神様どうかこの恋を、
△ ▽ △




恵は私のひとつ歳下で、だけどずっと憧れだった。絵画のような横顔も、怜悧で冷ややかな眼差しも、華奢で大きな手も、言葉少ななのに優しいところも。


「…何見てるんだ」
「うん?なんでもないよ」
「そんなに見られるとやりづらい」
「気にしないでよ」
「……お前もやれよ、課題」
「うん」


高専の図書館は古い。大きな机も、揃いの木製の椅子も、どれも経年劣化で色はチョコレートのようで、細かい傷だらけだ。埃っぽくて古い紙の匂いで満ちているここは、恵の自習スポットである。だから私もここに居て、そして椅子ひとつ空けて横にいる恵を見つめている。


「終わらないとまた怒られるぞ」
「うん」
「……飽きるのが早すぎる」
「これからちゃんとやるよ」


はあ、と恵がひとつ溜息を吐く。呆れながらも側にいることは許してくれるから、やっぱり優しい。

とは言えいつまでも見つめているのもさすがに申し訳ないので、私も机の上の課題に向き直る。呪術には関係ない政経科目の課題だ。入学前は高専では呪術の授業だけかと思っていたけれど、普通科目も勿論あった。どうせ必要無いのに、と思っていたけれど、高専を出た全ての生徒が呪術師になるのでは無いのだから、と聞いた時は目から鱗が落ちた。なるほど。呪術師を辞めてしまう人間は少なくない。となれば高専を出た時呪術以外なんにも分からなくては困るわけだ。

それを聞いて目から鱗だったのは、私には選択肢がないからだ。そうか、普通は、辞めるという選択肢もあるのか、と。

御三家とは比べ物にならないとは言え、私も長い歴史を持つ呪術師の家に生まれた。術式を持っているかどうかも判る前から、私の将来は呪術師であると決まっていた。歳の離れた兄が五条家次期当主の悟くんと悪友で、その所為で私も小さい頃から良く悟くんに遊んでもらっていた。中学の時に恵と出会えたのは、悟くんのおかげだ。私は恵を一目見て恋に落ちた。本当に落ちるもんなんだな、と思った。




「産土神と対峙する際の注意点、か…」
「土地神だねえ」
「そういえば前、名前も土地神祓ったよな」
「あー、うん、でもあの時は真希も憂太も一緒だったから、私なんて出番なしだったよ」
「珍しいな、その3人でなんて」
「そうそう、結構楽しかったよ」


恵は歳上に対してきちんと敬語を使うけれど、私にだけは砕けた話し方をしてくれる。中学生の時から知り合いだったせいもあるけれど、私の中学卒業前まで同い年だと勘違いしていたからだ。そもそも悟くんがちゃんと紹介していなかった所為なのだけど、これもまたラッキーだ。

だって2年の中では自分だけ、なんて、なんだか特別視されてるみたいだから。



「そうそう、その任務秋田だったんだけどさ、なんか手違いでホテルが一部屋しか予約されてなくて」
「え?」
「ツインだったから良かったけど、私真希と添い寝したの」
「乙骨先輩は、」
「ひとりでベッド使ったけど、真希にこっち見たらぶっ殺すって言われてずっと端っこであっち向いてた」
「……災難だな」
「そう、だからね、もう真希寝たからこっち向いてても大丈夫だよって小声で言ったんだけど」
「……」
「殺されたくないから名前も早く寝て、って」
「…誰に殺されるって」
「誰だろうね?さすがの真希も寝てればわかんないのにね」
「乙骨先輩、苦労してんな」


心底同情するとでも言うように、恵が目を細める。ああ、そんな顔も好きだな。


「まあ、男女が同じ部屋ってのはやっぱり気まずいな」
「そう?知ってる相手だし別にそんな気になんないけど」
「鈍感」
「悟くんみたいなこと言わないでよ」
「あの人に言われるくらいだと相当だぞ」


呆れたようにすこし笑う恵の頬に、長いまつげの影が薄く落ちる。綺麗だなあ。女の私より、ずっと綺麗。


「恵と同じ部屋だったら楽しそうだね」
「勘弁してくれ」
「ええ、なんでよ」
「……襲われそう?」
「あはは、私そんなに獣に見える?」
「見えないこともない」


口端を上げてすこし意地悪そうに笑う顔に、会話の内容に反して胸がきゅんと苦しくなる。格好いい、綺麗、イケメン、どんな言葉を使っても足りないくらい、恵のことが大好きだ。


「…でもまあ、あんま外でそういうこと言うな」
「……はーい」


恵はたぶん、私の気持ちを知っている。まあ隠すつもりがないからそれは当然だ。暇さえあれば着いて回り、なにかと熱い視線を送っている自覚はある。
そして恵はそれを知りながら、私が側にいることを許し続けている。だからきっと、嫌われてはいないのだろうと思う。


だけどこの恋は実らない。











「悪い、辞書貸してくれ」
「辞書?珍しいね」


夜、寮の私の部屋にやって来たのは大好きな恵だった。ラフな部屋着のティーシャツから伸びる色白の腕が存外筋肉質で妙に男らしく見えて、つい視線を逸らす。


「教室に忘れた」
「いいよ、入って」
「すまん」


律儀に謝った恵がテレビの前に座るのを見て、私は机の引き出しを開ける。電子辞書なら簡単だが、呪術高専で辞書と言えば呪術に関する用語が実例を添えて羅列されている用語集のことだ。英語の辞書みたいに分厚くはないけれど、立派な装丁のそれはずしりと重い。


「はい」
「ん、ありがと」


辞書を手渡したのに、恵は立ち上がらない。視線をそのままテレビに向けるから、面白い番組でもあったのだろうか。


「コーヒー飲む?」
「ああ」


電気ポットのお湯を沸かし直して、インスタントコーヒーを淹れる。マグカップはふたつ。どちらも砂糖もミルクも入れない。恵はコーヒーはブラック派だ。同じものを飲みたくて、いつの間にか私も飲めるようになってしまった。パンダには似合わない、と言われるけれど、慣れてしまえば美味しい。

マグカップをひとつ手渡すと、さんきゅ、と短いお礼が返ってくる。


「なんか面白いテレビやってた?」
「ここ、お前が行きたいって言ってたやつだろ」
「え?…ああ、本当だ」


テレビに映っているのはカフェ特集。最近出来たばかりのブックカフェをやっている。こないだネットでたまたま見つけて、ここ良いね、と恵になんとなく話したことを覚えていてくれたらしい。大して興味なさそうな返事をしていた気がしたのに、簡単に私の気分は浮上する。


「今度、行くか」
「えっいいの」
「日曜…は、混むか」
「土曜でもいいよ」
「じゃあ土曜な。誰か誘うか?」
「うーん、あんまり興味なさそうな人ばっかりだよね」
「それもそうか」


恵は優しい。そして私は狡い。だけど恵の優しさに甘えて取り付けた約束は、他の何より大切に思える。


「二人で行こっか、こないだ言ってたあのスポーツショップも行ってみようよ」
「……そうか、そうだな」


ふ、と恵が笑う。薄い唇がすこし弧を描いて、優しい笑みが今は私ひとりに向けられている。












土曜日、天気は曇り空だったけれど雨は降らなかった。任務や授業の時よりずっと早起きして、髪も化粧も丁寧に整えた。気合い入りすぎかな、とも思ったけれど、こんなラッキーは滅多にないのだから仕方ない。何度も何度も鏡の前で確認して、そうして私は恵と街へ繰り出した。

結果的に恵はいつもより気合いの入った私の出立ちを褒めたりはしなかったし、途中で野薔薇と真希に会って二人きり?とニヤニヤされたりしたけれど、本当に幸せな一日だった。ほとんど会話は絶えなかったし、気になっていたカフェはとても素敵だったし、二人とも新しいジャージを買ったし、恵も私もずっと笑っていた。

夕焼けの中帰りの電車の中で、あまりに早く過ぎ去った今日を何度も反芻する。終わらなければいいのに。私と恵だけの時間が、ずっとずっと続けばいいのに。


「名前」
「ん?」
「やる」
「なに?」

同じ場所へ帰るというのにすこし寂しくて、ぼんやり窓の外を眺めていた私に、恵が不意に声を掛けた。これ、と手渡されたのは小さな袋だ。何だろう、と開けてみると、中に入っていたのは台座の付いた小さな石のピアスだった。


「え、え?」
「お前に似合いそうだと思って」
「恵が、買ったの?」
「…悪いかよ」
「もらって、いいの…?」
「返されても困る」

すこしむすっとした顔で明後日の方を向いてしまう恵の白い頬がほんの少し赤い気がした。


「……ありがとう」
「ん」
「大事に飾っとく。家宝にする」
「いやそこは着けろよ」
「無くしたら悔やんでも悔やみきれない」
「無くしたら、また買ってやるよ」
「……っ、」

羨ましいほど長いまつ毛が上下して、視線だけこちらに向ける。心臓を掴まれたみたいに苦しくなる。


「恵、ありがとう」
「おう」

ああ、だから。本当に本当に恵が好きだ。照れ屋で恥ずかしがりなくせに、こうして時々すごく優しくて格好良くて。掴まれた心臓の鼓動はまだうるさい。台紙に並んだ小さなピアスに付いた石は、恵の瞳のような色だった。













「なあ、名前さんて伏黒と付き合ってんの?」
「…なーに、急だね悠仁」
「こないだ一緒に出掛けてたろ?」
「まあね」

1年2年合同の近接の特訓中、汗ばんだ額を拭ってグラウンドの隅に座った途端隣にやって来たのは悠仁だった。人懐こくて可愛い後輩だ。


「やっぱデキてんだ?」
「そんなんじゃないよ」

にこにこ笑っていた悠仁が、思っていたのと違ったらしい私の答えにすこし眉を下げる。


「えー?絶対そうだと思ったのに」
「悠仁もまだまだだね」

そっかー、と悠仁が私と同じようにグラウンドを向く。視線の先で手合わせしているのは、恵と棘だ。


「……ごめん、俺なんか、デリカシー無かった?」
「ううん、でも悠仁がそんなこと言うの珍しいなとは思ったけど」
「いや、揶揄おうと思ったわけじゃねぇよ?なんつーか伏黒って、自分のことあんまり喋んないじゃん」
「うん」
「でも名前さんと居る時は楽しそうだしさ、よく話してるから、」
「うん」
「伏黒もちゃんと心開ける相手が近くに居て良かったなーって」
「…そっか」


悠仁が不安そうにこちらを見るから、気にしてないよ、と笑ってあげる。ほっとしたように息をひとつ吐いて、悠仁はまた笑う。


「俺は伏黒と名前さん、どっちも好きだしめちゃくちゃお似合いだと思うからさ、幸せになってくれたら俺が嬉しいなって、勝手に思ってただけ」
「そっか、ありがとう」
「おう、俺は名前さんと伏黒の味方だからさ」
「……うーん悠仁は優しい子だねえ」
「うわ、」

宿儺の器なんて悍ましい前情報に反して、悠仁は本当に気の良い奴だ。大型犬みたいな笑顔に、だけど私の心は軋むような悲鳴を上げかけたから、その短い髪を掻き回すように撫でまくってやる。俺は玉犬じゃねぇとか言いながら、悠仁はされるがままだ。

そう、幸せになってほしい。恵には。
私のこの恋は叶わないけれど。


「オイこらサボってんなよ1年」
「サボってない!」

後ろからやって来た真希が、次は私が相手してやるよ、と悠仁を連れてグラウンドへ歩いて行く。
後ろ姿を眺めながら、私はひとり溜息を落とす。デキてたら、良かったのに。そんなのは夢のまた夢だ。








「悠仁お前、アイツらのことは放っといてやれ」
「え?なんで?だって良い感じじゃん?」
「……苗字家はさ、結構古い呪術師の家系なんだよ」
「ふーん、じゃあ名前さんもエリートってこと?」
「そ。名前の兄貴は相伝の術式継いでるし」
「へー、名前さん兄ちゃんいるんだ」
「だからアイツはさ、家にとっちゃ体のいい駒なんだよ」
「…え、どゆこと?」
「そっか、お前死んでたから知らねえのか」
「それがなんで伏黒と関係あんの」
「いいか、名前はな、」

















結局あのあと近接の特訓は白熱した真希と悠仁にみんなが巻き込まれてしまい、随分長引いた。午前中に任務も行ったから、今日はぐったり疲れた。そのせいで湯舟で寝落ちしてしまい、ややのぼせてしまった。談話室の古びた長椅子に座って、背もたれに体重を預ける。深く息を吐いたら眠気が戻ってくる。ああ、ここで寝たら怒られるよなあ、と思いながら、まぶたがゆっくり閉じていく。


「明太子」
「ひあ、」

閉じたまぶたに急にひやりと冷たいものが触れて肩が跳ねる。驚いて目を開けたそこにいたのは棘だった。


「ツナマヨ」
「え、いいの?」
「しゃけ」
「うん、のぼせちゃって。ありがとう」

目に触れた冷たい物はよく冷えたスポーツドリンクのボトルだった。ありがたくもらって蓋を開けて飲むと、身体に染み込むような感覚がする。


「高菜?」
「生き返った…」
「おかか、明太子」
「分かってるよ、ちょっと今日は疲れちゃってさ」

風邪引くぞ、と眉根を寄せる棘にボトルを返す。これからお風呂に行くらしい棘が、ぽんと私の頭をひとつ撫でて歩き去る。結局怒られてしまったけど、来たのが棘で良かった。恵に見つかったらお説教コースだった。


ーーー無意識のうちに、私の思考は恵に行き着く。笑ってしまうくらい、水が流れるように当たり前に。恵が、恵なら、恵、恵。そればっかりだ。本当、我ながら呆れる。


「名前?」


だから不意に恵の声がして、私はすこし笑ってしまった。考えてばかりいるから、本当に来ちゃった。


「恵」
「何してんだこんなとこで」
「うーん、休憩?」
「……どうせまた風呂で寝てたんだろ」
「えー?」
「風呂で寝るのは危ないって何回言ったら、」
「はいー」

結局怒られた。それなのに私は嬉しくてたまらないのだ。恵が私を叱ってくれるのが、私のことを考えてくれるのが。


「……それ、着けてんだな」
「ん?うん、家宝だよ」

隣に腰掛けた恵が私の耳を見ていた。先日恵にもらった小さな石のピアスだ。結局私はあれから肌身離さず着けている。


「まあ、似合ってんじゃねぇの」
「恵が選んだんだから当然」
「…なんか喜んでいいか微妙」
「なんでよ喜んでいいとこだよ」

二人してくすくす笑い合う。長椅子に並んで座っていても、二人の距離はきちんと離れたまま。遠くはないけど、近くもない。私はこの距離をゼロにしたいとずっと思っているけれど、もちろんそれは叶わない。


「恵、強くなったね」
「俺だっていつまでも弱いままじゃねぇよ」
「昔から恵は強かったよ」
「そんなことない。まあ、まだまだだけど」
「私も頑張らなきゃなあ」
「名前は頑張ってんだろ。自分を卑下すんなよ」
「それそのまんま恵にお返しするよ」
「ほんとああ言えばこう言う…」


恵は優しい。だから私は恵が好きだ。恵もきっと、私のことを嫌いじゃないと思う。


「ねえ恵、私行きたいとこあるんだ」
「ん」
「また一緒に行こうよ」
「何処かによる」
「あのね、来週から始まる展示なんだけど」
「妖怪展…美術館?」

スマホの画面を見せると、恵がすこし目を瞠る。どうやら興味はあるらしい。


「悪くないな」
「でしょ?行こうよ」
「そうだな。俺も行きたいとこあるし」
「そうなの?付き合うよ」
「ん、頼む」

いつもの寮の談話室の長椅子で、二人で並んで笑い合って、こんな時間がいつまでも続けば良いのに、と思う。恵といるといつもそうだ。時が止まれば良いのにと思うほど、そんな時間はすぐに過ぎていく。


「名前」
「うん?」
「……あんま無理すんな」
「……してないよ?」

恵の前ではいつも笑っていたいのに、一緒に居たいのに。一緒にいると幸せで楽しくて、そしてその分悲しくなる。


「俺は、名前の味方だから」
「……私には味方ばっかりだなあ」
「言ってろ」


私が自分の気持ちをきちんと整理できないせいで、周りに気を遣わせている事は分かる。1年も2年も、恵も、悟くんでさえも。わがままなのはわかってる。
ごめんね。いつかちゃんと気持ちに整理をつけるから。叶わないと知っていても、きちんと片を付けるから。

だからもう少しだけ許してねーーー棘。









神様どうか
この恋を、

いつか終わらせる日まで、奪わないで











「悠仁お前、アイツらのことは放っといてやれ」
「え?なんで?だって良い感じじゃん?」
「……苗字家はさ、結構古い呪術師の家系なんだよ」
「ふーん、じゃあ名前さんもエリートってこと?」
「そ。名前の兄貴は相伝の術式継いでるし」
「へー、名前さん兄ちゃんいるんだ」
「だからアイツはさ、家にとっちゃ体のいい駒なんだよ」
「…え、どゆこと?」
「そっか、お前死んでたから知らねえのか」
「それがなんで伏黒と関係あんの」
「いいか、名前はな、結婚相手が決まってんだよ」
「は、」
「家と家の結婚だ、あいつには逆らえない」
「いやいや今どきそんなのアリかよ…五条先生とか何とか出来ないの?」
「悟にはどうしようもねぇよ。あいつらは三人ともそれを受け入れてる」
「三人、って」
「……名前の結婚相手はな、棘なんだよ」
「……え」
「棘も名前もそれを承諾してる。恵も知ってる」
「そんなん、」
「私らにはどうする事も出来ねぇんだよ」
「だってあいつらは…」
「いいからやるぞホラ、悔しかったら一本取ってみろ」






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