二人で堕ちるためのお誘い




「ねえ、考えてくれた?」
「ひっ」


変な声が喉から漏れて、名前は目を瞬かせた。
学長に呼ばれてやって来た高専でソファーに埋もれてぼんやり虚空を眺めていた。そこへ突然声と一緒に降って来たのは白銀の直毛だった。名前の真後ろに立った五条が器用に体を曲げて、逆さまで彼女の視界に降って来たのだ。なんの気配もしなかった。名前は跳ねた心臓を宥めながらずり、と横にずれる。


「驚きすぎ。びっくりした顔も好きだけど」
「気配消すのやめてください」


満足そうに笑いながら、五条は彼女の隣に腰掛ける。


「で、考えてくれた?」
「何をですか」
「僕と付き合おうって話に決まってるだろ」
「ああ…」


面倒そうに顔を歪めた名前を見て、五条が口を尖らす。子供か。今日の五条は目隠しをしたままで、だからあの蒼い惑星のような眼は見えない。


「ああ、じゃないよ。僕待ってるんだけど」
「…本気ですか?」
「本気だよ?」


当たり前じゃん、と少し声色に不機嫌が混じる。名前は密かに嘆息した。

彼女が呪術師に復帰した日、高専へ向かう車の中で、付き合って欲しいと告げられてから。いくら考えてみても、五条の思考がよく分からない。


「…今は恋人を作るつもりはありません」
「それはなんで?」
「なんでって…べつに必要ないというか」
「必要に駆られて作るもんでもなくない?」
「それはそうですけど」
「じゃあいいじゃん。付き合ってみれば」


昔からそうだけれど、五条に何を言ったところで大して響きはしない。まるで子供のわがままのように意見を通すし、大人だから口が回る。


「名前はさ、僕のこと嫌い?」
「嫌い、では、ないですけど」
「うんうん、だよね。僕って最強だしイケメンだしお金持ちだし、最高の優良物件だと思うよ」
「優良物件…」


性格の差し引きでほとんどチャラになる気がする。とは言わず、名前はまた虚空を眺める。学長まだかな。誰でもいいから助けてくれないかな。
しかし高専内は静まりかえっており、学長どころか誰の気配もない。


「だってそうだろ?七海じゃなくて僕にしときなよ」
「そう言う問題じゃ、」
「ねえ、名前」


ぎし、と小さくソファーが歪む。隣に座る五条がその距離を詰めたせいだ。真横から名前の顔を覗き込むように、五条は僅かに屈んで見せる。


「僕は君が好きだ」
「…どうして、私なんて」
「聞きたい?いいよ教えてあげる」


特別授業だ、と口角を上げた五条の声に、彼女はほんの少し身構えた。













「…どうした名前、大丈夫か」
「え?何がです」
「顔が赤いぞ。風邪でも引いたのか」
「熱なんてありませんよ」


五条の特別授業をたっぷり受けてすぐ、学長が現れてこれ幸いと逃げ出して。名前は学長室で向かい合ってすぐ指摘されたそれに、すこしむきになって否定した。


「ならいいが。ブランクもあった事だしあまり飛ばすなよ」
「はい」
「それで今日君を呼んだのは、」
「……」


学長の声は名前の頭を上滑りする。


「愛されたいなと思ったんだ。名前にね」


さっき聞いた五条の言葉が、縫い付けたように耳に残っている。


「名前は自分で思うよりずっと魅力的な女性だよ。強くて、弱くて、誰も要らないと思いながら七海にだけはこの上なく依存してる。矛盾してるよね、でもそこが好きだ」




「…おい聞いてるか、名前」
「すみません、聞いてます」

学長がひくりと片眉を上げる。復帰してそうそうやる気なしと思われるのも嫌な気がするが、軽く頭を振ったところで五条の甘やかな声は離れていってくれない。




「七海じゃなくてさ、僕に依存すればいい。そうすれば死ななくて済む」


七海は簡単に死なないと言ったのは自分じゃないか。


「何にも興味が無さそうなのに、そうやって不安そうで泣きそうな目が好きだよ」


泣きそうになんてなってない。五条は隣に座ったまま、いつかの車の中のように名前の手を取ってぎゅ、と握った。迷子を見つけた大人のように。


「このちっさい手も、爪も、目も、ちょうどいい身長も、綺麗な髪も、名前の身体から心まで全部」


五条は名前の手を握っていない方の手で、目隠しに手をかける。嫌だ、今はあの目を見たくない。そう思っても彼女の身体はぴしりと固まったまま、そこから視線を外すことすらできなかった。


「僕だけのものにしたいんだ」


ゆっくり瞬きをした五条の碧眼が、すぐそこで真剣に名前の目を見ていた。
捕われてしまう。その眼から視線を外せない。


「ねえ大丈夫?息止まってない?」


五条の親指が唇をなぞって、は、と我に返った。息を吸い込んで瞬きを繰り返す名前を愛おしそうに眺めて、五条は唇を撫でていた手を頬に滑らす。包むように添えた手はただ触れたままで、美しい碧眼が近付く。
あ、と思った時には、もう焦点の合わない距離に五条の顔があった。かさついた唇同士がゆっくり静かに触れ合って、そのまま離れて行った。

ご馳走様。そう言って柔らかく笑んだ五条の碧い眼の中に映っていたのは、呆けた顔の自分だった。


「少しは僕の気持ちが伝わった?」


3年間同じ学び舎で過ごし、4年と少し離れたままだった。昔から不遜で、なんでも思い通りにしたがる大きな子供。そんな男が優しげに微笑み、熱を孕んで真っ直ぐこちらを見つめる。そんな顔は見たことがなかった。


名前は無意識のうちに、自分の唇に触れた。キス、されてしまった。あの五条に。









「ーーー名前、本当に聞いてるか」
「あ」
「ったく…悟に何かされたのか。妙に機嫌が良かったようだが」


いけない。名前は我に返る。目の前の学長がデフォルトの眉間の皺を更に深く刻んでいた。


「何があったかは聞かないが、嫌な時はキッパリ嫌と言えよ。つけ上がるぞ」
「はい」


教え子であり部下である五条の事は、学長も昔からよく知っているのだ。あの自由奔放なわがまま男が、なにかと名前に執着するのは昔からだ。本人達は無自覚かもしれないが、大人から見れば一目瞭然だった。いつも無気力そうで吹けば飛んでいく根無草のような名前を、引っ掴んで自分の手元に置いておこう躍起になる五条。あんな男だが、それでも3年間名前にだけは付き纏い続けていた。

五条はあれでいて、案外不器用なのだろう、と学長は心の内で嘆息する。長きに渡る片想いを、いい歳になって今も引きずっているのだから。



「それでだ。名前、さっきも言ったが、君は今日から1級術師になる」
「……へ?」
「やっぱり聞いていなかったな」
「え、なんで」
「名前が準1級なのは、卒業前の階級を継いだからだ。そして当時、君は1級昇級の査定中だった。さっきも言ったがな」
「はあ、」
「査定は済んだ。頼むよ、1級術師殿」


サングラスの奥の目は見えないのに、ぎらりと光ったような気がして名前はわずかに眉間に力を入れた。















「昇級、ねえ」


夕暮れに染まるいつもの黒いセダンの中で、五条は呟いた。


「名前さんですか?」
「うん」


運転席の伊地知はバックミラー越しにちらりと五条の様子を伺う。窓の外に向けられたままの視線は目隠しの向こうなので、どんな顔をしているかまでは分からない。
高専を出てからずっと物思いに耽るように車窓を眺めていた五条が、どこか憂鬱そうに呟いたのが昇級なんて言葉であったから。聡い伊地知は最近呪術師に復帰した彼女のことだと思い当たった。補助監督として術師や任務のサポートを手広く行う伊地知にも、その話は届いていた。



「名前さんは強いですからね」
「そうだね。まあ少なくとも伊地知よりは」
「それはそうですが…」
「多分今頃、拗ねてんじゃないかな」
「え?名前さんがですか?」


伊地知は不思議そうにちらりとバックミラーを見やる。


「1級術師の任務はほとんどが単独だ。七海と一緒に回れなくなる」
「…名前さんは、七海さんのことを慕っていますからね」
「慕ってる?そんな綺麗なもんじゃないだろ。あれはさあ、七海と自分への呪いだよ」
「呪い、ですか」
「七海が死ねば名前も死ぬなんてさ。生きていたいから呪術師を辞めたくせにね。生きる理由を七海に丸投げしてるだけだ」
「はあ…まあそれはそうかもしれませんね」


五条は先程の彼女の丸く見開かれた目を思い返す。
名前が自分の眼に弱いことを、五条は分かっている。分かっていてわざとああして、そしてキスしてやった。

生きていたいから呪術師辞めたんじゃないのかよ。だから僕はあの時引き留めたりしなかったのに。
生きていたいなら、死ぬための理由なんて考えるなよ。そうまでしなきゃ生きていけないなら、いっそ自分に呪いをかければいい。


「ーーー僕なら死なせないのに」


閉じ込めてどろどろに甘やかして、自分以外何にも考えられなくしてやりたかった。だけど名前が望むのが、同期が生きている世界だと言うならそうした所で無駄だろう。
五条は目隠しの奥の眉間に力を入れる。


「名前さんは、まだ灰原さんの死を受け入れきれていないのかもしれませんね」
「…何年経つと思ってるんだよ」
「一緒に過ごした時間より、居なくなってからの時間の方が長くなっても…或いはまだ、名前さんの中では三人はいつも一緒で…だから七海さんが居なくなってしまうことが何より怖いのかもしれません」


勝手な憶測ですが、と伊地知がすこし寂しそうに笑う。伊地知にとっても灰原はいい先輩だった。過ごした時間はとても短かったけれど。


「……自分の人生を生きる気はないのかねえ。これだからゆとりは」
「そうは言っても、五条さんが名前さんを放っておけないのも、昔からですね」


分かったような口を聞く伊地知の座るシートを、今日ばかりは蹴る気も起きなかった。


「僕も名前と同類かもな。あいつが居ない世界なんてごめんだね」


居なくなってしまった親友の笑った顔がよぎって、五条は知らぬうちに溜め息を落とした。






back



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -