戴天惑わして青
△ ▽ △





傑が死んだ翌朝、空は嘘みたいに青く明るかった。自分にとって何より大切だった男がこの世から居なくなってしまったのに、世界は何事も無かったように昨日と同じように廻る。それはそうだ。昨日だけで何人死んで何人産まれたのか、そんな事一々誰も気に留めない。立ち止まったのは自分だけだ。行き交う人間達も、飛ぶ鳥達も、風も空も街も何もかも、昨日と同じように進んでいく。

いつかこんな日が来ることは分かっていた。百鬼夜行は傑の作る世界への一歩だったけど、高専を潰すことが簡単だと思っていたわけじゃない。だから最後かもしれないのは、私だけじゃなく傑も分かっていたと思う。口にはしなかったし、だからいつものように行ってらっしゃい、と送り出した。そしてそれは本当に最後になった。






「これで名前と私は、運命の赤い糸で結ばれたんだね」


目を細めてわらう優しい顔を、昨日のことのように思い出す。
傑と私の小指に巻き付いた細い呪力の糸。私の術式だった。自分が定めた対象者、または物を、私と線で結ぶ。呪力を流せば対象が何をしているか、何処にいるかくらいは簡単に分かる。線をつたって攻撃したり声を届けるには一定距離内に居なければならないが、位置や状態を知るくらいなら術式範囲は半径百km程度にまで及ぶ。祓うというよりは追尾、索敵に長けた術式は、まあ呪術師としてはいまひとつだ。だけど今だけは、これがあって良かったと思う。

「こんなの、本当に要る?」
「君と繋がってるっていう証拠が嬉しいんだよ」
「何の助けにもならないのに」
「いいんだ。いつも見ていて、名前」


別に小指に糸を付ける必要は無かった。何処だっていいのだ。だけど私達は小指を選んだ。その方が雰囲気があるだろ、と傑が言ったからだ。


そして私の術式には禁忌がある。それが赤い糸だ。普通に使う時、対象と自分を繋ぐ線は色で言うなら白だ。赤い糸で繋ぐ時、それは悍ましい呪いを意味する。














12月の晴れた空気は冷たくて、降り注ぐ太陽の光は不躾だった。サングラス越しに見上げた雲ひとつない空の下、私は一人で歩いている。擦れ違う人波は慌ただしく、誰もが年末の忙しさを抱えて先を急ぐ。のんびり歩く頬に当たる風はひんやりと底冷えするような寒さを孕んでいる。
人波の向こう、頭ひとつ飛び出た目立つ風体。随分久しぶりに会う、かつての級友だ。


「やあ、久しぶり、悟」
「………は?」


黒いサングラスの向こうの碧眼が見開かれる。


「名前…だよな?」
「そうだよ、忘れちゃった?」


笑いながらサングラスを外すと、悟も視線を固定したままサングラスを外す。ああ、相変わらずお人形みたいな顔だ。


「お前、なんで、」
「話をしに来たんだ」
「……傑なら、」
「分かってるよ、私は悟に会いに来ただけ」


悟の目が揺れている。私は百鬼夜行にも参加しなかったし、ずっと生存すら不明だっただろうから、驚くのも無理はない。





傑がついに謀反を起こしたあの夏の日、私は傑と同じ任務に就いていた。


「名前、私と行かないか」
「…断ったら?」
「好きにすればいい。立ち去ってもいいし、私を殺してもいい」
「私がなんて答えるかわかってるくせに」
「…少し、試しただけだよ」
「あの子達は私に任せて。傑は、」
「ああ、害悪を及ぼす猿を始末するよ」



傑は村人達を鏖殺し、そして私達は4人で村を後にした。私は傑同様それ以降行方不明で、その時傑に殺されたか、傑について行ったのか、それすらも高専では分からなかった。悟と硝子には悪い事をしたと思う。だけど私には初めからずっと、傑しか居なかったから。


「名前は後悔してない?」
「後悔?何に」
「私と来たことで、色々と失ってしまっただろ」
「全然。私は傑がいればいいもん」
「…私は時々怖くなるよ」
「何が?」
「いつか悟が名前を迎えに来るんじゃ無いか、って」
「なんで悟?そんなわけないよ」
「…うん、そうだね」
「傑しかいらないよ」
「ありがとう、名前」



傑は時々不安そうに私を抱き締めることがあった。信じてもらえていないのかな、と思ったこともあったけれど、あれは少し違ったのだと思う。傑はいつもどこか不安だった。私が悟に着いて行くのではと。

だから私はずっと人目を避けるように、傑の目の届く場所だけに居た。私には傑しか居ないと、行動で示し続けた。






他に誰も居ないカフェのテラス席でのんびり啜ったコーヒーは熱くて美味しい。目の前の悟はまだどこか幽霊を見るような目で私を見ながら、砂糖をたっぷり入れたカップをかき回している。


「お前やっぱり、傑と一緒だったんだな」
「うん、そうだよ」
「呪詛師なんかになって」
「どうだろう。呪詛師の味方だったけど、まだ誰も殺してないんだ」
「じゃあ何のために、」
「傑と居たかっただけだよ。それに私が猿を殺すのを、傑も好まなかったからね」
「…ずっと籠の鳥だったってか」
「まあそんな感じかな。幸せな籠だったよ」


悟はまだ迷っている。目の前にいる幾年ぶりの再会を果たした旧友が、突然現れた目的が測れないからだ。


「傑は、みんなの太陽だった」
「…非術師を皆殺しにする太陽か」
「少なくとも、救われた者たちはいたよ」
「人を殺しまくって救うやり方は合ってるのか」
「正しいかどうかじゃないんだよ。誰だって、誰かにとっては正義で誰かにとっては悪だ」
「屁理屈だな」
「悟は変わらないね」
「お前は…変わったな」
「変わらないよ、傑と同じ」
「お前も傑も、そんなんじゃなかった」


わずかに眉根を寄せる整った顔を正面から見つめる。悟は最強だ。今こうして対等に話していても、悟がその気になれば私は瞬殺されるし捕縛されるだろう。そして別に、それでもいいのだ。


「私を捕まえる?」
「…何しに来たんだよ」
「久しぶりに悟の顔が見たかっただけ」
「なんで急に」
「最後だから」
「は、?」


悟が目を瞠る。いくつ歳を取っても変わらない童顔だ。少し懐かしい気分になる。

私と悟は、高専に入る前から知り合いだった。というか、当時視えるだけの中学生だった私を高専へ誘ったのは悟だったのだ。私は自分にしか見えないアレが呪霊だということも、自分に術式があることも知らなかった。初めて出来た視える友人が悟だったのだ。人生が変わった。
そして入った高専で、私は傑と出会い再び人生が変わる。惹かれ合い恋人になり、思考が似通っている事もあり私達は二人で深く深く堕ちていく。それは甘美で悍ましい茨の道だった。

悟には世話になった。もちろん硝子にも。だから最後くらいお別れを言ったって、きっと傑は怒らない。もっとも私に怒ったことなんて無いけど。



「名前、お前、戻らないか」
「へ、?」

思い詰めたような顔で悟が放った言葉の意味を、すぐには咀嚼出来なかった。あれだけ多量の砂糖を投入しておきながら、ほとんど飲んでいないコーヒーカップは置かれたまま冷めていく。


「お前、誰も殺してないんだろ」
「それは…そうだけど」
「上層部は僕が何とかする。だから、」
「悟、何言ってるの」
「っ、傑に、無理やり連れて行かれた、って言えばいい」
「…私は傑を選んでついて行ったんだよ」


どうして悟が泣きそうな顔をするのか、私はその理由を知っている。傑がずっとどこか不安だった理由がそれだ。そして知っていて会いに来るのだから、我ながら性格が悪いと思う。


「僕が守る、って言ったら」
「悟、いま先生なんでしょ?傑の仲間の味方なんてあり得ないよ」
「…それなら、名前は呪術師を辞めればいい」
「今更辞めてどうするの」
「僕が、」
「悟」

それ以上言わせてはいけない気がした。

悟が私を大切に思っていたことは知っていた。知っていたけれど、それを悟が言葉にする前に私は傑と恋に落ちた。悟は変わった奴だけど、私の居場所を作ってくれた恩人だ。喧嘩もしたけど感謝している。
だから傑を殺すのは悟だと思っていたし、私を殺すのも悟なら一番いいと思う。そんな期待を捨てきれず会いに来たけれど、どうやらそれは見込めなそうだ。


「名前、」
「ねえ悟、ありがとうね」
「…死ぬ気か」
「私、悟に会えなかったら高専にも行けなかった。傑にも硝子にも出会えなかった。全部悟のおかげ」
「…っ、その所為で、お前は、」
「私は私の居場所を見つけられたの。本当に感謝してるし、傑も同じ気持ちだった」
「は、結局二人とも、俺は守れなかった」
「守られることを望むような私達じゃないよ。悟は間違ったことはしなかった」


悟の一人称が私の知る学生時代と同じになったのを聞いて、すこし胸の奥が苦しくなった。

ごめんね。でも私には、傑しか居ない。傑が居る世界しか、要らない。


「死んでほしくなかったのは本当だけど、傑を殺してくれたのが悟で良かった」
「…っ、俺だって、」
「私も殺してくれたりしない?」
「……後追いなんかさせるかよ」
「だよね、悟ならそう言うと思ったけど」
「名前、俺と、」
「私、これから死ぬの」
「…は?」


冗談みたいに晴れ渡った今日の空なんかより、ずっと複雑な青を閉じ込めた悟の目が見開かれる。
風に踊った髪を冷えた指先で耳にかけて、私は向かい合わせの悟に笑って見せた。


「そういう呪いをかけてあるんだ」
「は、」
「悟が使えねえなって言った私の術式、覚えてる?」
「…お前、それ、」


左手を掲げると、悟の目がまた揺れる。六眼を持つ彼に説明は要らないだろう。


「運命の赤い糸。これで結ばれた者同士は、一蓮托生なの」
「……傑か」
「そう。傑が死んだから、私も死ぬ」


私の小指に結ばれた赤い呪力の糸。昨夜これは途切れて、今は所在なく相手を失った糸がくっ付いているだけに見える。しかしその切れ目はじりじりと燻り、少しずつ短くなっていく。これが燃え尽きる時、私は死んで傑の元へ行く。


「僕ならその糸を止められる」
「やだなあ、止めさせないよ。縛りもあるからね」
「なんでだよ、お前まで死ぬ事ないだろ」
「私達の誓いの証だよ。ちょっと禍々しいけどね」


傑と繋がっていた証はもう、これしか無いのだから。愛おしむように糸を眺める私に、悟はすこし苛ついたように息を吐いた。
会いに来たのは、傑と同じように悟に殺して欲しかったからだ。叶わないだろうことは何となく予想していたけど、それでも。傑を失った世界で、私が執着するものなど何も無い。己の命もそう。だから殺してもらえなければ最後にありがとうを言って、あとは静かに一人で死のうと思った。


「悟、ごめんね」
「…何が」
「辛いことばっかり背負わせてさ」
「……全くだな」
「でも感謝してる。私も、傑も。それだけは忘れないで」
「生きて行く気は、ないのか」
「ないよ。傑と同じ場所に行くの。そのための呪いだから」
「…そう、かよ」


ごめん、それは本当。ありがとう、それも本当。
でももっと本当は、傑には生きていて欲しかった。ずっと一緒に居たかった。傑の居ない白々しいまでにいつも通りの世界で、私だけ生き続けることはできない。


「そういうわけで、どうせ死ぬから殺してくれない?」
「断るよ」
「だよね、じゃあ、硝子にも宜しく」


これ以上はどちらにもメリットがないと判断して、私は席を立つ。悟の甘そうなコーヒーカップはほとんど減らないまま忘れ去られていた。


「ねえ名前」
「ん」
「僕は名前が好きだったよ」
「……うん、」
「今も、多分好きだ」
「ありがとう。悟に出会えて、よかった」


さよなら。あの世で会う事は無いだろうけど。
私の声に、悟の返事は無かった。



悟と別れて再び歩き出した街は、やはりいつもと変わらない。明日には私はこの世には居ないけれど、明日も全く変わらずこの世界は廻るのだろう。街も、人も、呪霊も、悟も。
それでいいのだと思う。しかし私にとっては傑の居ない世界を生きることほど辛い事は無い。だから。

私は今日これから、この世界から居なくなる。繋いだはずの相手を失った小指の赤い糸がじり、とまた燻った。







戴天惑わして




「硝子、僕さっき名前に会ったよ」
「……へえ、そう、元気だった?」
「うん。あんま変わってなかった」
「それは良かった。それで、」
「ん?」
「死んだのか、名前は」
「…今頃は多分、もう、うん」
「五条が?」
「まさか。傑と縛りまで設けて呪ってたのさ」
「ふうん」
「ふーんって、それだけ?」
「あいつらは昔から、お互いしか見えてなかっただろ。呪いの誓いなんてあの二人らしい」
「……まあね」
「泣いてもいいぞ?五条」
「……うっせ」





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