目が覚めると、見知った天井と最高の痛みが出迎えてくれた。

「っあーーーーーークソ頭いてぇ」

後悔先に立たず、という言葉はもちろん知っている。
ただ、事が起こった後に思い出すだけだ。
つまり自分も先人と同じ轍を踏んでいるというわけだ。

頭の中で小人がドラムでも叩いているかのように痛みが止まらない。
昨日いったいどれくらい飲んだんだ。
確か連日の任務と報告と打ち合わせでなかなか時間が取れず、午前中しっかり眠った後夕方ごろになってから、久方ぶりの休日に買い物でも行こうと外出したんだった。
本屋でいくつか新刊を手に入れた後、家へ帰ろうと駅に向かって……

「あ、伏黒起きた?」
「……あ?」

独り暮らしのこの部屋では聞こえるはずのない他人の声。
開けっぱなしの扉の向こうからひょいと顔を出したそいつの姿を見て、俺の頭の中は真っ白になった。

「な……んで、おまえが」

袖をまくったシャツを着た同窓生。
伏黒恵が、俺が、長年患っている病の原因たる同い年の女、ミョウジナマエその人だった。

「なんでって……伏黒が連れてきたんじゃん」
「……」

覚えてない。いや、こいつとたまたま再会して、飲みに行くかなんて会話をしたのは覚えている。
適当な大衆居酒屋に入って乾杯、俺はビールでミョウジは梅酒ソーダ。よくそんな甘いもん飲んでられんな、なんて言ったことも覚えている。
任務続きであまり顔を合わせていなかったこともあって会話は弾み、三時間で飲み屋を追い出されてから二軒目へ行った…………ような気がする。
その辺から記憶が曖昧だ。
ガンガン痛む頭の隅で、見たこともない名前だからという理由でカクテルを頼んでは「これマズイ無理。伏黒飲んで」と押し付けてくるミョウジの顔が薄っすらと見えた。

「勝手にキッチン使わせてもらったから、早く食べに来な」

そう言って踵を返し、ドアの向こうへ消えていくミョウジを見送って、俺は細心の注意を払いながら身を起こした。
なんだかひんやりとする。何か一枚羽織った方がいいだろうか。

そう思いながら自分の身体を見下ろした時、俺の頭からは頭痛も何もかも吹き飛んで今度こそ完全に真っ白になった。





バタン! と物凄い音を立てて開いた扉に、ミョウジが驚いてこちらを振り返る。

「な、なに伏黒。急にびっくりするんだけど」
「……お前、それ」

こちらを見たミョウジが着ていたのは、俺のワイシャツだった。
それはミョウジに対してはサイズが大きすぎてぶかぶかで、袖をまくってなんとか手を出している状態。
下半身は信じられないことに、スカートも何も履いていなかった。素足だ。
首元はちゃんとボタンが閉められていなくて、その華奢な鎖骨が思いっきり露出していた。
なんなら肩口までちらちらと見えそうになっている。

「あぁこれね。伏黒のかりちゃった」

伏黒背おっきいねぇ。私じゃぶかぶかだよ。

そう言って肩をすくめてみせたミョウジの着ている俺のシャツ。から見えた赤い華。
左鎖骨と肩の境目近くにそれはあった。

「…………」
「やっ! なに」

無言でミョウジに近づき、襟を掴んで左右へ広げる。
赤い鬱血痕がぽつんとひとつ。誰がどう見たってキスマークだ。
信じられない思いでそれを見つめている俺を見たミョウジが、右手で口元を隠しながら視線を逸らす。

「ふしぐろって、あんなに激しかったんだね。……意外だったからびっくりしちゃった」
「……」
「あの、まだ朝だから、」
「……」
「昨日の続き、したいの……?」


「――――――せきにんは、とる」







計画的侵入







責任は取る。

そう言って私の目を見つめてくる伏黒を見て、私は心の中でガッツポーズを決めた。
伏黒の顔には「とんでもないことをやっちまった」とはっきり書かれている。

「や、責任とか……別に」
「取る」

自然と口元が緩んでしまうのを、必死に右手で隠す。
酔った勢いで女の子に手を出したとわかったら、変なところで責任感が強い伏黒なら、絶対にそう言ってくれると思ったのだ。



話は遡って、陽が落ちた直後の昨日のこと。ぼんやりと駅へ向かって歩く伏黒の姿を見つけた私は、小躍りしそうなくらい喜びを隠せなかった。
その勢いで声をかけてしまったから、もしかしたらいつもと違う私に伏黒は違和感を抱いたかもしれない。
近況報告でもしようよと伏黒を誘って、安っぽい大衆居酒屋に連れ込んだ。

「伏黒最近いいことあった?」
「いや……別に」
「私はここんとこずっとツイてないんだよねぇ。彼氏とも別れちゃったし、今日買いに行った新作のアイシャドーも売り切れてたしさぁ」
「……別れたのか?」
「もー聞いてよ伏黒ぉ! 浮気されたの! サイテーでしょ!?」

……もちろん嘘だった。高専に入って伏黒を好きになってこの方、彼氏なんて居たこともない。伏黒に出会う前にも、男の人と付き合ったことは一度もない。
そりゃあ高専を卒業して大人になってから、何度か告白されたこともあったけれど。すべて断ってきた。
だって、私が好きなのは伏黒ただひとりだったから。

「伏黒の彼女はいいよねー。玉犬のこといつでもモフれるし」
「んなもん居ねぇよ」
「はん? プレイボーイ伏黒くんが彼女の一人や二人いないわけないじゃん」
「ねーって。そんな暇もねぇよ」


その言葉を聞いた瞬間、私の中で天啓がひらめいた。


それから私は伏黒にじゃんじゃんお酒を飲ませた。お腹がいっぱいになりそうなご飯ものは控えて、できるだけしょっぱいものを選ぶ。
居酒屋を時間で追い出されてしまった時も、「自棄酒に付き合え!」と滅茶苦茶なことを言って二軒目のちょっと高そうなバーに連れ込んだ。
お酒が回ってきたのか、ちょっとほっぺを赤くしている伏黒が満更でもない顔で「仕方ねぇな」と言った言葉に甘えて。

「それなんて酒?」
「これね、ブラックルシアンとかいうやつ。伏黒知ってる? 美味しいの?」
「知らね」
「んー……わ、まずいかも……私無理、伏黒あげる」
「……仕方ねぇな」

そう言って、私が注文するお酒を横流ししてどんどん飲ませていく。
ホワイトレディ、ギムレット、バラライカ。

「つーか甘すぎ。もっと辛いのにしろよ」
「辛いの? うーん……じゃあこのギブソンとかいうやつ」

私がカクテルを渡すたび、ちょっとずつ顔を赤くしていく伏黒を横目で眺めながら、私はこの後うまく事が運ぶだろうかと内心心配していた。

「もう終電だろ……こんな時間まで飲んでていいのかよ」
「まだギリギリ平気だもーん! ……あ、ウソ。全然無理。終電終わった」

終電なんかとっくに過ぎていることを知っている私は、携帯を見るフリだけしてそう返した。私の家に向かう線は、終電が早いのだ。

「伏黒泊めてよ〜」
「タクシー使えよ」
「やーだー高いもん!」
「俺んちも終電ねぇからタクるしかねーけど」
「じゃあ割り勘しよ! そっちのがいいでしょ?」
「……」
「うちの方が伏黒んちと比べて遠いし! 始発で帰るからー! お願いお願いおーねーがーいー!!」

ここで私一人、タクシーに放り込まれてしまったら全てが水の泡だ。
子供のようにごねて、酔ったふりをして伏黒の腕に抱きつく。
またもや「仕方ねぇな」という一言を引き出した私は、ミッションの成功を確信してにやにやが止まらなかった。

「なに笑ってんだよ」
「べっつにー? 伏黒んち行くの久しぶりだし、家探ししてやろーと思って」
「追い出すぞ」
「やだー! いい子にするから!」

ちょっと千鳥足になっている伏黒の腕を取って、エレベーターに乗る。
玄関でどうにか靴を脱ぐと、伏黒を寝室へ押し込んだ。
そのまま彼をベッドに押し倒して、馬乗りになった私はゆっくりと服を脱いでいく。

「ふしぐろ……ご無沙汰でしょ? ちょっとワルイコトしよ?」
「おまえ、さすがにのみすぎ、だ……ろ……」

私が伏黒に向かって、人生で一番の艶やかな笑みになるよう渾身の力で捻出してみせた瞬間、彼の綺麗な双眸がゆっくりと閉じられていくのが見えた。

「……」
「……え? ふ、伏黒、ちょっと」

すぅすぅと寝息を立てて爆睡し始めた伏黒を見下ろして、私は頭を抱えた。
しまった、任務失敗だ。このまま酔った勢いで一線を越えて、まじめな伏黒に責任を取らせるつもりだったのに。
どうにか叩き起こすか、でもその時すこしでも酒が抜けていたら断られてしまうだろうか。
そう考えながら伏黒の腰を跨いだまま、私はスマートフォンと睨めっこして呻く。「お酒 素面に戻る いつ」と検索して出た結果を見るまで、男の人は飲みすぎるとダメになってしまうのだということも知らなかった。

クソ、どうする。

私がぐるぐると思案していると、視線を落とした先に伏黒のワイシャツが落ちていることに気づいた。


――――――これだ。


私は伏黒の眠りが深いうちに、と彼のトップスを四苦八苦しながら脱がせた。
意識を失った伏黒は、めっちゃ重かった。そりゃ当たり前だ、鍛えて筋肉のある男の子なんだから。
ボトムスを脱がせるのは諦めて、ベルトの金具を外してチャックを下げる。
……少し考えて、ちょっとだけ下着を下げた。ほんの、すこしだけ。
彼の髪の毛と同じ色のそれが見えたあたりで手を止める。

そこで一息ついた私はベッドから降りて服を脱いだ。
できるだけ、ベッドの上から放り投げられた風を装って、床へ配置する。
素っ裸になったところで、それはさすがに不自然かと思い至った。
もしかしてと期待と共に伏黒のクローゼットを漁ってみたものの、新品のボクサーパンツは見つからなかったから、仕方なく自分のショーツを履き直す。

それから、床に放り投げられていた、たぶん昨日のであろう伏黒のワイシャツを拾い上げて身に着けた。

「……おっきい」

伏黒との体格差を自覚して、知らず顔が熱くなる。
裾は丈の短すぎるワンピースくらいあって、肩も本来の位置よりずいぶんと落ちている。袖は余りまくっていて、仕方がないので何度か折って両手を出した。

もうひとつ、何か決定的な証拠がほしい。

そう考えて、伏黒の引き出しをいくつか開けていく。
その中のひとつに「チョコレート0.02ラテックスM」と書かれた個包装の小さいソレを見つけた。
たぶん何かの景品でもらったんだろう、他にも「ストロベリー」とか「温感」とか「ドット」とか書かれた四角いパウチが各種ひとつずつ、透明な袋に入っている。
その口に開けられた痕跡がなく、テープで巻かれたままなことに安心感を覚えながら、伏黒の枕もとにそれを丸ごと持って行って透明な袋を破る。
乱雑にならない程度に枕の横にそれを並べ、チョコレート色のパウチをひとつ取り出した。
四角いパウチを破いて、出てきた中身はどうしたらいいかわからないので、ティッシュに包んでゴミ箱に入れた。少し考えて、何枚かティッシュを抜いては丸め、ゴミ箱に放り込む。
環境には優しくないが、この際どうだっていい。私の計画の礎になってもらおう。
破られたパウチは床にぽいっと放る。

――――これでよし。

ひと仕事終えたことに満足して、私は伏黒の隣にもぐりこんだ。


……いや、待て。もう少しやれることがあるぞ。

私は伏黒の眠りがまだ深いことを確認して、彼の胸元に吸い付いた。
何度かトライして、赤い華をひとつだけ刻むことに成功する。
要領がわかったので、どうにか首を捻って自分の鎖骨と左肩の間に唇を寄せた。

「ん……」

こちらにもキスマークをつけたところで、眠っている伏黒が呻く。
私は、伏黒を起こしてしまわないうちに、といそいそと彼にくっついて横になり、夢の世界へと旅立った。






そして、私の仕掛けた罠にしっかりと引っかかってくれた伏黒が、目の前にいる。


「ミョウジ、その……こんなことした後で言うのは、信じてもらえないってわかってる」
「……うん?」
「でも、前から、ずっと前からお前のこと、好きだった」
「は……」

伏黒の一言に目を見開いた。
まさか、そこまでやってくれるとは思わなかった。そんな風に言いさえすれば、誰でもない、私だから過ちを犯してしまったのだと言えば、私へのダメージが少ないと思ったのだろうか。

なんて優しくて、愚かなんだろう。

私はその嘘に乗ることにする。

「ほ、ほんとに……? ほんとは誰でもよかっ」
「違う。ミョウジがいい。ミョウジがよかった」
「……しかたないなぁ。じゃあ、責任取ってもらおっかな」

嘘でもそう言ってもらえると、気分がいいものだ。
私は笑ってしまわないように精一杯演技しながら、伏黒のほっぺたにキスをした。



+++++++++++++
その後、釘崎に「ついにお互いの片想いが実ったってことね」と言われて驚愕する伏黒と、問い詰められてすべて白状することになる女の子のお話。


2020.12.13




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