地獄と呼べど、君在りて春




朝焼けが目に眩しく、名前はまだ重い瞼を擦った。澄み切った朝の空気は冷たく、否応なしに頭がクリアになっていく。手にしていたペットボトルの水をひと口飲む。地平線からまだ遠くない場所にある太陽が、静謐な朝を明るく照らしている。ほとんど廃墟のようなこの建物に滞在して1週間。埃っぽいここは元は村人が暮らしていた建物の一つだった。度重なる天災と説明のつかない不可思議な事件が続き、今ではもうもぬけのからだ。調査に6日、準備に丸一日。今日で終わりだ。


「名前、早いな」
「…レイリー、おはよう」


不意に後ろから声を掛けられて、名前は振り返る。そこに立っていたのは長身でシルバーブロンドの男。流暢なクイーンズイングリッシュを操る彼はこの呪術師団の団長を務める男だ。呪術師団は本拠地を中心に複数の団に分かれているが、名前が配属になった団は6人で構成されている。気付けば名前は団長に次ぐ古株になっていた。


「感慨深いか、最後の仕事は」
「そうかもね」
「早いもんだな」
「そうだね」


呪術師団の任期は1年だ。しかしまもなく名前の任期が明けるという時、入れ替わりになる予定だった術師が怪我を負い合流出来なくなる。次の団員が見つかるまで、名前は自ら任期の延長を申し出た。それから半年経ち、また半年経ち、結果として幾度も彼らと季節を巡ることとなった。

さまざまな呪霊と相対し、幾度となく死にかけた。怪我もしたし、助けられたし、そして沢山の人を絶望の淵から救い出した。元々好戦的な性分の名前は恐れず最前線に立ち続けたし、各国の術師と共に戦ううちに己の術式の解釈もより深まった。

−−−強くなれただろうか。大切な人を守れるくらいに。




「それで?名前は日本に帰ったら、誰に会いたいんだ」
「またその話?べつに誰でもいいでしょ」
「はは、恋人はきっと待ちくたびれてるぞ」
「そんなの居ないってば」
「へえ?君が携帯を持たないからって毎月のようにカードを送ってくる彼も?」
「もう、しつこいよ」


名前が眉を下げて笑う。
彼女は日本を発つ前に携帯を解約していた。それは名前なりの覚悟でもあったし、家族のいない彼女にはさして困ることでもなかった。慣れてしまえば楽なものだ。団から支給された携帯はあくまで団員との連絡のみに使っていたから、必然的に日本との連絡は郵便に限られた。しかし世界各地を廻る彼らに郵便物は簡単には届かない。本部宛てに送られた郵便物は、必要物資の配送時に一緒に送られてくる。だからそれは投函から随分日が経ってから彼女の手元に届くのだが、それでも配送の度に彼女宛ての葉書があった。


「クリスマスカードはいつも二枚来てたな?もしかして彼氏は二人か」
「レイリー、そういうのは見て見ぬふりをするもんだよ」
「気になるんだよ。冷静で実力もある名前が、カードを見るときばかりは乙女の顔をしてたからさ」
「…いつからお父さんになったの」
「はは、まあ確かに父親みたいな気分かもな」
「じゃあ尚更そっとしといて」


レイリーは彼女より一回り歳上だ。父親にしては若いが、彼女の着任時から長い付き合いになる。
顔を見合わせて笑い合って、名前はまた地平線を眺める。

日本を離れて、随分長くなった。
まめな七海は毎月のように葉書を送ってくれる。短いメッセージはしかし、名前にとってかけがえのないものだった。みんな元気にやってる。それだけで充分彼女の力になった。


「さて名前、それじゃあ君の記念すべき最後の仕事にかかろうか」
「よーし、やるかあ」
「頼りにしてるよ、名前」
「うん、任せて」
「話の続きは夕飯の時にな」
「まだ言ってる」


朝焼けに赤く輝くシルバーブロンドを横目に、名前は呆れたように笑った。













「レイリー!結界に入って!」
「あーあー分かってるよ!」


準備は万端だった。索敵、遠距離攻撃に長けた術師達を後方支援に置き、名前はレイリーと前線に立つ。村ひとつを壊滅に追いやった呪霊は狡猾で強大であった。
万端に済ませた準備が足りなかったことは早々に思い知らされる。砂埃が舞う中、最前線の二人の声が飛ぶ。


「名前、!」
「今やってる!」


地震のような衝撃によろめきながら、視線を通わせて攻撃をたたみかける。レイリーの作り出した隙に、名前が結界で自分達を防御しながら急所を狙う。強い一撃を放つためには、まだ今少し集中が足りない。幾度も死線を共に越えてきたレイリーがそれに気付き、名前の前に躍り出る。


「レイリー待って、」
「いいから集中しろ!お前のアレじゃなきゃコイツは祓えない!」


このままでは目の前でレイリーが死んでしまう。名前はぎり、と奥歯を噛み締める。
−−−もう二度と、あんな地獄に堕ちてたまるか。


「どいて、レイリー!」
「おい、待てまだ、」
「いいから早く!」
「名前!」


むせ返るような濃い呪力の塊に向かって、名前は軸足で強く地面を踏み締める。捨て身とも取れる決死の一撃が、辺りに黒い稲妻を走らせた。


「名前!」


呪霊の雄叫びと共に、息の詰まるような呪力の波に名前の姿が飲まれていく。レイリーの悲痛な声が轟音に飲まれた。














−−−















「……今日、か」
「もうすぐこちらに着くようです」


高専内にある応接間の広いソファーに、長い脚を組んで腰掛けた五条がぽつりと落とした声を七海が拾った。


「全く何が1年だよ。好き勝手延ばしまくりやがって」
「それは同感です」
「しかも全然連絡も寄越さないで?やっと送ってきた写真がこれ一枚」
「…」


応接セットのテーブルの上には、黒縁の写真立てが立っている。誰が撮ったのか、珍しく弾けるような満面の笑みの名前と、その横で肩を組むシルバーブロンドで目の下に傷跡のある大男−−レイリーが写っていた。


「僕らのこと振っといて男との写真送ってくるとか、本当アイツ舐めてない?」
「……このレイリーという男には、随分世話になっていたようですからね」
「歳が離れてるったって一回りくらいなんだろ?そんなん全然男じゃん。アイツ危機感無さすぎなんだよな」
「それはまあ、そうですね」


七海が浅く息を吐く。今日は待ちに待った名前の帰国日だった。1年の我慢と思っていた七海は、最初に滞在が延びたと聞いた時からなんとなくそんな予感はしていたのだ。どうやら彼女は呪術師団での仕事が肌に合うらしかった。半年延び、また半年、気付けばまた1年…全く自由なものである。高専としても名前は貴重な1級術師であるのだから、本音としては早く帰国して欲しかっただろう。しかし学長は、彼女の滞在を許した。


「……ま、死んでも帰って来るってとこは、褒めてやってもいいけど」
「苗字には身寄りがありませんから、てっきり遺骨は海にでも還してくれとか言うのかと思いましたけどね」
「ああー言いそう。めちゃくちゃ言いそう」
「せっかく帰ってくるのだから、迎えてやらないわけにはいきませんね」
「まあね。本当勝手な奴だよ」


勝手に飛び出て行って、勝手に帰ってきて。

五条が目隠しを取り去って、ソファーに置いていた小さな花束を掴み上げる。白い薔薇にグリーンとかすみ草が添えられたそれを、写真立ての中で笑う名前の前に手向けた。


「変な奴だったけどさ、いい女だったよな」
「…まさかあなたと同じ相手を好きになるとは思いませんでしたよ」
「は、それは僕も同感。七海って結構激しい女が好みだったんだね」
「五条さんこそ、もっと分かりやすい女性がお好きかと思いましたよ」


一度二人の間に沈黙が落ちる。浮かぶ顔は同じだ。いつもどこか無気力そうで、だけど内側に沢山の感情を秘めたひとりの女。写真の中で笑う笑顔は、彼女の呪術師団での暮らしが楽しかった証だろう。


「……名前もさあ、こんな風に笑うんだな」
「水が合ったんでしょう。毎回死にに行くような仕事が」
「やっぱイカれてるね」
「まあでも…こんな顔をさせてやったのが他の男だったと思うと、妬けますね」
「そうだなー、地獄まで追いかけてってやろうか」
「あなたなら出来そうですからやめてください」


風もないのに、白い薔薇の花弁がかすかに揺れた。五条と七海の口端にわずかな笑みが乗る。


「ま、大好きな団長サンと一緒に死ねたんだ。寂しくはないだろ」
「人に生きる意味を求めておいて、自由なものです」
「遺される側ってのは辛いねえ、七海」
「……そうですね」
「ドラゴンだったっけ?」
「はい。ルーマニアの奥地だったとか」
「ドラゴンと戦って死ぬなんて、名前らしい」


五条がくつくつと喉を鳴らして笑う。七海は目を細めて、写真の中の笑顔を眺めていた。
壁にかかった時計が目の端に映る。もうすぐ名前は、ここに帰って来る。ずっと会いたかった愛しい人の帰りを、二人の男は静かに待っていた。


「僕を遺して逝った罰はどうしてやろうかな」
「死者に鞭打つようなことを考えるのはやめてください」
「大体七海は甘いんだよ。名前を甘やかしすぎ」
「…好いた相手を甘やかしたくなるのは当然では」
「はあー?そんなん僕だってそうだけど?ぐずぐずに甘やかしてもう五条さん無しじゃ生きていけなーいって泣くくらい良くしてやるけど?」
「……なんの話ですか」


七海が呆れた息を吐く。
応接間のドアが、かすかに鳴った。


「……ま、死んでようが僕は名前の帰りが楽しみだよ」
「そうですね」


「死んでないですけどね」


五条と七海の目がドアに向く。頬を引き攣らせた懐かしい顔がそこに居た。


「あれー名前?化けて出ちゃった?」
「五条さん、呪骸かもしれませんよ」

「い、き、て、ま、す!なんなのこれ、写真まで飾ってわざわざこんなお花買ってきたんですか」



名前がテーブルに歩み寄って眉間に力を入れる。
対する五条と七海は、堪えきれないように口端を歪めた。


「名前お前、日本を発つ時僕たちのこと騙したろ」
「は…あれもしかして根に持ってます?七海も?」
「……べつに」
「めちゃくちゃ根に持ってんじゃん」


七海が一度視線を泳がせて、それからサングラスを取り去る。数年ぶりに会った彼女は相変わらず小さくて薄くて、そしてどこか気怠そうな雰囲気を乗せた目で二人を睨め付ける。
出発の際出立日を1日ずらして教えたことを、彼女はすっかり忘れていた。寂しそうな顔を見たくなかったからだが、まさか年単位で恨まれるほどとは思わなかったのだ。


「しかも五条さんさりげなくレイリーも死んだことにしましたよね。生きてますからね」
「あれーそうだっけ?名前はこのオッサンと仲良くドラゴンに食われたんじゃないの?」
「食われかけましたけど大丈夫でしたから」
「なーんだ」
「え、待って、私が最初に騙したから、これ仕返しですか?」
「さあ?」
「七海まで一緒になって…?」
「……さあな」


名前は呆れたように深く嘆息する。おかしいとは思ったのだ。出迎えてくれたのは出発の時のメンバーと学長だった。家入と伊地知、学長は相変わらずだったけれど、猪野はもう高専を卒業していた。再会を喜んだのも束の間、五条と七海の姿がない事で名前はわずかに不安を覚える。何かあったとは聞いていないし二人とも忙しいだろうが、迎えくらい−−−そうして向かった高専で、家入に応接室へ行くよう言われる。言われるがまま向かえば中から懐かしい声が二人分聞こえて、そしてそれが自分を悼む内容であったから。


「なんかもっと、帰って来たことを喜んでくれるかと思ったのに…」


名前がすこし俯いて、拗ねたような顔をする。どうやら長い海外暮らしで、感情表現もすこし豊かになったらしい。そうしてそれを見て可愛いな、と思ってしまうあたり、やはり五条も七海も馬鹿な男なのである。


「…喜んでるさ。無事でよかった」
「さっきまで死なせといてよく言う」
「ま、本当よく五体満足で帰って来たよね」
「ああ、実は私反転術式を覚えたんです」
「え、マジ?」
「自分の怪我しか治せないし広範囲は多分無理ですけどね」
「ふーん」
「いろんな人たちといろんな国を廻って来たので、それなりにレベルアップしましたよ」


名前が悪戯に笑う。結局二人の男はつられたように笑って、そうしてずっと言いたかった言葉を彼女に贈るのだ。


「お帰り、苗字」
「うん、ただいま七海」

「あ、七海抜け駆け!僕が先に言おうと思ってたのに」
「そんなこと知りませんよ」

「五条さんは言ってくれないんですか?」
「……お帰り、名前」
「はい、ただいま戻りました」
「あーもう、全部名前が悪い!」
「え?っ、うわ、」


冬の間待ち侘びた春の風のように、ふわりと笑った名前の身体を、大きな五条ががばりと抱きすくめる。長らく待ち望んだ温もりを腕に閉じ込めて、五条は腹から息を吸う。


「五条さん、苗字から離れてください」
「えー七海もしたいくせにー」


そういえば名前が何にも言ってこないな、と五条は胸元の顔をそっと覗き込む。そうして一度、呼吸を忘れた。すこし腕が緩んだその隙に五条を見上げた彼女の顔は、怒るでも嫌がるでも恥ずかしがるでもなく、柔らかく笑んでいたからだ。


「え、名前?」
「五条さんは相変わらずですね」
「へ」
「甘えん坊の寂しがり」
「はあー?」

名前が不意に腕を伸ばして、五条の身体を抱き締めてやる。五条と七海の目が丸くなる。


「ほら、七海もおいで」
「…勘弁してくれ」
「なんでさ」


固まった五条から身体を離して、名前が七海に視線を向ける。そうして七海に向かって腕を伸ばした彼女に七海は驚きを隠せない。
海外暮らしのせいでパーソナルスペースが狭まったか。ハグに抵抗がなくなるくらいなら有り得るだろうが。


「ずっと会いたかったんだよ。七海にも、五条さんにも」


開いたままのドアから不意に吹き込んだ春の風が、置かれたままの白い薔薇を揺らす。
春より淡く、美しく微笑んだ名前を前に、五条は柄になくツンとする鼻の奥を悟られないように、笑った。


「甘えん坊はどっちだよ、」
「わ、」
「は、五条さん、」


七海を右の、名前を左の腕で捕まえて、五条が笑う。ぎゅう、と二人の肩口を抱き締める。


「お前らだって寂しかったくせに」
「五条さんそれ、一番最初に寂しかったと認めていますよ」
「まあいいじゃん七海」
「苗字は五条さんに甘すぎる」


声を上げて笑う名前と、眉間に力を入れた七海と、歯を見せて笑う五条。三人に春が来る日は、もしかするときっとそう遠くないのかもしれない。



「なにやってんのあんたら」
「あ、硝子さん、混ざります?」
「勘弁してくれ」
「五条さん、苗字を離してください」
「なんだよ七海、いいじゃんよ」
「抱き締められるなら五条さんより苗字の方がいい」
「お、言うね七海〜」
「家入さんまでやめてください」



沢山のことを学んで、力も付けてきた。見知らぬ国の見知らぬ人々を地獄の淵から掬い上げて、だけど己の力がどこまで通用するものかまだ分からない。呪霊の脅威は年々強大化しているし、名前が守りたい人々はよりにもよってそれらに相対する強さを備えている。例え呪いに殺されなくても、人の命は儚いものだ。いつ誰が地獄を見るかなんて、誰にも分からない。それでもそれが少しでも遠くにあることを、彼女は心の中で祈るのだ。







地獄と呼べど、
君在りて春



end








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