ある夏のこと。
いつも通り後輩の課題に付き合ってやっていると、彼女がげんなりしたような顔で仰け反り、溜息を吐いた。

「アー……疲れましたぁ」
「おかか」

夕食後からパンダと恵を含めた四人でゲームをしていたものの、途中で課題の存在を思い出した灯里が悲壮な顔をして「やばいです」と呟いたのが合図だった。
自分の想いを知っているパンダが"気を利かせて"恵と共にこの部屋から退散し、今は灯里と二人きり。真向かいに座っていては字を読むのが大変だから、教えるためには仕方なく――まぁ多少の下心はあるけれど――隣に腰を下ろして灯里の教科書を覗き込んでいた。

こんなに近い距離に居るのに、肩が触れそうになっても何ともない様子でペンを握る灯里は本当に自分を男として意識していないのだろう。それがすこしだけ悲しいけれど……だからこそ、こうやって二人きりの空間に居られるのだ、と自分を慰めてみる。
隣に座る男が不埒な考えを必死に爆散させようとしているとは全く気付いていない灯里はというと、このままだと白紙で提出することになりそうだ、なんて言って泣きついてきた割にはさっきからペンが動いていなかった。

「すじこ」
「全然わかんないです……けいすうとかもう既に用語が憶えられないです」
「……」

公式を説明してやりながら問題を解いているものの、やはり理解するには時間がかかるらしい。教えているうちにいつの間にか月も高いところに居座り、今はゴールデンタイムのテレビ番組すら終わっている時間だろうか。パンダたちが居なくなる前に降り始めた空の涙は強さを増し、既に外は大雨になっている。
一年生の頃にもっとしっかり授業を聞いておくんだった、と後悔しても後の祭りだ。片想いをしている相手にこうやって勉強を教えることになるとわかっていたら、もっとちゃんと頭に入れておいたのに。
授業中についウトウトしたり、自作の似顔絵コレクションを憂太に披露したりせず、真面目にノートを取ってわからないところは訊いて……昨日だって、灯里が居ないところで去年の教科書を読み返して自主的に勉強する必要もなかったのだ。
自分たちの中では一番勉強ができるパンダにニヤついた笑みで「ほぉ〜愛しの灯里チャンの家庭教師とは棘もなかなかやるじゃないか、成績上がったらお礼にチューのひとつでも請求しろよ」なんて揶揄われながらも我慢して教えを乞うのだって、全ては後輩とこうやって二人っきりになれるタイミングを逃したくないからだった。

自分を棚に上げて言えることではないが、灯里はどうしてこんなに憶えるのが苦手なのか。ゲームでのダメージ値計算やらモンスターの部位別弱点の基礎値だとかは憶えていられるのに、数学の公式は彼女にとって相当な難易度らしい。
学業に関する物事の習得下手に呆れると共に、やはりそんなところも可愛いなと思ってしまうのだから、どう考えても自分は重傷だった。

「雨、すごいですねぇ」
「しゃけ」

灯里がチラリとカーテンの隙間へ目をやり、呟く。
確か天気予報では雷雨になると言っていたような気がするが……まぁ、寮の中で雷に打たれる心配はないし、ここらで少し休憩した方がいいかもしれない。

「明太子?」
「しーまーすー! スタミナ切れで神埼はもう瀕死です!」

くたりとローテーブルへ頬を乗せた灯里が、ふぅーと気の抜けるような溜息を洩らした。

「…………あ。ふふふ、狗巻先輩」
「?」
「雨といえば、こんな怖い話があるんですよぉ」

ニヤニヤと笑みを浮かべながら顔を上げた灯里が嬉しそうな声を出す。
呪霊を相手にしている呪術師を捕まえて怪談だなんて。灯里にとって呪霊と幽霊は別物という位置づけらしく、ホラー映画もホラーゲームも怖いもの見たさで楽しんでは後悔しているようだ。
自分にとっては心霊現象も廃屋の祟りも今更だし怖いもへったくれもないが、まぁ休憩がてら付き合ってやってもいいだろう。

「聞きたいです?」
「しゃけ」
「じゃあ神埼の怪談、披露しちゃいますね」

オホンとワザとらしく咳をした灯里は、緩んだ口角を引き締め、声を低くして話し始める。

「私の中学の同級生の話です。その子――仮にAちゃんとしましょう――Aちゃんのお家はすぐ隣に川があって、ちょうどAちゃんの部屋は川に面した二階の角っこにありました。川っていっても多摩川みたいな川幅の広いやつじゃなくて……堤防が無くて、コンクリで固められてて、覗き込むと下の方に水が見えるような感じなんです。川沿いには緑道が整備されてて、桜の木とかが植えられてるからお散歩コースとしては最高なんですよ」

おっとすみません、話が逸れました。灯里がそう言って恥ずかしそうに笑う。

「まぁとにかくその川は、雨の日になると水嵩が一気に増す……そんな感じの川だったわけです。Aちゃんは雨が降ると、窓際のベッドの上から川を眺めるのが好きでした。……その日も、ちょうど今日みたいなどしゃ降りの夜だったそうです。街頭に照らされたお散歩道には誰も人が歩いてなくて、茶色く濁った水が勢いよく流れている……」
「……」
「と、急にコツンと音が鳴りました。風に煽られて何かが飛んできたのかなと思ったそうですが、その後もコツン、コツン、と何かが硬いモノに当たるような音がするわけです。流石に不思議になって窓から少し離れて様子を窺っていると、コツン、と窓に何かが当たっていることに気付きました。……どうやら、下から誰かが石みたいなものを投げてるみたいなんですね。でもAちゃんの部屋は川に面しているわけですから、石を投げるなら緑道を歩いている人の仕業に違いないわけです」

そこで言葉を区切った灯里は、ローテーブルをコツコツと叩いて音を出し、「窓ガラスはこれよりももっと硬い音だと思いますが」と言って話に戻る。

「近所の子供のイタズラか、と思ってもう一度窓に近づいて見下ろしてみると、どうやら川沿いのお散歩道に誰かが立っている。しかも傘をさしていない、全身黒づくめで性別も顔もはっきりしない。友達ならスマホで連絡が取れますし、いったい誰だろう? 何か困ったことでも起きたのかな、なんて心配になった」
「ツナ」

灯里の語りに相槌を打つと、その子はどんな時でも他人を心配して手を差し伸べるようないい子なんです、と少し困ったような顔で笑う。

「だからその時も、大雨の中なのに『どうかしましたか』って声を掛けようと思って、部屋の窓を開けたそうです。で、こんな風に顔を出して――――」
「……!」

と言って悪意なく顔を近づけてくるものだから、一瞬ドキリとした。どしゃ降りの雨の音が少し遠ざかって、遠くに聞こえる雷の音が自分の心臓の鼓動みたいだ。
灯里はこちらの心情に気付くことなく、遠くへ呼びかけるように口の隣へ片手を添え、何かを言おうと唇を動かす。


――――コツン。


「!」
「……また、窓ガラスに何かぶつかるような音がしました」

どうやらもう片方の手で机を叩いたらしい。
先ほどテーブルを叩いて音を聞かせたのはこのためか、と後輩の意外な特技に気付く。

「方向的にも、どうやら開けて寄せた方の窓ガラスに当たったような音なんです。でも下に立っている人が何か投げるような仕草をしたわけでもありません。おかしいなと思って隣を見てみると、そこには壁に張り付いた四つ足の――――」


――――バチン。

話の途中で急に灯りが落ちた。

こちらの目を見ながらオチを描写していた灯里の顔が、墨のような闇に包まれて見えなくなっている。

どうやら停電したらしい。
その証拠に、ほんの少しだけ遅れてバシャーンと空気を裂くような雷の音が響いた。

ゴロゴロゴロ……雷鳴が唸り声を上げている。


ブレーカー。ライト。その言葉が頭に浮かんだ直後、がばっと何かに抱きつかれ慌てて体勢を維持するために床に片手をつく。

「!?」
「わあぁぁ先輩ッ! 先輩!!」

急に視界が奪われたことよりも、灯里の行動の方に何倍も驚かされた。
首元にすり寄られたことで心臓がばくばくと音を立てている。

「お、かか」
「やだ!! むり!!」

何が無理だ、こっちの方がよっぽど無理だ。片想い相手に抱きつかれて動揺しない人間なんて存在しない。
ぎゅうっと子供のように腕に力をこめた灯里は、先ほどの語りとは打って変わって情けない声で「電気点けてくださいぃ」と小さな悲鳴を上げている。

「おかかすじこ」
「や――――」

わかったから放して、と伝えたところでもう一度雷が落ちた。
びくりと大袈裟なまでに灯里の肩が跳ね、先ほどよりももっと強く抱きつかれて頭がくらくらする。
理性が吹き飛びそうだ。だからといって、怖がっている女子をこれ幸いとばかりに押し倒すほど頭が沸いている馬鹿ではないので、理性と煩悩の間を取って灯里の背中を摩ってやる。

「ツナマヨ」
「ひ……無理です無理、むりむり……」
「明太子」
「やだやだ離れないでください置いてかないでください無理です怖いです」
「……いくら」
「電気点けてほしいです!!」
「……」

離れるな、でも電気は点けろ。
復旧するまで頼りになりそうな携帯電話は確か灯里とは反対側、ちょうど自分の尻の近くの床に放り出してあったし、勢いよく飛びつかれて身体を支えるために床に手をついているから身動きが取れない。
後輩の背中に回している手を離して振り向けば取れるが……
そう思い灯里から離れようとしても、勢いよく拒否されてしまっては成す術もなかった。



――――もういいか。


だいぶ暗闇にも目が慣れてきたし、"家庭教師"の報酬として暫くの間はこのままでいさせてもらおう。

諦めの気持ちに少しばかりの下心を混ぜて結論を下し、「すぐに復旧するだろうしちょっと我慢してて」と伝えて、ふるふると震えている灯里の背を撫でた。




こわがりとくらやみ





「…………私、将来は雷に呪詛をかける女になります」
「高菜」
「雷の概念から生まれた呪霊が存在するなら地の果てまでも追いかけて祓います」
「こんぶ」

少し経ってから電気が復旧し、頬を赤らめて「申し訳ございません」と謝りながら身を離した灯里は、課題に向き合いながら真顔でそんなしょうもない呪いの言葉を吐いていた。

しかも、自らが披露したにもかかわらず、あの怪談話ですっかり怖くなってしまったらしい。
ならそんな話はするな。

結局、灯里に「お願いします狗巻先輩もし廊下にアレが居たら今日が神埼灯里最後の夜になっちゃいますお願いですから後輩を見殺しにしないでください」と拝み倒されて部屋まで送って行くことになった。
ドアを閉める時すら怖いだのなんだのひと悶着あって、きっとその声が聞こえていたのだろう。帰る途中で廊下に出てきた真希と野薔薇に目撃され、意味深な笑みを向けられては堪ったものではなかった。

「へぇ〜送り狼か?」
「おかか」
「真希さん、送り狼『未遂』ですよ」
「おかか」
「どーせ怖い話でもしてたんだろ」
「さっき停電してましたしね。『幽霊が雷落としましたァ!』とか言って大騒ぎしてたんじゃないですか?」
「……すじこ」
「怖いならしなきゃいいだろ……バカだなアイツ」
「えっまさか狗巻先輩わざと怖い話させてとかそういう下心」
「おかか!!」


下心はあった。でもわざとじゃない。
憤慨しながら自室へ戻る道すがら、今度は遠くで雷が鳴った。



+++++
怖い話って怖いのになんで読んだり見たりしちゃうんでしょうか……私も自分で怖い話摂取しておいて部屋から出られなくなるヤツです。

2021.05.07


  

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