狗巻先輩とお付き合いをすることになった。
現実味が無さすぎて胸がドキドキする。
え? ほんとにそうだよね? 私の勘違いとか妄想じゃないよね?
神埼史上初、信じられないくらいの早起きをかました私はソワソワが収まらなくて、いつもより一時間以上も早く朝ごはんを食べ、教室の机にべたりと倒れ伏していた。
朝起きて、どれだけ考えても狗巻先輩に見せられた写真は脳裏から消えることはなくて。あの後逃げ帰るように私の部屋に退散してから送った「今後とも神埼灯里をよろしくお願い申し上げます」という私のメッセージも消えないまま残っている。
もちろん、その返信として狗巻先輩から送られてきた、親指を立てて沼に沈みゆく動物のスタンプもそのまま鎮座ましましていた。
色的には犬か猫か、ライオンかな。先輩が使うスタンプって微妙なラインナップなんだよね。
端末の画面を伏せた私は自分の顔を両手で押さえてもう一度呻いた。
……ダメだ、恥ずかしくてつい脱線しちゃう。考えてるだけで顔が熱くなるのがわかる。部屋に居ようと教室に居ようと、狗巻先輩のことを考えてしまうのは変わらないのだと改めて気付く。
男の人と付き合ったことなんてないから、いったいどんなふうにしていたらいいかもわからなかった。
狗巻先輩の顔を正面から見ることもできそうにないし、写真どころか想像するのですら無理だ。
乙女ゲームで散々似たようなシチュエーションをやったつもりなのに、何も糧になってないじゃん。この分だとクズ男マイスターの称号は天にお返しした方がいいかもしれない。
「こんなのどこで予習したらいいの……? 学園モノ、は人数が違うし……過疎集落に行くのが近いかなぁ」
……でも私は緋色の姫じゃないし、妖刀の封印もしないが?
頭を抱えて唸っていると、教室のドアをがらがらと音を立てて開けながら親友が入ってきた。もうそんな時間か。どうやら私は長いことここで呻いていたらしい。
野薔薇ちゃんなら良いアドバイスをくれるんじゃないかなぁなんて期待を込めて彼女の顔を見上げると、目が合った瞬間に野薔薇ちゃんの形の良い眉が歪んだ。
「……あん? なんで灯里がいんのよ」
「え?」
あれ、もしかして私って二年生だった?
一瞬そう思ってしまうほど野薔薇ちゃんの声は怪訝そうで、遅れて後ろからのっそりと姿を現した恵くんの方はというと、何故だか私を見て目を丸くしている。
「神埼。狗巻先輩はどうした」
「ひぬっ、ひ、い、狗巻先輩がっ、なにの!?」
「なんで動揺してんだよ。約束してんじゃなかったのかよ」
「や、約束?」
なんの、と尋ねるよりも先に、私の携帯電話が鳴った。
画面を見てみるとそこに映し出されているのは『狗巻棘』の三文字で、慌てて取り落としそうになりつつも、なんとか応答のアイコンをスライドさせて耳にあてる。
「も、もしもし……?」
『明太子』
ちょっと驚いたような声。顔を合わせるよりも近い距離にあるスピーカーから狗巻先輩の声がして、緊張のあまり声が上擦り目が泳ぐ。
「オハ、ヨウ、ゴザイマス」
『しゃけ。いくら』
「え? い、いえ、もう起きてます……です」
『……こんぶ』
「もう教室に、居ますので……遅刻の心配はありませんです。ハイ」
『…………、……しゃけ。ツナマヨ』
なら良かった、それじゃまた後で。と言って切れてしまった電話をまじまじと見つめ、どうしたらいいかわからずに同級生二人の顔を仰いだ。
「あの……あのね、私……二人に報告が……あって、」
「なんだよ」
「……んん?」
「そ……、の、あの、えっと……つ、付き合うことに、なっ…………た?」
「なんで疑問形なんだよ」
「な、なりました。いぬまきせんぱいと」
「はぁ……、――――あ?」
呆れた顔をしていたはずの恵くんはぽかんと口を開け、もう一度「は?」と言った。直後、その隣に立つ野薔薇ちゃんが恵くんの脇腹へ肘鉄を叩き込み、一瞬にして私の肩を抱く。
「ッウ、グ」
「よかったじゃない灯里〜! で、どんなふうに告られたワケ?」
「や、ちょ、それは……あの、秘匿情報だから」
「くぎ、釘崎、オマエ……」
「全部ゲロっちゃいなさいよ」
「だめです」
「ネタはもう上がってんのよ」
「も。黙秘で!」
「フーン? 伏黒、カツ丼」
「持ってこねーよ」
「古典的な取り調べ室だね!? 朝から重いし話さないよ!」
狗巻先輩応援PJ!
〜私たちのお付き合いはこれからだ!〜
そんなことがあり、ついに今日で三日が経った。
……この三日間、狗巻先輩とはまともに話ができていない。
なんでって――――避け続けているからだ。
私が。先輩を。
狗巻先輩のことを考えるだけで頭がショートしてしまいそうなのに、顔を合わせて会話をするだなんて。きっと私のせいで地球温暖化が深刻化するに違いない。
私はもちろんホッキョクグマを守りたいし、今より暑い夏なんて耐えられそうにないから……私が狗巻先輩を避けるのは人類を助けるためだ。そのはずだ。そうに違いない。世界平和のためなら、きっと狗巻先輩も許してくれる。
……許してくれると思っていたが、優しい先輩は見逃してくれなかった。
「…………明太子」
「ひ……ひぬ、ま……いぬまき、せんぱい」
「しゃけ」
「え、えへ。こんばんは先輩、ご機嫌麗しゅう。……それではおやすみなさ」
「おかか」
「ひえ」
談話室でエンカウントした狗巻先輩は、お風呂上がりの私の進路を塞ぐように横に動き、それによって逃げ道を完全にブロックされた私は困り果てて顔を逸らした。
……だって、正面から見たら、
「すじこ」
「や……いや、あの……今日の夜は、えっと」
「ツナ」
「えーっと、あの、海面上昇が甚だしいので、私は、眠りについた方が……地球のためと申しますか」
「た……高菜?」
なんの話してるの? と不思議そうな声が聞こえて、ぎゅうっと目を瞑った。
だってほら、このまま先輩が近づいて来て、もし私の視界に入っちゃったら。今度こそイタリアのどこかの町が水没しちゃうもん。
私が環境に優しいことを考えていると「取って食ったりしないから」というようなことを言いながら、狗巻先輩が私を手招いた。
抵抗する言葉なんて出てくるはずもなく、そのまま談話室のソファに並んで座る。
「ツナマヨ、すじこ」
「は、はい……最近早起きなんです……」
「しゃけ」
「老化で、体力が無くなったから」
「……おかか」
「う、嘘じゃないですよ。一日当たり三十年は歳をとってます……」
「おかか……」
そんなこと言ったら、もう百歳越えてるでしょ。
呆れた様子でそう言って、狗巻先輩はくすくす笑う。
うわ。うわうわうわ。なんか空気が甘い。まるでチョコレート専門のパティスリーにでも居るみたいな雰囲気に飲まれて、食べられてしまいそうで。
なんだか今、ものすごく――――走り出したい気分。
「せ、せんぱい、」
「しゃけ」
「あの、私、今からランニングに行こうと思います……」
「い、いくら?」
「道ッ、走らずにはいられない……みたいな」
「おかか、こんぶ」
お風呂上がりで冷えるだろうし、今日はもうやめときなよ。と苦笑いする先輩。明日なら一緒に付き合うよ、なんて言っ……、……、て…………?
「つ、つき、」
「ツナ?」
「つきあ、あわ、つきあう」
「……」
「付き合う……?」
「しゃけ」
い、狗巻先輩と私、付き合ってるじゃん。ランニングに付き合ってくれるって、え? 付き合うって、それってつまり、今すでにランニングしてるってことなの?
いやでもしかし、今の私達はソファに座っていて、走ってるわけじゃなくて、じゃあ私の勘違いで……もしかしたら、もうとっくの昔に走り終わってたのかも。
「狗巻先輩……」
「しゃけ」
「お疲れさまでした」
「こ、こんぶ」
私が膝ばかり見つめているからか、隣りに座っている狗巻先輩のハーフパンツしか視界に入ってこない。それがもぞりと動いて、「久しぶりにゲームでもしようよ」と先輩の声がする。
「げ、げーむ」
「しゃけ」
「何系の、ですか……?」
「……ツナ?」
その言葉に顔をあげると、狗巻先輩が弓を射るようなポーズを取っていた。あ、狩りするほうの。もちろんそっちですよね。私の、乙女ゲームの……男遊びのやつなわけ、ないですよね。だって付き合ってるわけだし、男遊びだなんてそんな、破廉恥な…………、……、
「…………」
「――――すじこ?」
「ッハぁイ!?」
「お、おかか」
「すみませ、な、なんですか?」
「ツナ。こんぶ」
「ゲーム持って、集合……」
「しゃけしゃけ」
わかりました、と応えて頷き、立ち上がるためにソファに手をついた。……ついたら、触ったところが不思議と硬くて、びっくりして目を向けると手があった。
――――狗巻先輩の手が、私の手の下に。
「ひわっ……!」
「たっ、かな」
「…………」
「…………」
二人してパッと飛び退いて、何も言えなくなってしまった。
手。狗巻先輩と、手、繋いじゃった。
……いや厳密には違うけど。握ったわけじゃないから、繋ぐと言うと語弊がある。
狗巻先輩の身体を触っちゃったのだ。それも生で。これはもうほぼ痴漢したも同然だ。
付き合ってまだ一週間も経ってないのに、同意も無く男性の身体を撫でまわすなんて……あまりにも破廉恥では?
「……」
「……」
「……」
「……」
「……げ」
「ツナ」
「げーむ、とって、きます」
「……しゃけ」
お互いぎくしゃくとロボットのような動きで部屋に戻り、携帯ゲーム機を手に談話室へ戻ってきて、キッチリ一人分の距離をあけてソファに座る。
いつもの調子は空の向こうに飛び去ってしまったらしい。
私のプレイはもうガタガタで、竜から何度もサマーソルトを食らい、マップを間違え、投げた閃光玉はひとつもタイミングが合わずにただ光って消えた。
狗巻先輩に至っては、初っ端からアイテムをすべて倉庫に入れっぱなしにしたまま出発したらしく、裸一貫でクエストに乗り込んでいた。このままではペイントボールを投げるだけの簡単なお仕事である。
「……あの、なんか私、今日は調子悪いみたいで」
「しゃけ。ツナマヨ」
「そ、ソウデスネ。それなら、パンダ先輩呼ぶなら、恵くんも呼んで、四人でプレイするのは……いかがでしょう……」
「しゃけ」
狗巻先輩は視線を逸らしたまま、パンダ先輩と恵くんに電話をかけて二人を呼び出した。
呼ばれて来てくれた二人はなんとも言えない表情で顔を見合わせ、結局四人で談話室を占領して黙々と狩りに勤しむことと相成ったのである。
「棘オマエ顔赤、」
「おかか」
「……なーんか、手繋ぐどころか、喋るのですらまだ時間かかりそうだな」
「……こんぶ」
「俺が指南してやろうか?」
「おかか」
顔が熱くて上げられないし、狗巻先輩とパンダ先輩のやり取りすら頭に入って来ない。その間に恵くんはゲーム機片手に近寄ってきたかと思えば、私を挟んで狗巻先輩とは逆側に腰を下ろそうとするのだ。
な、なんでわざわざこっちに。もう一個ソファあるんだし、あっちに座ればいいんじゃないかな。
「オイ神埼。狭いんだからそっち詰めろ」
「いや……その……ここ、透明人間が座ってて……」
「はぁ? バカなこと言ってないで狗巻先輩の方寄れ」
「ひゃ、……いぬ、ぬ、まき、せんぱい。お隣失礼します……」
「すっ……すじこ」
先輩と触れ合いそうな距離の肩が、熱い。
「北極の氷が融けたら……恵くんのせいだからね……」
「知らねーよ」
+++++
☆ご愛読ありがとうございました! 神埼灯里先生の次回作にご期待ください――――
訳:PJ、ひとまず完了です!
2021.07.03
<< △