誰よりも優しくて、誰よりも人を大事にする傑くんが壊れてしまったのは。
仕方のないことだったのかもしれない。
朝焼けと罪
その夏は、とても暑かった。
傑くんも悟くんも、忙しくてお互い顔も合わせられないくらいに。
とにかく、忙しかった。
私も実家の方へ出ずっぱりで、関西へも関東へも行けないまま、負の塊を蹴散らして時を過ごした。
傑くんは、いつも何かにつけて連絡をくれる。
……悟くんも、同じくらい連絡をくれるけど。これを傑くんに言うと、なぜか悟くんに張り合っていってしまうから内緒にしている。
でも、悟くんの前では子供っぽくなる彼は少し可愛いから、たまには教えてやるのだ。
――さっき、悟くんから連絡あったよ。美味しい和菓子のお店見つけたから、お土産買ってきてくれるって。
――悟くんから猫の写真来たよ。私は毛の短い子が好きだけど、傑くんは?
――今度夏祭り行こうね。その頃には落ち着いてるといいなぁ。
傑くん、傑くん、傑くん。
朝日がきれいだった。
昼日中に見た虹がきれいだった。
水平線に沈む満月がきれいだった。
傑くんが、好きだった。
声に出して、言葉にして伝えたことはなかったけど、
傑くんが世界で一番、大好きだった。
御三家ほどではないが、そこそこの歴史がある私の家は、地方の大きな都市にそれぞれ別荘とは言えない程度の家やマンションを持っている。
実家のあるこの愛知にはそれが三つもあって、うち二つは名古屋市内。なんでこんなに一つの県にいくつも住む場所があるのか、しかも人が常時住まない部屋を持っておく必要があるのか、疑問でしかなかった。
……まぁ、それを私は好きに使わせてもらって、傑くんや悟くん、硝子ちゃんとの遊び場にさせてもらってるから文句は言えないんだけど。
ここ犬山にある家も、傑くんたちが来てくれたことのある場所のひとつだ。
明け方までかかって一級の呪霊を祓った私は、なんとか這うようにしてここまで帰ってきて、ぐったりとソファに身を投げた。
身を投げて……気づいたら十二時間が経っていた。
朝ごはんも昼ごはんも、抜いてしまった。
身体が資本だよ、と私に言い聞かせる傑くんの顔を思い出して、罪悪感がバッグと共に床へ滑り落ちる。
外はいつの間にか雨が降り出していて、この雨音のせいで寝てしまったに決まってるこのやろう、と責任転嫁してみた。
「寝てる間はノーカンてことにしとこ……お夕飯はお鍋にでもするかな」
人間、一人でいる時間が長いほど、独り言が増えるらしい。
私も例に漏れず先人と同じことをしでかしながら、野菜を刻み始めた。
今日のお夕飯は豚豆乳鍋。シメはうどんの予定だが、たぶんそこまで食べきれないから明日の昼食まで鍋になりそう。
だいぶ長く寝たから、元気を通り越してちょっと身体がだるい。
そう、伸びをしながら次の豚肉を切ろうと手を伸ばした私の耳に、幻聴が響く。
ぴんぽん
疲れてんな、と思って作業に戻ろうとした、が。玄関で気配が動くのがわかった。
人が訪ねてくることのない部屋だから、空耳かと思ったけれど本当に人が来たらしい。
「はいはーい」
お呼びでない来客の可能性を考慮しながら念のため狸の形をした私の式神を足元に出しつつ、私は玄関のドアを開けた。
「…………あ?」
「やぁ、ナマエ」
「……」
「……」
「傑くん、と」
ドアを開けた先に立っていたのは、最近声も聞けないほど忙しくしていた私のクラスメイト、夏油傑その人だった。
彼は二人の小さなお客さんを連れていて、三人とも絞る前の雑巾みたいに濡れていた。
「風邪ひくからとりあえず入って」
「……ありがとう」
「傑くんはそこで待ってて」
三人を扉の内側へ入れた私は、一番大きくて水を含んでいそうな……失敬、一番身体が丈夫そうな傑くんを玄関に残し、彼が連れてきた二人の女の子を風呂場へ連れていく。
「傑くんはこれ使って。タオルと、小さいかもだけど弟の服」
「弟さんが来てるのか?」
「いや、昨日まで居たみたい。乾燥機入れっぱなしだったから」
「……悪いね」
「とにかくこの子たちお風呂入れちゃうから、傑くんはそのあとね」
私は風呂場で女の子たちをざぶざぶと洗った。
身体が冷え切っていたのか、温かいお湯に最初はびくりとしつつ、夕食後に入ろうと思って溜め始めていた浴槽に浸からせると血色が良くなったのがわかる。
傑くんを待たせているからチャチャッと温まらせて、私は後で入り直そうと浴室を出る。
替えの服もないみたいだから、とにかく私のロングTを着させることにした。
この子達と私は、当たり前のことだがだいぶ身長差があるから、ロングTというよりはナイトドレス並みに引きずっている。
仕方なし、と判断した私は傑くんをお風呂へ呼んで、私の弟の服に着替えてびしょびしょの黒雑巾、もとい高専の制服をぼんやりと握っていた傑くんへ、場所を明け渡した。
制服は女の子たちのと一緒に洗って乾燥機にかけることにする。
外は雨だけど、これで夜中までには乾くだろう。
深夜、眠ってしまった少女たちを横目に、私たちはテレビを見ていた。
私が淹れたハーブティーを口にする傑くんは、なぜだか少し吹っ切れたような顔をしている。
あの子たちは寝室に寝かせておいた。私と傑くんは今夜寝る場所が無いけれど、まぁなんとかなる。床とかソファとか。椅子とか。さすがに椅子は無理か。
確か私が文句を言いまくって譲ってもらった客用布団をどこかにしまっておいたような気がする。
この部屋も、私が一人でダブルを占領するよりは、幼くても二人の人間にベッドを使ってもらったほうが喜ぶだろう。
「……何があったか、聞かないの?」
「ん、傑くんが言いたくなったら、聞くよ」
「そう。ナマエは優しいね。」
「ふふ。だって、一級術師様だから」
「術師か……」
彼はそう呟いて、何もない床へ目を落としている。
今日の傑くんは、ちょっと変だ。
あまり笑わないし、悟くんが言ってたみたいに少しせていて、心配になる。
たぶん、あの子たちは、傑くんの兄妹ではないだろう。
非術師の家系に生まれた傑くんには、あんな可愛い親戚がいるという話を聞いた記憶もない。
おめめぱっちりで、傑くんとはあんまり顔も似ていないし。
隠し子にしては年がいきすぎている。
……傑くんが十以上もサバをよんでいなければ、の話だが。
私は努めて明るい声を出し、傑くんへお茶目に笑いかける。
「君たちがシメまで食べちゃったから、明日の朝ごはんが無いよ」
「ごめんね。美味しかったよ、ご馳走様」
「それならよかったけど。姉さんが置いてった買い置きがあるから、朝は冷凍の鮭にします」
「それは楽しみだ」
静かな部屋に、テレビの笑い声が響く。
子供たちを起こしたらいけないなと思って少しだけ音量を下げると、傑くんがこちらを向いた。
「ねぇ、ナマエは…………死にたくなること、あるかい?」
「どうしたの? ……って聞きたいけど、実はある」
「ほんと。例えばどんなとき?」
「……駅のホームに立つとき。外階段を上るとき。横断歩道を渡るとき。自分が死なないか、死のうとしないか不安になる」
「疲れてるんじゃないか?」
「傑くんもだよ。悟くんが言ってたけど、確かにちょっと痩せたね」
「私のは夏バテさ」
――かれはいま、うそをついたよ。
足元で寝そべる私の式神が、傑くんの嘘を見抜いた。けれど私は知らないふりをした。
人の覆いを取り払ったところで、残るものが人間かどうかなんて誰にもわからない。
私にも式神にも、もちろん傑くんにも。
傑くんは何事かをぐるぐると思案しているようで、闇を溶かしたような瞳が虚ろにフローリングを舐めたと思えば、すうっと感情を失くしたように幸せそうな顔をする。
きっと、疲れているのだ。
「もう夜も遅いし寝たら? 客用布団ならあるから」
「驚いた。前来たときは無かったのに」
「無くて雑魚寝したら傑くんも悟くんも、朝起きたとき腰が痛いとか首が痛いとか文句ばっか言ってたでしょ。姉さんに言って、使ってないの送ってもらったの」
私がよっこいしょと来客用の布団を引きずりだしてくると、手伝ってくれた傑くんが申し訳なさそうに言った。
「……私はソファを借りるよ」
「あそこは夕方まで私が寝てたからダメ。今日は私の場所なの」
「でもナマエだってのびのび寝たいだろ?」
「傑くんじゃはみ出すでしょ」
たぶん、客用布団でも窮屈で足が飛び出そうだが。
私にとってはちょうどいいサイズのソファの上で寝る傑くんが、小さく身体を丸めて居心地悪そうにしている姿を想像したら笑えてしまった。
「……じゃあ、」
一緒に寝ない? と傑くんが私を見つめながら言った。
――傑くんは嘘をついた。
私の式神に嘘は通用しないと知っているはずなのに。
私には嘘を……真実を言わなかったのだ。
それでも私は、彼のそばに居たかった。
彼の罪を癒す雨になりたかった。
三日後、さよならと笑って出ていく彼を引き留めて、「二人で子育てするのも、いいんじゃないかな」と私は笑顔を浮かべてみせた。
今年の夏は、とにかく暑くて、呪霊が多くて、人の憎悪も嘘も汚い本心もすべてが混ざって、私も式神も参っていた。
触れる死と湧き上がる死、引きずられそうですべてが厭になっていた。
だから、傑くんの手を自ら取った。
重ねた唇が離れるころ、罪の味は消えていた。
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2020.12.05
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