忙しいので……あまりに五条さんの無茶ぶりが多いから代理を申し出たんです」
「ウンウン、伊地知は僕の機嫌の取り方をよく心得てるよ」

上機嫌で頷く当代最強の呪術師、五条悟。呪術界でその名を知らない者は居ない。もちろん私たち補助監督もだ。

どちらかと言えば九割方悪い方向に有名である。

私も京都から東京へ異動してきて、まず最初に伊地知さんから引き継がれたのが「五条悟取り扱いマニュアル」だった。
好きなお菓子の銘柄、車内でかける音楽、行きつけのクリーニング店の連絡先、普段着として買うシャツを取り扱っている有名ブランド店の支店長の名前、仮眠から起こす時は肩を叩かないこと、スマホの充電器はいつも二個以上持ち歩くこと、等々。
こんな細かくて面倒なことを、東京高専の補助監督の方々は頭の中に入れているのか。
そう思うとげんなりする気持ちよりは尊敬の念が強くて、私も必死になって「五条悟取り扱いマニュアル」を頭の中に叩きこんだ。

……にもかかわらず、五条さんからのイレギュラーな要求は後を絶たない。
『伊地知にサーティーワンのアイス買ってから迎えに来てって言っといてネ』
陽が落ちかけた黄昏時。五条さんから伊地知さん本人にではなく、なぜか私個人に送られてきたメッセージの後には、五条さんがいつも好んで食べる味と季節限定フレーバーの名前が続いていた。
今日の伊地知さんはデスクの上にある書類を片付けるのに半日潰されていたから、五条さんの呼び出しには伊地知さんの代わりに私が応じたのだ。

伊地知さんの目の下のクマには毛ほども興味の無い五条さんは、ニコニコしながら助手席に乗り込んでしっかりとシートベルトを締めると、「早くドライブしようよぉ」とわざとらしく甘えた声を出す。
私がいつも後部座席に積むようにしている、小型のクーラーボックスから先のメッセージ通りに用意しておいたアイスを出して手渡すと、紙袋の中からカップ取り出して五条さんが嬉しそうに言った。

「おっ。ちゃんと買ってきてくれたんだ〜! 僕これ大好きなんだよねぇ」
「……高専まででいいですか?」
「えー。さとるぅ、せっかくならぁ、ドライブデートがいい〜」
「丸の内通るのでそれで我慢してください」

私は早く帰って、伊地知さんの手伝いをしなければいけないのだ。手のかかる三十路男に付き合って、そんな悠長にドライブデートなんかしてる暇はない。
お気に入りのアイスクリームを前にして機嫌がいいのか、五条さんはそれ以上文句を言うこともなく、プラスチックでできたピンク色のスプーンでカラフルなアイスを掬っている。

「ホント、君が運転する車ってすっごく居心地がいいんだよねぇ」
「それは良かったです」

そうなるように努力してますからね。
後部座席ではなく何故か助手席に座りたがる五条さんのために、私は出発前にわざわざ一度助手席に座ってシートを目一杯引き、脚を伸ばすスペースを確保してからこの人を迎えに来ているのだ。
初めて送迎した時に「僕は脚が長いからこれじゃ狭い」だの「僕を車に乗せたくないってことなの」だの「これじゃ結婚どころか恋人もできないよ」だのと散々文句を言われて駄々をこねられて、拗ねた五条さんの機嫌が良くなるまで車に乗ってもらえず非常に面倒くさかったので。

そんな私の努力も当たり前のように興味が無いのか、アイスをスプーンに乗せた五条さんは「はい、あーん」と言って私の口元へ差し出してくる。

「んむ。」
「どう? 美味しい?」
「いつもの味ですね」
「じゃあこっちは?」

季節限定フレーバーのハニーレモンだよ、ハニーちゃん。とふざけたことを言いながら私の唇に押し付けられそうになったそれを慌てて口に含む。
これも、五条さんを車に乗せると毎回やられるものだから慣れてしまった。最初のうちは「運転中なのでやめてください!」と抵抗していたけれど、私が食べるまでむにむにとアイスを押し付けてくるし、そのうち溶けてスーツに零れたりして散々な目に遭ったからだ。
呪術界最強であるはずの男のこういう行動は、五歳児が「さとるのこれ、おいしいからおすそわけでちゅ!」と言っているようなものだ、と諦めるようにしている。
時折思いついたかのように「や、やだ! これってもしかして……間接キス!? キャー! えっち!!」なんて照れたふりをする五条さんをあしらうのも上手くなった。

……伊地知さんにこの話をすると、微笑ましいものを見るかのような目つきをされるので、たぶん伊地知さんも同じ目に遭っているのかもしれない。私が「五条悟取り扱いマニュアルに追記しておきましょうか」と尋ねても「いえ、それは書かなくて結構ですよ」とやんわり拒否されたのは数週間前のことだ。

「どう? 美味しい?」
「はぁ、美味しいですよ」
「最初のとどっちのが美味しかった?」
「あー……」

ちょうど今通っている道はオフィス街が近いからか、横断歩道でもないのに人が飛び出してくることが多い。当たり前だが安全運転をするためにはそっちに気を回さなければいけないので、正直言ってこういう時の五条さんの対応は面倒くさいことこの上ない。

「ねぇ、どっち?」
「うーん」

やたらと交通量も多いし、路駐もいるし、自転車も通るし、脳内年齢が五歳児である五条さんへの返答がおざなりになるのは見逃してほしい。

「季節限定?」
「あぁ……まぁ、どちらかと言えば……んー」

ちょっと、前の車ウインカー出すの遅すぎなんですけど。

「僕の好きな方?」
「あー、そうですね」

あぁもう気が散る。この人ほんの少しだけ黙っててくれないかな。
丸の内に行くにはどの道を使えば早いんだっけ。

「僕と食べるアイス、美味しい?」
「まぁ……はい、そうですね……」

確か二つ先の交差点を……いや違うな、この次を右に行った方が空いてるか。
それにしてもなかなか信号変わらないな……

「僕のこと、好き? それとも嫌い?」
「あー、はぁ……」
「どっち? 好き?」
「どちらかと言うと……うーん。そうですねぇ」

帰ったらたぶん五条さんの報告書は私が代筆する羽目になるだろうから、着いたら自販機でコーヒーでも買うか。そうだな、夕飯は出前でも取って伊地知さんと一緒に食べるのがいいかもしれない。

「じゃあ僕と付き合ってくれる?」
「あぁ、はい、いいですよ――――え?」

え?
今この人とんでもないこと言わなかったか?

疲労で幻聴でも聞こえたのかと慌てて五条さんの方を見ると、満足そうな顔をして「あ、やっとこっち向いてくれた」と言って最強が破顔する。

「い……今、なんの話してました?」
「あれ? いいですよって言ったよね?」
「は、はぁ……まぁ言いましたけど」
「ありがと。じゃあ今日から恋人同士ってことでヨロシク」
「あぁそういう…………は!?」

空になったアイスのカップを何事もなかったかのように紙袋へ戻した五条さんは、「ワガママ言って京都から引き抜いてきた甲斐があったな〜」という言葉と共にポケットから携帯電話を取り出すと、鼻歌混じりにどこかへ電話をかけ始める。

「……あ、伊地知ぃ? もしもし、僕だよ僕。え、わかんない? ……、……いやそこはわかんないって言えよ。五条悟鉄板の僕僕詐欺だよ?」
「ちょ、ちょっと五条さんあの今の」
「空気読めよ伊地知。ノリ悪いなぁ〜……え? いやいやぜーんぜん道に迷ってる。……、ウンウンそういうこと。……、……いやそういうことはそういうことだよわかれよ」
「待ってください私もわからないです説明を」
「あーハイハイ。じゃあ僕これから伊地知の可愛い後輩ちゃんとラブラブドライブデートだから! チャオ!」

五条さんが電話を切る間際、スピーカーから伊地知さんの「ちゃんと説明してください!」という悲鳴が聞こえたけれど、どちらかというとそれは私の台詞だった。

「五条さんあの、」
「夕飯まだでしょ?」
「いや帰ったら伊地知さんと店屋物でも頼もうかと……それよりさっきの」
「君と付き合ったら行きたいな〜と思って、前々からチェックしてたとこがあるんだよね〜」
「ごじょ、」

プー、と後ろからクラクションが飛んできて、既に交差点の信号が青になっていることに気付く。
後続車には心の中で謝りつつ、横で上機嫌に「これから先の話」をほざいている最強へガンを飛ばした。

「五条さんちょっと誤魔化さないでください、さっきの話ですけど」
「もう送迎は僕専用にしてもらってるしぃ、あとは実家に挨拶に行って、あ、そうだ婚約指輪用意しなきゃね」
「会話のドッヂボールが酷い。そもそも付き合うとかまだ」
「どっちがいい? めちゃくちゃ派手なダイヤがついててワンパンでヒト殴り殺せそうなやつか、控えめでシンプルなデザインのやつ」
「それはもちろんヒト殺せそうなやつは嫌ですけど、……っじゃなくて恋人ってなんの」
「婚約成立のお言葉頂きましたァ!!」
「了承してません!!」



五歳児の選択話法


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お題:選択肢

2021.06.02



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