ハーブティーでも飲もうかと共同キッチンへ降りてきた私は、冷蔵庫を覗き込んでいる先輩の背中を見つけて声をかけた。
「せんぱぁーい、なにしてるんですか?」
「ツナ?」
そう言って振り向いた狗巻先輩は、片手に炭酸ジュースを持っている。2Lの大きいやつだ。
「……もしかして、今ゲーム中です?」
「しゃけ」
「わ、私も混ざりたいです!」
きっと先輩の部屋にはパンダ先輩と恵くんも一緒に居るんだろう。パタパタと自室へ戻った私は携帯ゲーム機とカーディガンを持ち、男子寮の入り口で待っていてくれた狗巻先輩に合流した。
部屋で待っていてくれていいのに、こういうとこが先輩の優しいところ。
私とほとんど身長の変わらない先輩はもちろん歩幅も私とほとんどおんなじで、ついていくのがとても楽で嬉しい。
……恵くんとか、五条先生とか。背の高い人は脚も長いから、ぼんやりしてるとすぐに置いて行かれてしまうのだ。
「おじゃましまぁす」
「しゃけ」
「おー、灯里がくんの久しぶりだな」
久しぶりにお邪魔した狗巻先輩のお部屋は、いつも通りだった。まぁ悠仁くんが入学する前に先輩たちは忙しくなっちゃってなかなか会えなかったし、私も恋愛ゲームに現を抜かしていたりしたから、私の記憶にある"いつも通り"の狗巻先輩の部屋である。
恵くんの部屋ほど何もない感じじゃないけれど、ぽいぽいと放ってあるクッションは先輩の部屋に来訪者が多いことを物語っていた。物静かだけれど不思議と居心地がいいので、きっと男子もみんな狗巻先輩のところに来るのだろう。
……私が知っていて、"生きてて""日本に居る""狗巻先輩以外の"男子は、今のところパンダ先輩と恵くんだけだが。
敷物よろしく床に転がってゲーム機を触っているパンダ先輩の隣で、恵くんは律儀に背筋を正して座っていた。狗巻先輩がベッドを背凭れにして腰を下ろしたのを見て、私はパンダ先輩に背中を預けさせてもらいクッション代わりにして狗巻先輩の隣に座り込む。
パンダ先輩の毛並みはふかふかしていて気持ちが良い。お日様の……っふ、ふふ。お日様のにおいがする。
と、恵くんが私の端末の画面を離れたところから覗き込んで目を細めた。
「神埼……お前まだ中級クエストで止まってんのか」
「だってデートで忙しくて……」
トーリくんとのデートで忙しくて、それどころではなかった。
でももう攻略し終わったし、
「次の人が現れるまでは暇なんだよ」
「…………」
「あれ、先輩今日はあんま乗り気じゃないですか……?」
ふと隣に視線をやった先、狗巻先輩はちょっと不機嫌そうだ。お疲れなのかもしれない。私が無理を言って合流させてもらったから……後輩に優しい先輩は断り切れなかったのかも。
ここは素直に撤退しておこうかな。
「やっぱりわた――――」
「こんぶ」
「そ、それならいいですけど」
一狩り行こうぜ、と言わんばかりに親指を立てられた。先輩は妙に真剣そうな顔をしている。……襟のお陰で殆ど隠れてるけど。
「どこ行きましょう? というか私が上級に上がらないとですよね……」
上位に上がれる条件は判明しているし、そこそこの武器を一本作ってしまえば、まぁ一人でもなんとかなるだろう。
「一本だけ無属性のが作りたいから……恵くん、ちょっと」
「悪い。ついさっきパンダ先輩と始めたばっか」
「えー残念……じゃあ独りで」
「しゃけ」
自分も、と言うように先輩が手を挙げた。先程私と遭遇した時、共同キッチンの冷蔵庫に飲み物を取りに行っていた狗巻先輩は、どうやら二人に置いていかれたらしい。男の友情って儚い。逆に言えば、そんなことでどうこう思う程のウェットな仲ではない、ということでもある。
「じゃあ狗巻先輩ちょっとだけいいですか?」
「ツナマヨ」
「運が悪いと二、三回は連れ回しちゃいそうなんですけど」
「明太子」
まかせろ、とばかりにまた親指を立てた先輩が、ぐいっと私の手元を覗き込んでくる。
「あー、この素材が足りなくて」
「しゃけしゃけ」
狗巻先輩がス、と元の姿勢に戻る瞬間、ふわんといい香りが私の鼻をかすめた。
――――柑橘系のいい香り。
「ん……」
「?」
「先輩、香水かなんかつけてます?」
き、気になる。恵くんは「まさに爽快!」みたいな匂いだし、パンダ先輩はファブ……恵くん曰く"お日様の匂い"がするし、狗巻先輩はなんだろう?
……ちなみに、恵くんの"パンダ先輩臭"に対する感想を聞いた私は五分間爆笑し続けた。流石にキレた恵くんに頭をひっぱたかれて、翌日に同じメーカーの同じ匂いの消臭スプレーを買ってプレゼントしてやったことは記憶に新しい。
私は匂いフェチだから、そこそこのメーカーの香りには敏感だ。べたべた甘い匂いをつけておくのは苦手だけど、嗅ぐのは好き。自分でつけるなら練り香水の甘くない香りくらいがちょうど良い。
「んー……シトラス系? 有名ドコロって男性用だとそういうの多いですけど……これはブルガリとかサムライじゃないかも……」
「お、おかか」
ふんふんと私が顔を近づけて嗅いでいると、仰け反った狗巻先輩はついていた手をズルリと滑らせて床へごちんと頭をぶつけた。
「あ、すみませんつい」
「……」
無言で起き上がった先輩はゲーム画面を指差し、早く準備しろとばかりに「いくら」と呟いた。
お待たせしてすみません、先輩。
このゲーム、私は前作は経験者だから一通りのモンスターの動きや弱点は把握している。つまり装備さえそろえば本当はひとりでも倒せるんだけど、中級の私は如何せん持っている武器が弱くて削るのに時間がかかる。
スパッと汎用性の高いものを作ってしまえば、ちょっと一人で頑張るだけで皆に追いつけるだろう。
申し訳ないけど、先輩の優しさに甘えて素材集めと武器の作成だけはやらせてもらおう。
「――――あ! 出た! 狗巻先輩出ましたー!! 強運男狗巻先輩ありがとうございます!」
「しゃけ」
クエスト終了後のご褒美。これがハマる理由でもあるんだけど、討伐した敵の数や尻尾を切り落としたかどうかなどを基にした、ランダム性の高い"報酬"の一番レアなモノを受け取った私は、狗巻先輩の引きの良さに感謝しながらハイタッチを交わした。
アプリのガチャと同じで、出る時は出るし、出ない時は出ない。それがこのゲームの醍醐味でもある。
さっそく出た素材をもとに武器を作り、ささっと強化して性能のデータを眺めた。これで後は一人でも中級ランクのモンスターなら粗方倒せるだろう。やっと狗巻先輩を解放してあげられる。
「明太子」
「え?」
次は、と首を傾げて問われ、私はぱちくりと瞬きをした。
「や、これ一本あれば大抵のは倒せるので……パンダ先輩と恵くんと一緒にどこか行って、待ってていただければ」
「おかか」
いいから、と押し切られた私は狗巻先輩主導で各種モンスターを撃破していく。飛ぶやつ、跳ねるやつ、帯電しているやつ、地面に潜るやつ。今作で追加された新しいモンスターはいまいち挙動が把握しきれないので、狗巻先輩にコツを教えてもらいながら進めていく。
結局その夜はずーっと先輩を独占したまま、私のプレイヤーランクが上級の名称を獲得するまで面倒見のいい狗巻先輩は手伝ってくれた。
「先輩たちはお二人ともGですよね? 恵くんは?」
「俺はまだ。さっきパンダ先輩と二人で行って、撃沈してきた」
「わぁ……狗巻先輩のこと私が独り占めしてたからだよね……すまない」
じゃあ次までに一人でG級上がって、恵くんのことひっぱるね!
――――と、言った私は翌々日に新しいクズキャラを見つけて乙女ゲームの沼にすっぽりとハマりこんだ。恵くんごめんね。でも先輩二人が手伝ってくれたら大丈夫でしょ。
「……すじこ」
「あ。狗巻先輩」
その四日後。またもや夜のキッチンで遭遇した狗巻先輩は、不思議そうに私のことを見つめている。今日は手に持つペットボトルは大きいものではないみたいから、ただ単に冷えた飲み物を取りに来ただけなのだろう。
対する私はホットミルクに蜂蜜でも入れて優雅に夜を楽しもうと思っていたところだ。
「高菜?」
手伝おうか、と言われたけれどなんのことだかわからない。
「えーっと……?」
「……」
質問の意図をはかりかねた私が曖昧に首を傾げると、狗巻先輩は不思議そうな顔をして左手に持っていたペットボトルを台の上に置いた。ゲームを操作するように手を構えた先輩が「明太子」と言ったところで、やっと私は意味を理解する。
――――私が例のモンスターをハントするゲームで上のランクへいけなくて困っているのでは、と心配してくれたのだろう。
「っあー……すみません、ちょっと最近忙しくて」
「ツナ?」
「えへ……その……えっと……」
狗巻先輩を含めた男子には既に知られているとはいえ、自分から言うのは恥ずかしいな。
「今……狙ってる人がいまして」
「…………」
先輩の眠たげな目がすぅっと細められた。これはあれだ、呆れたってやつだ。この間までトーリくんを狙っていたくせに、"次の人が現れるまで暇"だったくせに、案外早く次の攻略キャラ決めてるじゃないか、と。
「はや、はやめにGランク上がんなきゃってのはわかってるんですよ? 私も先輩たちとゲームしたいですし……でもその、今を逃したら逃げられちゃうっていうか、なんていうか」
「……」
ね。ほんとに、時間制限のあるシステムってはまり込むとやばいね。この間のトーリくんの攻略でそこそこ苦しんだのに、また私がハマったのは似たようなシステムの乙女ゲームだった。
……まぁ前よりはまだいい。そこまで時間縛りもキツくないし、リアルタイム性ではないから多少は気が楽だ。でも熱量のあるうちに攻略しないと、困るのだ――――クズキャラへの愛の温度が下がっていきそうで。こういうのは熱さと速度が大事なの。
「……いくら、おかか」
「そっ……い、いや、……そう……は言いましたけど」
恵を引っ張るとか抜かしてなかったか?
そう言いたげに狗巻先輩はこちらを見、腕組みをする。
「…………明太子」
「え? いやテスト…………テスト!? ままま待ってください今日は水曜日のはずじゃ」
「おかか」
「木曜日かーーーー!!!」
昨日の任務のせいで、時間感覚が完全にバグっていた。テスト前の課題、二度目の提出忘れ。しかも連続で、更に明日は課題の内容を踏まえた小テストとなると流石の学長も大目には見てくれまい。
かくなる上は、謝り倒しながら明日の朝いちばんに課題を提出するしかあるまい。
「せ、先輩……以後気をつけますので……助けてください……」
「……」
「傀儡呪術学ほんとうにダメなんです、先輩の教え方とっても上手くてわかりやすいのでなにとぞ」
「……しゃけ」
今回だけだぞ、という顔で先輩が頷いてくれた。
狗巻先輩大好きありがとう。こんなポンコツな後輩に優しくしてくれて、むしろ狗巻先生と呼んだほうがいいんじゃないだろうか?
――――そんなことを続けた四回目。今度は呪術史学の赤点追試を食らったところでついに狗巻先輩に見捨てられた。
「せ、せんぱいおねがいしますなにとぞ」
「おかか」
「はひ……」
ヤダ。そう冷たくあしらわれてしまっては私も諦めざるを得ない。
今度はキッチンではなく共同スペースのソファの隣に立っているが、場所を変えたところで私の赤点追試が消え去るわけでは無い。
"追試"なので範囲は明白だけれど、それと私が史学の問題を覚えられるかどうかは別問題である。
年号とか、藤原のなんたらとかかんたらとか、なんとかの戦いとか、どこの誰がなんとかって人を呪ったとか呪霊落ちしただとか。
過去を生きていたわけじゃないんだから、覚えられないんだもん。
そもそも任務が入ったりすると曜日感覚すらバグる自分に、歴史という長い年表を誤らずに覚えられるとは微塵も思えない。
ノートと頭の中を整理したいんだけど、ひとりではどうにも上手くいかないのだ。だってそもそも正しい知識がふわふわしてるし。先輩になんとか監督してお手伝いしてもらって、今までもどうにか――――いや、どうにもなってないな、テストの点は良くなっても追試続きだし――――やってきたのだ。
涙目になっている私を見据えた狗巻先輩が、腕組みをして仁王立ちになったまま低い声で言った。
「明太子、こんぶ」
男遊びしないなら、考えてやる。と。
「え……ええーっそれは……うーん」
「ツナ……」
「じゃあ今週は……やめます……」
というか遊んでて課題やテストの存在を忘れ去っていた私が200%悪い。先輩が怒るのも道理である。
……いや、赤点を取ったのはゲームのせいだけでなくて、ただ単に私が小テストの存在を忘れ去っていただけだ。先生だって成績の悪い私へ特別に意地悪をしてやろうとかそういったつもりは絶対に無くて、むしろ……ちびちびテストをやることで苦手な項目を炙り出そうとしてくれているだけだ。
――――私がどれもこれも苦手だということが露呈するだけだけれど。
「……おかか」
「ゲームは私のライフワークなんです……生き甲斐なんです……今後一切足を洗うとかそういうのは難しいんです……」
「…………」
「うー」
そもそも、先輩に宿題の面倒を見てもらっているのになぜ成績が悪いのか、というところが疑問なのだ。
確かに先輩の教え方はとってもわかりやすい。どうしてこういう答えになるのか、この事件が起きたのはどういった歴史的背景があるのか、教科書のこの辺を読んでおくとわかりやすくていいよ、資料庫のあの本に目を通しておくといいよ、エトセトラエトセトラ。
「だって……いっつも本気で好きなんだもん……」
「……おかか、」
「性癖なんです」
はぁー、と溜息をついた先輩が「今回だけだよ」と呟いて、私に手招きをした。
お言葉に甘えてその後ろをついて歩く。
先輩、優しいな。
もちろんお部屋にお邪魔した途端に勉強道具一式が無いことに気づいた私は慌てて自室に走ったけど。先輩は呆れた顔で待っていてくれた。
先輩と追試と私
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2021.02.13
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