黄泉平坂待ち合わせは9時




七海が本気で自分を妹のような存在と思っていると思ったわけではない。名前は高専のソファーに座ったまま天井を仰いだ。明るい日差しが柔らかく照らし出すそこは、細かい埃が舞ってきらきらと輝いている。

七海は自分と恋人になりたいのだと言う。嬉しかった。彼のことは好きだし、居なくてはならない存在だという思いは変わらない。この先もずっとそうだと思う。一瞬だけ奪われた唇のかさついた感触は、あの後しばらく頭から離れてはくれなかった。こんなイカれた女の何処がいいのか分からないけれど、七海は名前のことをよく知っている。もしかすると、彼女以上に。

深く息を吐き出して顔を前に向ける。前に此処に座っていた時五条が隣に来て、なぜ自分が名前を好きなのか話して聞かせた。昔から意地悪ばかりされて苦手な先輩だったのに、どうも最近はあまりそう思わない。あの美しい眼に愛おしいものを見るように見つめられると、吸い込まれうだし引き込まれてしまう。自分を選べと五条は言う。選ぶなんてそんな権利を与えられるような人間じゃないのに。

名前がもう一度嘆息したところで、後ろから声をかけられた。


「名前、待たせたな」
「…いえ、大丈夫です」


相変わらず眉間に深い皺を刻んだ学長が立っていた。









「……地獄は、何処にあると思う」
「地獄?」


学長室で向かい合って座った途端、学長がそんな事を言うものだから名前は目を瞬かせた。
話があると言われてやって来たが、それにしても真意の読めない質問だった。


「私宗教学はあんまり…」
「宗教じゃない。君にとっての地獄とは、どんなところだ」
「私ですか?」


そもそも座学は全般的に苦手だった彼女は僅かに安堵するが、学長の声色は真剣なままだ。
名前は一度視線を彷徨わせた。


「……生きる意味のない世界、ですかね」
「君の生きる意味とはなんだ」
「正直…よく分かりません」
「ではもし、七海にもしものことがあったら」
「……それは」


学長の声は静かだった。反して名前は居心地悪そうにまた視線を彷徨わす。七海が死んだら自分も死ぬ。だって七海のいない世界なんて生きていても意味がない−−−


「…七海が死んだら、私も死ぬと思います」
「悟なら?」
「五条さん?…五条さん、は、死ななそうですけど…でももしもの事があったら…」

すごく嫌です。

学長の質問の意図を測りかねたまま、名前は呟く。そう、すごく嫌だ。七海も五条も、自分より長く生きて欲しい。大切な人を失った世界など、それこそ地獄だ。


「……地獄というものは決して彼岸のものじゃない。そこらじゅうにある」
「…はあ、」
「大切な人を理不尽に奪われる、与り知らぬ呪いによって殺される、逆恨みで呪われる。昨日まで平穏だった世界が、一瞬にして地獄に変わる」
「…」
「君もよく知る通り、善人ならば呪われないということは決してない」
「そう、ですね」
「しかし私たちは、それに対抗し祓うことが出来る力を持っている」
「…」
「まあ、だからと言って地獄を見ない訳ではないし、むしろ私達こそその苦しみを誰より肌で感じてしまうが」


学長が大きな両手を組む。サングラス越しの眼差しが刺さるような気がして、名前は息を飲んだ。不穏な前置きにわずかに身体が強張る。


「……名前、国境なき医師団を知っているか」
「え?まあ、はい」
「彼らは国や政治、人種、宗教に関わらず、医療が必要な人たちを支援している」
「はあ…」
「規模は比べ物にならないが、呪術師にもそういう団体がある」
「へえ、そうなんですか」
「呪術師は数が少ない。なので各国輪番で参加者を出し、それこそ国境に関係なく必要な場所へ出向いて祓除任務に当たっている。そして今年、日本から1名派遣することになった」
「……え、」
「行ってみないか。名前」
「私が…?」
「任期は1年。被災地や紛争地帯の場合もある。地の呪術師だけでは対応できない場合がほとんどだから、大抵が1級以上の呪霊だ」


名前は眉根を寄せる。そんな大任を背負えるような実力が、自分にあるとは思えなかった。
学長が薄い紙束を手渡す。名前は視線を落とした。

多国籍呪術師団−−−その名の通り各国から参加者を募り、要支援地域にて調査、祓除、封印などを行う。公にはされていないが世界的に政府が認めた団体で、その活動地域は世界各国に及び、団員の任期は基本的に1年だ。必然的に被災地、紛争地帯、感染症の蔓延地など負の感情が渦巻く凄惨な現場も多い。


「…学長、これ」
「ん?」
「もし任務中に死んだら、日本に帰れるんですか」
「…ああ、団員の遺体は例え欠片になろうと髪の毛1本だろうと、母国へ帰還させる。そういう決まりだ」
「ふうん…」
「勉強になる。それだけは保証するよ」
「そう、でしょうね」


紙束から視線を上げないまま、名前は呟いた。














「苗字さん、お疲れ様でした」
「ありがとう、伊地知」


別の日、名前が黒いセダンの後部座席に乗り込むと、運転席から振り向いた伊地知が微笑んだ。

任務を終えた名前はシートに背を預けて深い息を吐く。


「お疲れのようですね」
「ん、そうでもないよ」
「いつも苗字さんに頼ってしまってすみません」
「伊地知が謝ることじゃないよ」


伊地知が申し訳なさそうに眉を下げたのは、予定外の任務が入ったからだった。名前は仕事熱心な後輩に笑う。伊地知はバックミラー越しに彼女を見て、それから視線を前に戻した。


「…苗字さん、少し雰囲気が変わりましたね」
「え?そうかな」
「当たり前なのかもしれませんが、学生の時よりずっとよく笑うようになったと言うか」
「そ?」
「はい」


名前は視線を車窓へ向ける。宵闇が空の端を食んでいる。街並みを歩く人々の足は忙しなく、目的を持って進んで行く。

−−−私の目的ってなんだろう。

学長から聞いた話は、あれから何度も頭の中を廻っている。薄氷の上に在る幸せを、そうとは知らず人々は享受している。名前もそうだった。家族も、友人も、かけがえのないものが今日笑っていたからと言って、明日も同じではない。世界が一変する恐怖と絶望を、名前はよく知っている。弱い部分を自分で認めるのが怖くて、呪術界から逃げて、そしてまた戻ってきた。生きる理由を七海に押し付けて。

死にたくないのは、どうしてだったっけ。

幸い、彼女は座学は苦手だが英語は日常レベルなら扱えた。多国籍呪術師団−−−話を聞いた時は自分に務まるはずはないと思ったのに、時間が経つほど魅力的に思える。もし、理不尽に突き付けられる地獄をひとつでも減らすことが出来るなら。あんな思いをする人を、ひとりでも減らせるのなら。



「……勉強か」


小さく呟いた彼女の声を、伊地知が拾うことはなかった。

もっと強くなれたら、大切な人たちをこの手で守ることも出来るだろうか。逃げ出したはずの呪術高専には、その実大切な人たちがいた。失いたくない、もう理不尽に、何も出来ないまま奪われてしまうのは、嫌だ。



「……ねえ伊地知、今日学長いるかな」
「え?はあ…特に校外に出る予定は無かったかと」
「そっか」
「学長に用ですか?」
「……うん」
「確認しておきますよ。高専へ向かう前に何処か寄りますか?」
「ううん、大丈夫」


宵闇はあっという間に夕焼け空を埋めていく。長い夜はしかし、永久ではない。名前はそれもまた知っている。














話があるんだ、と薄く笑った名前に、七海はなんとなく嫌な予感がした。何か吹っ切れたような顔をしていると思ったからだ。

ラーメン屋のカウンターで、注文を終えた途端にそんなことを言った彼女の顔をまじまじと見る。新たな来店者を告げる自動ドアの音と、店員の声がどこか遠く感じた。


「私、七海とは付き合わない」
「……そうか」


まさかラーメン屋のカウンター席で告白を断られるとは思っても見なかった。七海はすこし呆気に取られて、それから口端で少しだけ笑った。
なんとなく、そんな気はしていた。


「五条さんを、選んだのか」
「ううん、そうじゃないよ」


すこし目を細めた七海の視線をきちんと受けて、名前が一口グラスの水を飲む。安っぽいプラスチック製のグラスに触れる唇をつい目で追って、重症だな、と七海は密かに自嘲する。


「七海さ、多国籍呪術師団って知ってる?」
「…話には聞いたことがあるが、まさか」
「そうそのまさか。私ちょっと世界行ってくる」
「………は、」


珍しく目を瞠った七海を、名前は悪戯が成功したこどものように眺めた。つまりその顔はどこか満足気である。


「1年、修行だと思ってさ」
「一度は辞めたというのに?」
「まあそうだけどさ。怖がってばかりいてもだめかなって」
「…べつに駄目ではないだろう」
「だめなんだよ、このままじゃ」


駄目じゃない。怖がっていればいい。自分に依存して、離れず側に居ればいい。呪術師なんて辞めたっていい。

七海はそれを口には出さなかった。


「でも、七海が居ないと生きてけないってのは、多分まだ変われない」
「……そうか」
「勝手な事言ってるのは分かるけどさ」
「私と付き合わないというのは、それが嫌だからという訳ではないんだな」
「それはまあ、」


きらりと鋭く光る視線に、名前が言葉を途切れさせる。七海はひとつ息を吐いた。


「それならいい。死なずに帰って来いよ」
「うん、いいの?」
「いいさ。君を好きな気持ちは簡単には変わらないだろうが、無理強いするものでない事くらい、分かる」
「……七海はさあ、いい旦那さんになるよ」


いつかも言われたな、と七海は考える。いい夫になれるかどうかは分からないが、彼女にとってそうなれるなら、自分はきっと何だってするのだろう。


「そう思うか」
「思う思う。1年経って帰って来たら、もう誰かとそうなってるかもしれないけど」
「それは無いな。相手は君以外あり得ない」
「……七海ってそういう事、」
「言うさ。君が好きだからな」
「な、なみ?」


ほんの数分前に振られた男が口にする事じゃなのは、七海だって分かっている。だけど名前はすこし目を丸くして頬を赤らめているから、つい口端に笑みが乗る。


「…死ぬなよ」
「たぶんね」
「必ず帰って来てくれ」
「……止めないんだね?」
「苗字は適当に見えて案外頑固だからな。今更私が何か言ったところで、もう決定事項なんだろ」
「さすが、よく分かってる」


ふわりと破顔した名前は、惚れた欲目を差し引いてもとても綺麗だった。


「それでいつ発つんだ」
「ああうん、来週のー、木曜」
「直ぐだな」
「一日でも早く来てほしいって」
「そうか」
「…見送りはいいからね?」
「……そうか」


そこで二人の目の前にラーメンがやって来て、会話は途切れる。目をきらきらさせて箸を割る名前の隣で、七海には味わう余裕は無かった。













「はあ?多国籍呪術師団?」
「はい」
「…あれが行くのは危険な呪霊ばっかだよ」
「承知の上です」
「死にたくないんじゃなかったのかよ」
「死なないように頑張ります」


次の日、名前は今度は五条と向かい合っていた。フルーツと生クリームで溢れそうなパフェグラスを前に、五条の眉間に皺が寄る。
彼女は昨日七海に言ったのと同じ話をした。


「…それ、僕と七海から逃げたいわけじゃないよね」
「まさか」


柄の長いスプーンをパフェに突っ込みながら、五条が唇を尖らす。名前は眉を下げて笑った。


「……というか正直、私よく分からなくて」
「何が」
「七海も五条さんも、私にとって大切な人です。なんていうか…選べないです」
「……僕も七海も好きってこと」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「はあ?なんだよそれ」


名前はコーヒーを一口啜る。どちらの事も大切で、選べなかった。それは本心だ。告白を断っておきながら狡い言い方かもしれないけれど。


「私もっと強くなります。大切な人たちを守りたいから」
「…別に僕に守られてたっていいと思うけど」
「ありがとうございます。…でも、性に合わないですから」
「はー、ま、そうだろうけどさ」


彼女が守られて幸せを感じるタイプでないことなど、五条はよく知っている。囲って閉じ込めて甘やかしてやりたいけれど、名前はそれを望んだりしない。
なんせ彼女は、


「名前はイカれてるもんね」
「そうですね」
「…ま、そんな名前が好きなんだけど」
「五条さんも、イカれてますね」
「言うようになったよなあ」


ふ、と五条の口端に笑みが乗る。


「名前が好きにするなら、僕も好きにさせてもらうよ」
「…はあ、」
「何年掛かっても、落としてやるから」
「……え」
「だから死ぬなよ。死んだら殺す」
「…はい」


強がりみたいな五条の言い草に、名前は柔らかく笑った。やっぱり自分には選べない。


「それで?いつ行くの」
「来週の木曜、です」
「ふーん」
「見送りは結構ですからね」
「行かないよ。僕だって忙しいの」
「ですよね」


大好物のはずなのに、パフェの甘さは色褪せたような気がする。五条はそれを彼女に悟られないように、ぺろりと平らげた。その手を取って閉じ込めてしまいたくなる気持ちに蓋をして。









そうして幾日か後。
名前がタクシーを降りると、そこに居たのは見慣れながらも珍しい顔触れだった。

「え、なんで」
「やっぱり見送りナシでは寂しいかと思ってな」


家入がふ、と口元で笑う。その隣に伊地知と、後は何故だか猪野が居た。


「苗字さん、気を付けてくださいね」
「ありがとう伊地知。仕事大丈夫?」
「今日は家入さんの運転手ですから」

「本当に行っちゃうんですね、苗字さん」
「うん、わざわざありがとう猪野くん」


名前の手からキャリーケースを受け取った猪野が彼女に速度を合わせて歩き出す。


「まさか本当に行くなんてな」
「意外でした?」
「まあな。でも名前は言ったら聞かないから」
「あはは、七海にも似たような事言われました」


前を向いたまま笑う名前を、猪野が覗き込む。


「そういえば今日、七海さん居ないんすか?五条先生も」
「ああうん、見送りはいらないよって言ったから」
「それで本当に来ないんですか?意外…」
「ふふ、そうだね」


悪戯に笑う名前は、何か吹っ切れたような顔をしていた。よく笑う彼女を伊地知が意外そうに眺める。本当に彼女の纏う雰囲気は柔らかくなった。あの五条に言い寄られている場面を見ていた伊地知にしてみれば、あの人の強引なアプローチも案外効果があったのかもしれないな、といったところである。


「ここでいいですよ。硝子さん」
「そうか」
「忙しいのにわざわざありがとうございました。伊地知も、猪野くんも」
「気を付けてくださいね。帰りは迎えに来ますから」
「俺も迎えに来ます!」
「うん、ありがとう」


そうして彼女は、微笑む家入と涙ぐむ伊地知と、唇を引き結んだ猪野に見送られて旅立った。よく晴れた明るい日だった。


「…あーあ、行っちゃった」
「無事を祈ることしか出来ないのが、もどかしいですね」
「ていうか本当に七海さん達来なかったスね」
「ん?ああ…猪野、明日空いてる?」
「え?まあ、はい?」
「そうか」
「?」











そして次の日、同じ時間。
再び家入と猪野は空港に居た。



「あれ?七海さんと、五条先生?」
「……猪野君」
「硝子、お前らも見送り?」
「え?いや、え?」
「ふふ」
「なんだよ硝子」
「名前が発ったのは昨日だよ」
「「……は?」」


家入が堪えきれずに笑い出す。ぽかんとした七海と五条を、訳がわからないと猪野が交互に見る。


「してやられたね、二人とも」
「……つまり私達は、」
「そう、まんまと騙されたってわけ」
「はあ?何のために」
「二人の顔を見たら、笑って旅立てないかもしれないから、だってさ」
「は、何だよそれ」
「名前は強がりだからな。安心しなよ、私たちがちゃんと見送ったからさ」
「…本当に、何を考えているか分からないな」


軽薄な笑みを乗せた名前の顔が、二人の男の頭に浮かぶ。まんまと出し抜かれ苦い顔をする大男二人を横目に、家入はまた笑った。


「−−−ほんと、イカれた奴だよ」


今日も空は青く高い。





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