願いが一つ叶うなら、
△ ▽ △




俺の大切な人は、婚約している。


「ぬっぺふほふ」
「…案外語感がいいな」
「声に出して読みたい日本語だね」
「まあ、確かに」


都内の美術館は休日の割に想像より空いていて、ゆっくり見て回れるくらいの余裕があった。俺より低い場所にある目が、悪戯そうに笑う。


「京極作品ではぬっぺっぽうだったね」
「ああ…塗仏か」
「そうそう、よく覚えてるね」
「お前もな」


名前は本を読むのが好きだ。俺がよく本を読むようになったのも、中学の頃彼女が色んな本を勧めてきた所為だ。


「恵は何が好き?」
「そうだな…俺は魍魎の匣、かな」
「ああ〜わかるわかる。でも私はやっぱり姑獲鳥かなあ」
「なんだかんだで一番読み易いかもな」
「夏になると読みたくなるんだよね」


元々俺は本が好きだし、名前が勧めてくれた本はどれも面白かった。同年代で京極夏彦を読破している奴は居なかったから、自然彼女と語ることが多くなった。思えばそれが、俺たちの距離が近付くきっかけだったのかもしれない。周りにも本を読む人間は居るには居たが、恋愛物とか異世界がどうとか、そういうのは合わなかったから。

恵に呪術師の友達を作ってやろう、と五条先生が突然言い放った時は、正直辟易した。そんな事はいいから早く強くなりたかったし、それ以外の事は放っておいて欲しかった。

「僕の後輩の妹なんだけど、恵と同じ中学生だよ」
「妹?」
「どうせなら女の子の方が良くない?可愛いから覚悟しといて」
「言ってる意味が分かりません」
「好きになっちゃダメだよ」
「あんたと一緒にしないでください」
「まあ名前なら…って僕そんな無節操じゃないからね?」
「どうでもいいです」



そうしてある日、五条先生の後輩の妹だという彼女はやって来た。僕の舎弟の恵です!と言うふざけた五条先生の紹介に彼女が俺に向けたのは、ご愁傷様です、と言う哀れみを含んだ微笑みだった。きっとこの子もこの人には苦労させられてるんだろうな、と思い当たった。


「伏黒くんは、式神使えるんだね」
「…まあ」
「いいねえ犬、私もそういうのが良かった」
「…あんたは」
「あんたってのはちょっと寂しいかな」



すこし唇を尖らせて不服そうな顔をするから、苗字さんは、と言い直したら、苗字で呼ばれると実家を思い出すからあんまり好きじゃない、と笑った。眉を下げてすこし困ったように笑う顔は、正直言ってとても可愛かった。

ーーーそうだ、多分俺は、初めて会った時から名前に惹かれていた。五条先生が連れて来たというのに、彼女は常識的で普通の女の子だった。変に擦れたり気取ったりもしてないし、不幸な生い立ちを持つ俺を憐れんだりもしなかった。小さな身体を巡る呪力は同い年とは思えないほど研ぎ澄まされていて、小さい頃から鍛えられているのだと分かった。まあ後に、同い年ではないと分かるのだが。


「恵、こないだの続き持って来たよ」
「ああ、悪い」
「じゃあお礼に玉犬もふもふさせて」
「安い奴だな」
「いいじゃん」
「まあいいけど」


いつしか五条先生が居なくても、彼女と会うようになった。本を借りて、手合わせをして、本の感想を話し合って、そこから何となく最近の学校の話なんかをして。一緒にいても変に気を遣わなくて良くて、居心地が良かった。由緒ある呪術師の家系と聞きはしたけれど、高飛車になる事もなく素直だった。だけど不意に見せる何かを諦めたような憂いを帯びた顔は大人びていて、俺はどんどん彼女の事が気になっていった。








「恵?」
「ん、」
「なんかぼんやりしてたよ、大丈夫?」
「ああ、悪い」

ふ、と笑う名前の小さな耳に着いたピアス。先日一緒に買い物に行った時、俺が買ったものだ。誕生日にささやかなプレゼントを渡したことはあったけれど、何でもない日に、しかもアクセサリーなんて。我ながら堪え性がないと思う。だけど名前が喜んだ顔と、それからいつも着けている姿を見る度に、どうしようもなく嬉しくなる。嫌な人間だ。


「飯行くか」
「うん、お腹すいた」
「朝飯食ってねぇの」
「恵とデートだと思ったら支度に時間掛かっちゃってさ」

名前はさらっとそんな事を言う。俺は知っている。名前が前から俺のことを好いてる。


「なに食べよう」
「お前の好きなのでいい」
「じゃあーラーメン?」
「デートなのに?」
「……じゃあパスタ?」
「じゃあってなんだよ。ラーメン行くぞ」

自分からデートだなんて言ったくせに、俺が言うとすこし俯いて照れる。なんなんだよ本当。そういうところが、どうしようもなく可愛くなってしまうのに。


名前はきっと知らない。本当は俺がどう思っているか。




二人でラーメンを食べて、買い物をして、それから高専へ戻った。明日はどちらも朝から実習だから、時間は早めだ。帰りの電車の中でまた名前が少し寂しそうな顔をしたから、カバンの中からチョコを出してやった。悟くんみたい、と言われたのはちょっとアレだが、それでも名前が笑ったから良かったのだと思う。

「恵、また行こうね」
「んん、そうだな」


側から見れば俺達はただの高校生カップルで、毎日楽しそうに見えるんだろうな。彼女と並んで座る座席の前に立っていたサラリーマンらしき男が、チョコを口に含む名前をじっと見ているのに気付いて思わず睨み付けてしまった。

これはデートだけど、デートじゃない。
名前は婚約している。何処の誰かも知らないような相手だったらまだ良かった。俺はそいつを嫌えば良かったし、どうにかして対抗手段を考えたかもしれない。だけどそうしないのは、相手が狗巻先輩だからだ。
狗巻家と苗字家、どちらも歴史のある呪術師の家系で、仲は悪くないらしい。苗字家の跡継ぎは、相伝の術式を継いだ彼女の兄と決まっている。名前はだから、狗巻家に差し出されたのだ。今どきそんなの、とは思うけれど、呪術師の歴史は旧く、また数は減っている。だから優秀な術師同士をくっ付けて、家の存続、種の存続を図るのだ。そして生憎、狗巻先輩も名前も優秀な術師だ。せめて落ちこぼれだったら、なんて思うだけ無駄だ。

五条先生とこの事について話したのは一回きりだ。
名前が中学を卒業する時だった。あの時まで俺は彼女が同い年だと思っていたから、一つ上だと知って驚いた。だけどそれ以上に驚いたのは、彼女の将来が既に決まっていることだった。名前は笑いながら、世間話でもするようにそれを話したのだ。その後俺が高専へ入学する頃には、狗巻先輩とも知り合っていたし、俺の気持ちはどうやら五条先生にはばれていた。


「あのさ恵、本当はこんな事言いたくないんだけど、名前のことは諦めなよ」
「……」
「名前も棘も、結婚には同意してるんだ」
「……でも俺は、」
「当事者達が承諾していることを、他人が掻き回す気?」
「だって、」
「だってじゃない。二人が簡単な気持ちで承諾してると思う?名前だって棘だって、自分の気持ちとか家の事とか、色々無理矢理飲み込んでるんだ」
「…っ、俺は、」
「別に名前に冷たくしろなんて言わないよ。ただ分かってるとは思うけど、」
「……」
「絶対に手は出すな」
「っわかって、ます、」
「……それは恵のためでもあるし、名前と棘のためでもあるからね」




あれから五条先生と彼女の話をした事はない。引き合わせたのが自分だと言う負い目があるのかもしれないが、まああの人にそんな殊勝な感情は期待できないだろう。

分かっている。彼女に手出しは出来ない。しちゃいけない。それは彼女のために。

でもそれなら俺は、そんな事を聞いて1年以上経つ今でも薄れることすら無いこの感情を、どうしたらいいのだろう。伝えることも捨てることもできないまま、燻り続ける火種はむしろ大きくなっていく。










「明太子」
「…狗巻先輩、今帰りですか」
「しゃけ」
「お疲れ様です」
「高菜〜」


別の日、風呂から自室へ戻る途中に出会したのは狗巻先輩だった。

呪言師である狗巻先輩は、その禍々しい能力に反して悪ふざけが大好きな普通の17歳だ。強いし、優しい。だから俺は、その優しさを利用している。もちろん名前の事だ。


「ツナマヨ」
「ああ、これ…今日擦りむいちゃって」
「高菜」
「治してもらうほどじゃないんで大丈夫です」

狗巻先輩の手が俺の頬を指していた。そういえば傷がついているんだった、とそこで初めて思い出す。


「明太子」
「そうですね。俺もまだまだです」
「昆布、高菜」
「はい、また手合わせしてください」

目を細めて笑った先輩が立ち去る背中を見送りながら、どうしようも出来ない嫉妬を胸に宿す。

狗巻先輩と名前の婚約が決まったのは、同じ年に二人が産まれたすぐ後だそうだ。そして成長した二人はそれを受け入れた。本当にクソ喰らえだと思う。もし名前がそれを拒むなら、俺が攫ってやるのに、とも思う。だけど名前も狗巻先輩もそれを受け入れているなら、他人の俺に横槍を入れる資格はない。

だから俺の恋は、絶対に叶わない。恋に落ちた瞬間、いや落ちる前から、決して叶う事がないと決まっている。

狗巻先輩が嫌な奴だったら、俺は先輩を恨めば良かった。名前がはなから俺なんて相手にしてなければ、一人で腐れば良かった。だけど現実、狗巻先輩はいい人だし、名前は俺を好いている。



なんとなく一人で部屋に戻るのが嫌で、そのまま談話室の長椅子に腰掛ける。膝に肘をついて頭を抱えてみても、どろどろした感情は決して薄まらない。
名前が知ったらどう思うだろう。本当は俺は、お前が欲しくて、そばに居たくて、他の誰のものにもなってほしくなくて、なんて。



「恵?」
「…ん、」

不意に降ってきた声は、たった今ぐちゃぐちゃな感情の真ん中に居た彼女のものだった。
頭を抱える俺を見つけて、少し心配そうな顔でこちらを覗き込む。


「どうかした?」
「あーいや、なんともない」
「そう?あ、何その傷」
「擦りむいただけだ」

隣に座った名前が俺の頬を見付けて少し眉根を寄せる。無意識のように伸びてきた白い指が、傷のあたりに触れた。心臓が跳ねて思わず冷たい声が出て、名前の眉が下がって指が逃げて行く。

違う、逃げるな。

俺の手は勝手に伸びて、その小さな手を捕まえていた。


「え、と、任務の時?」
「……ん」

長椅子の上、二人の距離は近くもないし遠くもない。咄嗟に捕まえた小さな手は、されるがまま俺の手の中にいる。


「大丈夫?」
「ん、」

彼女の眼に動揺が浮かんでいる。それはそうだ。急に手を掴まれたまま、俺はほとんど何も言わないのだから。


「……恵?」
「名前、」

伺うようにこちら見ている名前の、その薄い肩を抱き寄せてしまいたかった。ここが談話室でよかった、と自分勝手な安心をする。二人きりで部屋に居たら、俺は、


「……悪い、なんでもないから」
「…そ?」

でも俺はこの手を引くことはできない。そっと離した小さな手は、彼女の膝の上に戻って行った。


「なんかあったら、なんでも言っていいよ?」
「…うん」
「私、恵の味方だよ」
「……ありがとな」

いつか俺が言ったように、彼女は俺の味方だと言って微笑んだ。でも俺が欲しいのは味方の名前じゃない。一人の女で、一人の人間の、名前の全部が欲しい。


「恵が元気ないとつまんないよ」
「…ん、悪かったな」

虎杖じゃあるまいし日頃からそんなに元気いっぱいなつもりはないが、名前と居る時は確かに俺は元気なんだろう。気付けば笑っているし、会えない日は物足りない。
ほんの少し寂しそうな顔をする彼女の頭に手を伸ばして、ぐしゃ、とかき混ぜてやる。


「わ、ちょっと、」
「俺は大丈夫だよ。お前に心配されてるくらいじゃまだまだだな」
「もう、心配くらいさせてくれていいじゃん」
「もう寝るぞ、明日も朝から実習だろ」
「うん、おやすみ恵」
「ん、おやすみ」


笑いながら立ち去る彼女の残した僅かな髪の香りに、無意識の内に喉がひくりと鳴る。さっきまで触れていた柔らかい髪の感触が、手のひらに淡く残っている。
我慢しなきゃいけないのは分かってる。絶対叶わないこの恋を、俺は自分の中で終わらせなきゃならない。そんなことは嫌と言うほど分かってるのに、名前に触れるだけで、その香りを感じる度に、苦しくてたまらない。

俺の大切な人は、決して俺のものにはならない。だから俺に出来るのは、呪術師らしく己の運命を呪うことだけだ。








願いが一つ
叶うなら、

もし生まれ変わりでもしたら、その時は、






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