それは五月も半ばになった頃。
私はまだまだ同級生の輪の中に入れずにいた。

元々、初めましての人と仲良くお喋りしなさい、と急に言われてもうまく立ち回れない質だったし、何より……他人の周りには恐ろしいものが漂っていることが多かったから。
小学生の頃から見えていたそれはどんどん彩度を上げて、ついにはハッキリと声まで聞こえるようになったのだ。
「思春期特有の思い込みか何かだろう」なんて両親はまともに取り合ってくれなかったけれど、私だけはこれが“ただの気のせい”なんかではないことを知っていた。

「Aクラの後藤君さぁ、カッコいいと思わない?」
『か……お……』
「わかる〜。カノジョとかいんのかな」
「いないんだったらあたし立候補しよっかな」
『……っこ、ほ』
「アタックしちゃえば? 絶対お似合いだよ」
『う、そ……つき』

あの女の子達も、四月に入学した頃は普通の子に見えたのに。ひと月経つ頃には醜い怪物が肩の上に乗っていた。でも彼女達にも他のクラスメイトにも誰も見えないようで、唯一見えるらしき私にできることは「気付かないふりをして距離を置く」というシンプルな戦法だけだった。

どうやら彼女達には、それが気に入らなかったらしい。

「――――てかね、後藤君って好きな子いるらしいんだよね」
「えー? だれだれ?」
「それがさぁ……」

そこで彼女達グループは声を潜め、ひそひそと耳打ちをしてから「うっそぉ!」と非難するような声を上げ、チラリと私の方を見た。

「!」

サッと視線を下げた私はきっと不自然だっただろう。良い意味を含んでいないことがありありとわかる声色で、彼女達は囁き合っている。

「マジで?」
「ないわぁ……誰とも話さない根暗女のくせに」
『わ、かるぅ』

私が視線を逸らせたのはもちろん彼女達が怖かったからというのもあったけれど、あの子達がこちらへ顔を向けた瞬間に、肩に乗せていた醜い怪物もこちらを見たからだ。
経験上、アレと目が合ったら良いことにならないのはわかっていた。向こうが私に興味を失くして諦めるまで付き纏われる羽目になる。

「……」

学校という場所は義務教育の期間が終わっても尚、どこかのグループに所属していないと攻撃される、戦場のようなところだった。みんな小魚の群れのように寄り集まって、四六時中誰かの噂話をしている。あの恐ろしげな化物は……そういう小魚が身に纏う空気のようなものを食べて生きているのだと思う。
受験勉強をして都内の高校に通い始めてもずっとずっと変わらない、それどころかピントが合うみたいに明瞭になっていく視界はとてもとても怖かった。


私に対する“付き纏い”が始まったのは、クラスメイトの子達の視線を感じてからすぐのことだった。


『ね、ね』
「……」
『ズル。ね……くら、オンナ』
「…………」

授業中も帰宅途中も、お風呂に入っている時さえも。私の斜め後ろに立つソレは諦める気配すら見せない。
そして今日。通学途中の電車の中、電車から降りようとしたところを入り口に通せんぼする形でそいつに阻まれて、私はついに高校へ行くことを諦めた。

――――遅刻確定だな。

朝の時間帯の中央線は、都心から逆方向の山の方へ向かうにつれどんどん人が少なくなっていく。新宿で降りて乗り換えなきゃいけなかったのに、その真っ黒で醜い怪物は私が扉を通ろうとするとするりと間に入ってきて道を塞ぐ。押しのけて通るなんて怖いことはできなくて、私はいったん引いて座席へ戻る。次の駅について立ち上がって、また通せんぼされて、座席に腰を下ろす。
何度かそんなことを繰り返しているうちに、ついに化物は私が座っている座席の前に陣取って逃げ道を塞いでしまった。

――――もう、楽になりたい。

なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。もう車両には私以外乗っていなくて、俯いた視界の端っこに見える車窓の景色は緑ばかりになっている。

『なんでぇ。こび、……ぶりっ子』
「私にもわかんないよ……」

このまま終点まで行ったらどうなるんだろう。折り返して新宿まで戻れるだろうか。それともこいつにバラバラに引き裂かれてしまうんだろうか。
それならいっそ、次の駅でこの怪物を押しのけて一か八か電車を降りた方がいいのかもしれない。

そんなことを考えた数秒後、耳慣れない駅名のアナウンスが車内に響いて電車が止まった。
ぷしゅ、とドアが開いた音がしたから意を決して顔を上げる。

「…………あ」
『ぶさいくな、かおよね』

息がかかりそうなくらい至近距離でそいつと目が合って、力尽くでも下車してやろうという気は完全に失せた。


――――もう無理だ。頑張れない。


「っおい傑、そっち逆だろ」

こんな田舎みたいな駅にも人が居るんだ。

「は? つかなんでンなとこに呪霊」
「ごめん先に行ってて」

聞こえた声にそんな間抜けな感想を抱いた瞬間、ばたばたと何かが走る音と共に電車の扉が閉まった。
閉じた窓の向こうから「何やってんだよバカ!」とくぐもったような声が聞こえている。
私を凝視していた醜い影がめしょりと潰れて視界から消えた。代わりに飛び込んできたのはもっと黒くて夜のような色をした制服に身を包んだ男の人。

「大丈夫ですか?」
「……」

この人も、人の形を模しただけの化物だったらどうしよう。

一瞬だけ頭を過ぎったそれを否定するかのように彼は柔らかく微笑んで「怖かったよね」と口にする。

「もう心配いらないよ」
「なに……?」
「君に憑いていたモノは祓ったから。もうアレに付き纏われることも無いし、安心して」

顔に一筋かかった前髪が印象的なその男の人はとても背が高くて、まるでとび職の人が履いているような形に制服のズボンを改造していて、どう見ても怪しそうなのに……なぜかその言葉にはひとつも嘘が含まれていないと直感した。

「学校は都心の方?」
「……?」
「君が通ってるところ。この辺には私が通ってる高専くらいしかないから」

私が素直に高校最寄りの駅名を挙げると、彼は「てっきり三鷹あたりかと思った」と目を丸くして私の隣に腰を下ろす。

「じゃあ、ずっと降りられなくてここまで来たの?」
「……はい」
「そっか。独りでよく我慢したね」

学校まで送って行ってあげるよ、と言われて素直に頷いた。

「言い訳も必要だろうし、それに――――」

言いかけた言葉を途中で止め、彼はポケットから携帯電話を取り出す。最近流行りのスライド式のやつだ。

「ごめんね、ちょっと電話」

彼は立ち上がって携帯電話を耳に当てながら、ちょうど次の駅に停車した電車の扉をくぐって外へ出ていく。
「はいはい……隣駅だよ。……え? あぁうん、ちょっと送ってくるから悟は……いいだろ別に、呪霊に付き纏われて怯えてたんだから」ぼんやりと窓越しに彼を眺めていると、「発車します」というアナウンスが響いた。

「とにかく次の電車で折り返し――――え、」

ふとこちらを振り向いた顔が信じられないものを見るような目つきに変わり、慌てて彼が閉まりかけたドアを抜けて車内へ駆けこんでくる。

「ちょ、ちょっと」

そのまま何か言いたげな顔をして二、三度口を開け閉めした男の人は、電話口に向かって「とにかく電車だから切るよ」とだけ告げて電話を切った。

「……置いて行ってごめん。次の駅で降りて、上りの電車に乗ろう」
「あ……はい」

隣の駅に着いて、向かいの電車を待つ間に「まだ名乗ってなかったね、怪しい者じゃないよ」と苦笑いしながら彼は夏油傑と名乗って、呪いを祓うのが仕事なんだと柔和な笑みを浮かべてさっきの怪物が“呪霊”というモノなのだと説明してくれた。
私が今まで見てきた怖い化物が、呪霊。夏油さんはそれを祓う仕事をしている。

「……アルバイトですか?」
「いや、普通に学生業と仕事が一体化してる感じかな」
「高専って……どこもそんな感じなんですか?」
「私達が通ってるところは結構特殊な方かな。普通の高校とは違って五年制だし、私も四月に入ったばかりだけど色んな所に行かされてるよ」
「私と同い年なのに、大変なんですね」
「……え? ま、待って、同い年って言った?」
「?」

高一です、と私が肯定すると、夏油さんは「ごめん、中学生かと思った……」と申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。

「馴れ馴れしく話しかけて申し訳ない」
「いやそんな、あの、助けていただいたのに、私の方こそ同い年ですみません」
「そんなこと謝らないで。別に子ども扱いしたかったわけじゃないんだ」

まぁそれならこのままでもいいか、と夏油さんは到着した電車に乗り込みながら苦笑する。

「君も気にしないで、敬語じゃなくていいから」
「………」

そっちの方が難しかった。なにせ、高校に入学してからまだ一人も友達と呼べる存在ができていないから。



恋人まであと少し




その後、夏油さんは私を高校まで送って「彼女が痴漢に遭っていたので」と尤もらしい理由を添えて、私の担任教師に遅刻の説明をしてくれた。
ちょうどそれを目撃していたクラスの女の子は、隣のクラスの何とか君という男の子と私がどうこうなりそうにないということを理解したのか、それとも夏油さんの外見に何か恐ろしいものを感じたのか――――理由はわからないけれど、それから私に悪意のある視線を寄越すようなことは無くなって、それ以降あの化物……“呪霊”も街中で見かける程度でしか遭遇していない。



私も勇気を出して人とコミュニケーションを取るようにした結果、新しいお友達ができた。
しかも三人。


「おっせーな傑。んなパンピー連れてデート気分で浮かれてんじゃねーよ」
「何度言ったらわかるんだい? 彼女はパンピーじゃない。れっきとした窓だよ」
「チーキーン! チーキーン!」
「囃し立てないでくれないかな。何事にもムードってものがあるだろ」
「臆病者の傑クンはお膳立てしないと無理なんでちゅか〜?」
「……何?」

「しょ、硝子さん……夏油さんと五条さんが……」
「こんな街中で殴り合う程バカじゃないから大丈夫だよ」
「悟もWデート気分で楽しんだらどうかな」
「はぁ〜? 硝子ととか演技でもぜってぇム「五億積まれても無理」

硝子さんに『マシな方のクズ』呼ばわりされているけれど、夏油さんは本当にいい人だ。
こうやって同級生との遊びにも誘ってくれて、帰りは駅まで送ってくれる。


「……夏油さん」
「ん?」
「あのとき私を助けてくれたのが夏油さんで、本当に良かった」


私にとって初めての、異性のお友達。


「これからも仲良くしてくださいね」
「……もちろんだよ」



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たぶん『マシじゃない方のクズ』と『マシな方とマシじゃない方の同級生』には『マシな方のクズ』の片想いがバレている。

2021.05.22



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