Last Dance
△ ▽ △




伏黒恵は考える。絵を描くのが上手い、歌が上手い、武道に長けている、そういったことを才があると言うのなら、呪術を扱うことも一種の才であるだろう。そしてその才をどう使うか、また使わないかは、持つ者の自由だ。それを他人、ひいては世間の為に使うか、己の為だけに使うかも。彼女はその才−−呪術を他人の為に使う道を行く者だ。呪いに悩む人々のため、体を張り時には命まで賭けて才を使う。それは確かにたくさんの人を助けただろう。でも本当に彼女がなりたかったものを知っているのは、伏黒だけだ。


名前を見つけたのは玉犬だった。伏黒は中学三年になったばかりで、任務を割り当てたのは例に漏れず保護者面した五条だった。−−とは言え自分達姉弟を保護したのは本当に五条だから、伏黒は感謝している。それを口にしたり態度に出したりしないのは、五条の大人気ない態度の所為であって伏黒の反抗期ではない。
郊外に位置する廃校になって長らく立つ小学校だった。市町村合併で大きくて近代的な小学校が出来て廃校になったそこは、三階建てだがあまり大きくは見えなかった。煤けた壁と一部割れた窓ガラスと、雑草の生えた校庭。住宅街から少し離れた、小さな山というよりは小高い丘の上にあるその廃校舎の中がその日の伏黒の任務地だった。三日前に肝試しに忍び込んだ大学生三人のうち、二人がここで姿を消していた。逃げ延びた一人が撮っていたスマホの動画には、視えない何かに引っ張られるような不自然な動きで画面の外に消えていく二人が映り込んでいた。呪霊は推定2級、当該校舎は肝試しスポットだったので、他にも被害を受けた者がいる可能性もゼロではなかった。伏黒の任務は呪霊を祓い、被害者を発見、可能な限りで救出する事だった。

玉犬二頭を索敵に回して、伏黒は壊れた南京錠がぶら下がった玄関から中に入った。靴は脱がなくていいよな、とそのまま土足で廊下を踏んだ途端、白い方が伏黒の元に駆け戻って来る。随分早かったから、何か見つけたのだろうことは明白だった。白が回っていたのは二階だ。伏黒は尾を揺らす白の後を走った。辿り着いた一番奥は図工室だった。しかし引き戸の前まで来ても、呪力は全く感じない。妙だった。用心して戸を開けた伏黒が見たのは、意識を無くして横たわる大学生二人と、セーラー服姿で床に座る女の後ろ姿だった。


「……アンタ」


誰だ、と続く言葉が思わず止まったのは、大袈裟に震える薄い肩に驚いたわけではない。伏黒が戸を開けた途端走り込んで、女の肩に甘えるように擦り寄った白の行動が理解出来なかったからだ。


「びっ、くりした」
「……アンタ誰だ」


目を丸くして振り向いたのが名前だった。


「この子、君の式神?可愛いね」
「ここで何してる」


低くなる伏黒の声を気にする事なく、白は彼女に頭を擦り付けるようにしてまるで本物の犬のように甘えてみせた。彼女はされるがままに白を撫でてやり、その口元は笑んでいる。


「先に祓っちゃったんだ。ごめんね」
「……呪術師か」
「この人たちは、残念だけどもう手遅れだった」
「アンタ、高専の人間じゃないよな」


ちらりと視線を向けた先、彼女の向こう側。大学生二人は形こそ人のそれを保っているが、元の色がわからないくらいどす黒く染まった衣服の下は想像したくもなかった。失踪から三日、生存は難しいだろうとある程度予測していた伏黒は、高専に報告しなくてはとスマホを取り出す。まだ視線は彼女に向けたままだった。


「君は高専の術師なんだね。じゃあ私はもう帰ろうかな」
「アンタ誰なんだ」


名前。彼女はそう言って、また白を撫で回した。もういいだろう、と伏黒は術を解く。ぱしゃ、と水が弾けるように消えた白に、名前はあ、と小さく声を漏らした。


「なんで玉犬が懐く」
「さあ、体質かな」


名前は立ち上がってスカートを手で払う。下を向いたままの彼女が何か呟いたような気がした。次の瞬間、埃っぽい教室の中にぶわりと風が巻き起こった。まごう事なき呪力を帯びたものだった。思わず目を細めた伏黒が見たのは、−−−天井に耳が付くほど大きな、灰色の狼だった。


「な、」
「じゃあね、伏黒くん」


大きな黒光りする爪の付いた四つ足で立ち、名前に沿うように頭を下げてこちらを真っ直ぐ睨んでいた金色の眼が瞬いた。そしてまた一陣強い風が吹き、次の瞬間には巨大な狼とセーラー服の女は忽然と消えていた。

伏黒は開いた口を閉じることも忘れて目を瞬いた。玉犬は大型犬程度の大きさだが、今の狼はその何倍もあった。彼女が使役する式神の類なのだろうが、張り詰めるような膨大な呪力は凄まじい強さだった。あれを扱う彼女の力量は推して測るべしだろう。まだ高い陽の光が、教室に舞った埃をきらきら照らしていた。
どこかカビ臭い廃校舎の一室、風と共にあっという間に消えてしまったセーラー服の女。結局名前以外は何も分からなかったけれど、伏黒は名乗っていなかったことに気付くまで少し掛かった。









二度目に出会ったのも、伏黒の任務先だった。と言ってもあくまで見回りであり、図らずもひとりぼっちで心霊スポット巡りをしている最中だった。場所は高速道路の高架下。近くに人家が無いこともあり、夜は高速道路の街灯が投げる眩いオレンジの光がちょうど届かない場所だった。伏黒はそこで前方に大きな影を見る。呪霊の気配はなかったはずだが、ぼんやりと見える黒い影は象のように大きかった。そしてその横に、夜闇に白い二本足の人間が歩いていた。間違いなく、先日出会した彼女だった。


「あっ、伏黒くん」
「アンタまた、」
「また会ったね」
「…ここで何してる」
「散歩だけど、犬の」
「犬じゃねェだろどう見ても」


伏黒の呆れたような視線を、名前は笑顔で受け止めた。彼女と同じタイミングで立ち止まった隣の狼の毛に手を埋めるようにして撫でながら笑う彼女は、今日はセーラー服ではなくブレザーの制服姿だ。


「伏黒くんも散歩?」
「俺は見回りだ」
「今日も仕事か。真面目だね」
「…アンタ、教祖サマなんだってな」
「なぁんだ、知ってたんだ」


プリーツスカートから伸びた脚が小石を蹴り飛ばす。子供のような仕草に反して、暗がりで読みづらい表情は暗く見える。

伏黒は先日の任務を報告するために名前の事を五条に話していた。

「変な女が先にいて」
「へぇ、女?」
「名前って言ってましたけど」
「名前…もしかして、デカイ狼連れてた?」
「…それです。有名ですか」
「逆に恵、知らなかった?呪術界じゃ結構知られてるよ」
「知りませんけど」

ウッソー恵って意外と世界狭いんだね。軽薄な五条の声が脳内再生されて、伏黒は嘆息する。



「そう、私、教祖サマなの」
「…」
「ねえ伏黒くん、散歩しよう」
「…は」
「見回りでしょ、一緒に行こうよ。あ、白と黒も」
「この間は黒には会ってないだろ」
「知ってるでしょう。私、動物に好かれるから」
「動物っつーか、」
「灰が喜ぶからさ。あんまり犬科のお友達いなくて」
「犬科」


押されるままに伏黒が喚び出した玉犬二頭は、千切れんばかりに尻尾を振って名前と狼に飛び付いた。喚び出した張本人に目もくれない珍しい姿に、半ば諦めた伏黒はそのまま名前と一緒に歩き出す。二人の少し前を、象のような狼とその子供のようなサイズ感の黒と白が飛び跳ねながら歩く。人けのない高架下はちょっとしたドッグラン状態になった。


「アンタ、どう見ても教祖って感じじゃ無いな」
「そうかな。これでも皆の前じゃちゃんとしてるよ」
「ちゃんと」
「そう、ほとんど喋らず、黙ったままちょっとだけ微笑む感じね」


悪戯そうに笑う黒い瞳をちらりと見て、伏黒はまた前を向く。

五条が得意げに語って聞かせた名前の話は、にわかには信じ難い歪んだ話だった。
はいろうきょう、と五条は言った。灰色の狼の教えと書いて灰狼教。言わずもがな、名前が先ほど灰と呼んだ大狼のことだ。彼女の父親は娘が産まれて程なくして事故で突然亡くなり、母親は悲しみに暮れた。そうして一時死を切望したことによって−−かどうかは分からないが、とにかく母親は呪霊が視える人間になった。そして名前がまだ物心つかない幼子のうちから、隣に灰色の犬がいる事に気付く。それが灰だった。名前は灰と共に成長し、彼女が10歳になる頃には灰は体高が大人以上の狼になっていた。いつも彼女のそばに静かに寄り添い、低級呪霊は灰を恐れて近付くことも無かった。彼女の母はそれを見て、最初は亡くなった父の思いがこうして娘を守っているのだと考えた。−−それで済めば良かったのだ。名前の母は自分の娘を、神獣をお供に下界に遣わされたカミサマとして、宗教を興したのだ。
灰狼様を従えた、名前様。それが彼女だ。彼女は術式として灰を従え、そしてさまざまな動物に異様なまでに懐かれる性質を持ち、その声を聞くことが出来る。姿を変え人の世に暮らす神獣達の声を聞き届けるのが名前様という訳だ。
視える人間を中心に信者は増え続け、今や界隈ではかなり有名な新興宗教であるらしい。灰狼様を連れた名前様は、灰狼様と共に信者達に救いと導きを与える。それは元々は教えというより、実際に害を成す呪霊を彼女が祓うことで集めた信仰心だった。都心から少し外れた場所に本部と称して事務所と集会場のある建物を有して、その信者は全国に及ぶ。

伏黒はそれを聞いて、眉間の皺を深くしたものだった。






「あの狼は」
「灰のこと?可愛いでしょう」
「アンタの式神じゃないのか」
「式神、とは違うかな」


二人の前を歩く灰色の大きな尻尾はゆっくりと揺れている。表情は窺えないが、じゃれつく黒と白を嫌がる事はなく、むしろしっかり揺れる尻尾から大狼もまた喜んでいるように見えた。


「昔、東北の山奥に、大きな御神木があってね。だけどある日、雷が落ちてその御神木は燃えてしまったの」
「…東北?」
「その灰のなかから産まれたのがあの子で、それを見つけたのが私。あの子は私に着いてきたの」
「…」
「っていう設定になってるんだよ」
「ウソかよ…」


ちょっと真面目に聞いて損した、と顔に出す伏黒に、名前は悪戯が成功したとばかりに笑う。


「それは信者のための作り話。灰は私が作ったから」
「作った、って」
「今度のは本当だよ。あの子は寂しがり屋の私が生み出した呪霊、なんだと思う」
「呪いには見えねェけど」
「イマジナリーフレンドって知ってる?友達や兄妹が欲しい子供なんかが、架空の存在を作るみたいな」
「…ああ」
「灰はそれだったんだよ。私ずっと犬が欲しかったから」
「…」


その話は理解は出来るが果たしてあり得る事なのか、伏黒にはその判断はつかない。それに彼女の話が本当とは限らない。なんたって彼女は母親に祀り上げられたとは言え、そこそこ巨大な宗教の教祖を務めているのだ。偏見がないといえば嘘になった。


「灰は、ずっと私のそばにいてくれた。母は…って呼ぶと、本当は叱られるんだけどね、私の方が教祖様だから。まぁ、母はあまり心が強くないから、灰狼教が出来る前は色んな宗教で騙されたりもして…私がこうして居た方が、一番いいの」
「…なんでそんな話を俺にする」
「なんでだろう。伏黒くんは、ちゃんと自分の足で立って呪術師やってるからかな」
「べつに俺は」

そんな立派な人間じゃない。伏黒はそう思った。だって呪術師になったのはそれが保護の条件だったから、姉の解呪が無ければ今も本当は大してやりたくなんてなかっただろうから。



「そういえば俺、名乗ってないよな」
「ああ、白が教えてくれたよ。君が伏黒恵くんで、お姉さんのために頑張ってる結構強い呪術師だ、って」
「式神と話せるのか」
「動物系のとは、大体ね。そういう術式なんだって、高専の先生が言ってた」
「高専の先生って」
「かの有名な五条悟先生。伏黒くんの保護者なんだってね?」
「それも白が?」
「うん。でも昔一度、五条先生と偶然会って話したことがあるんだ」
「…そうか」
「変わった人だよね」
「……だいぶな」


あの人、この間は会ったことがあるなんて一言も言ってなかったよな。伏黒は呆れたように息を吐く。



「私、教祖サマだから友達って全然いなくて。また灰と一緒に遊んでくれないかな」
「……まあ」


玉犬は影を媒体とした伏黒の式神だ。犬型であって犬ではないのだが、灰と戯れる様子は本当に犬そのものだった。彼らの喜ぶ姿を見るのは伏黒にとって悪い話では無かった。別に、だからだ。彼女と連絡先を交換したのも、また会う約束をしたのも、玉犬のためであって伏黒がまた名前に会いたかったからではない。はずだった。










「恵、名前チャンと友達ってマジ?」
「マジじゃないですよ」
「即答じゃん。この間窓から興味深い報告があったんだよね。超絶デカイ狼と、白黒の犬が遊んでる所を見たんだってー」
「そうですか」
「灰狼と、恵の玉犬だよね。いつの間にそんなに仲良くなったのさ」


報告がてら訪れた高専の教員室で、行儀悪くデスクに長い脚を組んだまま乗せた五条がにやにやしながらそう言った。目隠しの所為で口元しか見えないが、新しいオモチャを見つけたかのように笑っているのは明白だった。


「あの子さぁ、こっちに引き入れたいんだよね、僕」
「は、」
「有能な呪術師だよ、名前は。あの狼は精霊に近くて、あの子を守るためなら何だってする。彼女自身の呪力と術式もかなりのモンだし」
「精霊?」
「思念から生まれたという点においては呪霊と同じだけど、多分名前の生い立ち、っていうか血筋によるものもあるんだろうね。あの狼は彼女にしか扱えない」
「…」
「てことで恵さ、勧誘してよ名前チャン」
「自分で行けばいいでしょ」
「僕断られてるんだよなー。自分は呪術師になるつもりはないってきーっぱり」


そんな話は初耳だった。廃校で出会った春先から季節が夏に変わって、伏黒は週に一度のペースで名前と会うようになっていた。大抵が深夜、人けのない公園や高架下、もしくは心霊スポットで、灰と玉犬が戯れるのを眺めながら取り留めのない話をする。名前はよく笑うが騒がしいという事はなく、伏黒とはウマが合った。
そうして話していると一大宗教の教祖だなんて仰々しい印象はカケラもなく、同い年のごく普通の、すこし大人びた程度の女の子にしか見えなかった。


「名前チャンとそういう話したことない?」
「…いや、別に」


目隠しの下からも射とおされるような視線を感じて、伏黒は目を逸らす。何度か会ううちに、本当は色々な話をしていたからだ。


「あの人は現状に満足してますよ」
「それ、彼女が言ったの」
「そうですよ」
「本気でそう思う?それが名前チャンの本音だって?」
「……何が言いたいんですか」
「別に?あの子は幼い頃から教祖に祀りあげられて、友達と遊ぶことも恋人を作ることもなく狼だけが心の拠り所だった。でももう、母親の言いなりになるだけの年齢じゃないだろ」
「…」


名前は伏黒と同い年だから、中学三年だ。ただ学校は定期テスト以外はほとんど行っていない。高校に進学する気はないとも言っていた。母のためだ。伏黒は考える。同じクラスの女子たちと言えば、日がな一日タレントやコスメやファッション、あとは恋の話をしているイメージだ。放課後あそこのカフェ行こうよ、週末あの映画行こうよ、と話す彼女たちと、名前の姿は重ならない。名前もそういう事をしたいと思ったりするのだろうか。



「あの子の母親−−結構キてるんだよね。名前チャンは、ただ青春を奪われるだけで終わらないかもしれない」

五条が呟いた声は、伏黒の頭に残り続けた。











「恵、背伸びた?」
「さあ」
「絶対伸びたよ。成長期?」
「名前が縮んだんじゃねぇの」


昼間の暑さが夜になると和らぐような、夏の終わりだった。伏黒と名前がいるのはとある高校のプールだ。彼女が信者からの依頼を受けて呪霊を祓いに行くと言うので、伏黒も同行した形だった。二人は互いに名前で呼び合うくらいには仲良くなっていた。


「いいなあ、私もう全然身長伸びない」
「まだ分かんねェだろ」


プールサイドに出ると名前は履いていたローファーと靴下を脱ぐ。素足のままで歩き出す彼女は今日は夏服のセーラー服だ。会うたび違う制服なのは、単純に制服が好きだからだと言っていた。
夜のプールは黒々とした水面が絶えず揺れている。街頭の明かりできらきらと光るそこを見つめながら、名前はまるで飛び込みでもするかのように縁に立つ。


「うーん、いるね」
「そうだな」

落ちるぞ、と伏黒は後ろに立ったまま呟く。ぐらり、風もないのに水面が一度、抉れるように波打った。


「−−−」

名前が何か呟いた。ぶわりと一陣の風が吹き、名前の背中に寄り添うようにプールサイドに灰が現れる。じっと水面を見つめ、グルル、と低い音を出して牙を剥いた。


「灰、お願い」

灰は音もなく後ろ足を軸に跳び上がった。プールに飛び込むように落下する大狼は、しかし水には落ちずにそのまま立った。水面に四つ足で、しっかりと。名前が微動だにしないうちに、黒い水面が歪んで醜い呪霊が姿を現す。禍々しい呪力に伏黒は眉間に力を入れた。二級程度だろう。高専には報告が無かったのだろうか。
呪霊が形を変えながら灰に飛び掛かる。灰は大きく口を開けてそれを受けた。噛み付いたのだろうが、次の瞬間には呪霊は霧散して消えていた。まったく早業過ぎて何が起きたのかよく分からない。


「……すげェな」
「灰、ありがとう」


振り返って名前に向かって頭を下げる灰を、彼女は抱き締めるように撫でた。飼い主に従順な犬のように、目を閉じて小さな彼女に擦り寄っている。


「これで大丈夫かな。もう終わっちゃったね」
「相変わらず早いな」


伏黒が彼女と灰の祓除を見るのは初めてではなかった。そのどれもが今回のように一瞬で終わり、その後灰が名前に甘えている時間の方がずっと長い。


「じゃあちょっと遊んで帰ろう。灰はね、結構水が好きなんだよ」


名前は灰を撫でて、よし!と犬にするように声を張る。灰は飛び上がり、今度は。


「っ、オイ!」
「あっはは、派手だね」


先ほどまで立っていた水面に、今度は正しく飛び込んだのだ。プールに張られた水が大量に跳ねて、伏黒の所まで飛んでくる。ほら、白と黒も、と振り向いた名前の方がずっと濡れていて、伏黒は諦めの境地で印を結ぶ。二頭の犬は灰よりずっと少ない水飛沫を上げて、同じようにプールに飛び込んだ。


「ふたりも水好きだったねー」
「お前これどうすんだよ…」


伏黒は払いきれない水に濡れた服を摘んで息を吐く。名前はセーラー服の裾を絞りながら、そのままプールサイドに座って両足を水につけた。


「冷たい、気持ちいいよ、恵」
「……そうかよ」


振り向いた彼女の笑顔が心底楽しそうで、伏黒はそれ以上の文句を飲み込んだ。パンツの裾を捲って、伏黒も隣に座って彼女に倣う。水は思いのほかひんやりして、確かに気持ちが良い。


「私、プールなんて小学生ぶり」
「あー、俺もそうかも」
「水着持って来ればよかったな」
「勘弁してくれ」
「えー」


名前が上下する白い脚が、きらきらと水飛沫を纏う。なんとなく直視できなくて、伏黒は視線を逸らす。


「最近どう、恵」
「別に。なんも変わらん」
「そう?また喧嘩してない?」
「してねェよ」
「ならいいけど」
「お前は」
「んー、北海道支部が出来たよ」
「は」
「おかげであの人はとっても忙しそう」
「…そうか」


名前の母は所謂布教活動に全神経を注ぐ事で、心の平穏を保っている。五条が結構キてる、と表現したのはその不健全な生き甲斐のためだ。そして彼女が教祖であり続けるのも、その母のため。


「なあ」
「ん?」
「名前は夢とかあるのか」
「夢?んー、灰とずっと一緒にいたいかな」
「そうじゃなくて…どうなりたいとか、」
「将来の夢ってこと?」
「まあ」
「うーん」


ざぶん、と水音がして、また水飛沫が飛んでくる。夜のプールは犬用プールと化していて、悠然と歩く灰の周りを白と黒が犬掻きで泳ぎ回っている。


「……あのね」
「ん」
「誰にも言ったことないから、秘密にしてほしいんだけど」
「ああ」
「私、服に関わる仕事がしてみたいの」
「服?」
「そう、デザイナーとか、スタイリストとか」
「制服の?」
「ふふ、別に制服限定じゃないよ。好きだけどさ」
「…そうか」


名前は少しはにかんだように笑いながら、秘密の話をした。

きっかけは昔テレビで見た、デザイナーのドキュメンタリー番組だった。頭の中に浮かんだイメージを、夥しい色や生地のサンプルから形にしていく。まるで魔法使いのようだった。自分が作った服を選んで着てもらう、それはとても魅力的なことに思えた。だけど−−−


「…それは来世に取っとくの」
「は、なんでだよ」
「今世の私は、このまま生きて、このまま死ぬ」
「お前な、俺が言うのもなんだがまだ若いだろ」
「うん、でも、教祖の私がいなくなったらあの人はだめになっちゃうし」
「…諦めるには早いだろ」
「諦めが肝心とも言うよ」


名前はやはり笑って、伏黒を見る。座った事でいつもより視線が近い。水面に反射した多くはない灯りが、名前の目の中できらめいている。


「なあ名前」
「なあに恵」
「俺は来年、高専に行く」
「うん」
「お前も来ないか」
「…恵と高校生活かあ、楽しそう」
「じゃあそうしろよ。五条さんならなんとかできる」
「ありがとう恵」

でも出来ない。ごめんね。

そう言った彼女は、本当に笑っていたのだったか。

ばしゃんと音を立てて上がった一際大きな水飛沫が、見つめ合うような形になっていた二人を頭から濡らした。目を丸くした名前が、伏黒の前髪から雫が滴り落ちるのを見て笑い出す。じろりと横に視線をやれば、灰が金色の瞳をこちらに向けていた。主人に何かしようものなら容赦はしない、とでも言っているような、真っ直ぐ射とおすような視線だった。


「あーあ、びしょびしょ」
「お前んとこの狼の所為だからな」
「灰は水が好きだって言ったでしょ」
「故意だろこれは」
「そう、灰ね、恵のことが結構好きみたい」
「…逆だろ」


あれはどう見ても名前を守ろうと敵意を向けている。べつにお前の主人に手出しをする気はないとばかりに、伏黒は嘆息した。

伏黒にとって名前は数少ない大切な友人だ。話すのも、目的もなく一緒に歩くのも、彼女とならば心地良い。彼女を高専に誘ったのも、五条に勧められたからではなかった。呪術師になるならないは別として、教祖としてではなくただの女の子として生きる彼女を見てみたかった。一人きり、灰と過ごすだけではなく、例えば恵と、こうして。ならば高専へ通う事は、その一歩になるのではないだろうか。それにあの五条のことだ、どうとでもして名前を灰狼教から救い出してくれるだろうという期待もあった。


「たくさん遊んだねえ」

名前の方に泳いできた玉犬達が、濡れた頭を彼女の脚に擦り付ける。立ち上がった彼女を水から上がった玉犬がじゃれるように追う。一人と二頭がプールサイドを走り出すのを、水面を大きく波立たせながら歩いてきた灰が目で追った。


「……なぁ、」

伏黒の口から声がこぼれる。灰の金色の眼が伏黒をひたりと見据える。


「灰はどう思う。…名前はどうしたら幸せになれる」

ほとんど独り言だった。

灰は何も言わずに水から上がり、ぶるぶると身体を震わして多量の水を飛ばした。もはや諦めた伏黒は、それに倣うように頭を振った。
通り過ぎた灰の太く大きな尻尾が、振ったばかりの伏黒の頭をかき混ぜていく。


「あ、オイ、」


悠然と尾を揺らしながら、灰はプールサイドを名前と玉犬達の元へ歩いていく。なんとなくだが、機嫌が良さそうに見えた。

今度はプールサイドをドッグランにした三頭の後を追いながら、名前が笑っている。彼女の夢を叶えてやりたい、なんておこがましいかもしれないが、それでも夢を見ることすら秘密にしてしまう名前の事を、伏黒は考えずにはいられなかった。

なんとか彼女を高専に連れて行けないだろうか−−−






伏黒の方から任務外で五条に連絡するのは珍しかった。名前の事で話したい、とメールすると、一時間後に着信があった。彼女を高専に引き入れたい。確実とまでは言えないが、それを嫌がる素振りはなかった−−そう話すと五条は、まあ少し方法を調べてみるよ、と電話の向こうで満足げな声を漏らした。
これで良かったのだ、と伏黒は思った。彼女を縛り付けるものが母という絶対で唯一無二の存在であり、それを補強しているのが日々大きくなっていく灰狼教であるなら、伏黒一人の力で出来ることなどたかが知れていたから。

何日か後、伏黒は都内にある灰狼教の本部の前に居た。任務地が近かったし、ネットで簡単に住所が知れた本部がどんなものか興味があった。思ったより大きく体育館の半分くらいはありそうな建物は白く、柱は狼と同じ灰色だった。都心からは外れているとは言え、芝生の生えた前庭がある立派なものだ。ポケットに手を突っ込んだまま、誰もいないのをいいことに伏黒はその建物を睨み付ける。これの所為で、名前は。
伏黒はしばらくそうして苦い顔をして、再び歩き出した。彼女と次会う約束をしたのは三日後だ。また高専の話をしてみようと思っていた。数メートル歩いたところで、ばたばたと焦ったような足音が響いて伏黒は振り返った。灰狼教の建物から出てきたのは、他ならぬ名前だった。伏黒を見て驚いた顔をして足を止めた彼女と、まさか今日ここにいるとは知らなかった伏黒は視線を合わせて動きを止めた。


「めぐ、み」
「お前、」
「っ、ねえ恵、何か、した?」
「…え?」


彼女はいつも笑っている印象の顔を、ひどく辛そうに歪めた。まるで泣き出しそうに。


「何言ってる、」
「誰に、何を、話したの」
「名前」


取り乱した様子の彼女の声が僅かに震えていて、伏黒は息を飲んだ。

何があった、どうしてお前がそんなに辛そうなんだ、伏黒が次の言葉を紡ぐ前に、名前様!と建物の方から複数の足音と声が聞こえた。はっとした名前はいつの間に現れた灰の背に飛び乗り、「乗って」と伏黒に短くそう言った。











風のように駆ける灰が足を止めたのは、何処かのビルの屋上だった。赤茶に錆びた頼りない柵がぐるりを囲むだけの、古いビルの屋上だ。けれど周りの建物よりは背が高く、晴天の昼間の空気の中に東京タワーがよく見えた。灰はうずくまるようにして二人を下ろすと、慰めるように俯いた名前の顔に擦り寄った。


「…名前、何があった」
「何かしたのは、恵じゃないの」


俯いたままの彼女の表情は窺えない。それでも冷たい声色は、出会ってからこっち初めて聞く怒りと焦りを孕んでいる。


「どういうことだ」
「教祖様を高専へ通わせて、灰狼様の力をもっと確固たるものにしたらどうか」
「…え?」
「そう言ったのは、うちの幹部の一人。まぁ、あの人に直接そう話しても相手にされないから、別の幹部に言ったんだろうね。それを聞いたあの人が、なんて言うか、なんて、」
「……」
「名前も、灰狼様も、ここから出しはしない−−」


ようやく顔を上げた彼女の表情に、伏黒は息を飲んだ。泣くのでも、怒りに歪めるのでもなく、ただ蒼白な顔には何の表情も乗っていない。


「でも死にたくなくて、逃げて来ちゃった」
「……は?」


弾かれたように伏黒が名前に歩み寄る。肩を掴んで僅かに屈むと、彼女の首の広範囲に赤い跡が見えた。ちょっと待て、これはつまり、


「お前、何された」
「…アンタを殺して、私も死ぬ、って」
「首、」
「まだ私、何も言ってなかったんだよ。高専行きたいとか、ここを出たいとか、そんなことなにも」



伏黒が握ったままの彼女の肩が僅かに震えている。
なんで、どうして。灰狼教に高専の話を持ち掛けたのは、五条の根回しで誰かが行った事なのだろうと予想は付く。でもどうしてそこで彼女を殺すなんて発想になるんだ。伏黒は浅い息を漏らす。首を絞められたのは名前の方なのに、伏黒はまるで自身の首を絞められているかのように息が苦しくなった。


「名前、」


掴んでいた肩を引き寄せるようにして、伏黒は衝動的にその薄い身体を抱き締めた。一体どうしてこんな事になった。どこで間違えたんだ。
名前の母親が精神を病んでいるのは火を見るよりも明らかだった。伏黒はもちろん直接会った事はないが、一人娘をまだ物心つく前から教祖様だなんて言って囲うようなことは、まともな人間のする事ではない。そんな場所から名前を助け出したくて、でもまだ世間的に見れば子供の伏黒が一人でどうにかする事は不可能だった。だからそういう知恵の回る五条に相談した訳で、五条もきっと母親の危険性を知った上で策を講じたはずだ。なのに、まったくもって最悪の方向へ進んでしまったのだ。



「……すまん。俺が、頼んだ」
「…」


こんな風に抱き締める事はもちろん、触れ合うことすら初めてだった。人生で初めて家族以外の女の子を抱き締めるシチュエーションがこんなに最悪なものになるなんて、とは考えている余裕は無い。伏黒は苦しげに声を絞り出した。


「名前の夢を叶えたくて、つーか、諦めてほしく、なくて」
「…」
「お前も高専に行けたら、って考えて、それで…相談したのは、俺だ」
「…そう」
「こんな事になるなんて思わなくて…悪かった」
「…」


名前は力を抜いたまま、伏黒に抱き締められていた。消え入りそうな小さな返事にこもる感情は全く読めない。伏黒の心臓ばかりがどくどくと煩い音を立てている。沈黙が流れる二人の上を風が吹き抜けて、名前の髪が揺れる。こいつはこんなに小さかっただろうか、と伏黒がわずかに腕に力を入れた。名前が伏黒の知らない何かに押し潰されて消えないように。


「恵」

沈黙を破ったのは名前の声だった。つい今ほどまでのか細い声ではなく、それは凛とした硬質な声だった。彼女が身体に力を入れたので、伏黒は自然と腕を緩める。今になって彼女を抱き締めている状況に少し焦った伏黒から、名前は半歩下がって離れた。ゆっくり上がった顔は、


「ありがとう。辛い思いをさせて、ごめんね」
「は、」


彼女は穏やかに笑っていた。慈愛すら含んだその笑みに、なぜだか伏黒の背筋はぞくりと粟立つ。


「お前が謝ることなんて何も、」
「私、分かってた」
「…どういう」
「私はただ、お母さんの娘でいたかった。でも、だれもそれを許してくれなかった。だから、」
「高専で保護してもらえば、名前も、」
「ううん、大丈夫」


名前はそのまま軽やかに後ずさる。目に痛いほど眩しい青空を背負って。


「私は、消耗品だった」
「…やめろよ」
「灰狼様も、名前様も、お母さんにも、信者のみんなにも、」
「名前」


伏黒は後ずさる彼女を追うように一歩踏み出す。しかしそれ以上は進めなかった。二人の間に出来た間に、金色の大きな目が割り込んだからだ。陽の光を受けてきらきらと銀色に輝く灰だった。


「恵といる時は、ただの女の子になれたみたいで楽しかったよ」
「名前、待て」
「使えなくなった消耗品がどうなるか」
「名前!」


灰がもたげたおおきな頭で、彼女の姿はすっかり隠れて見えなかった。噛み殺されてでも彼女を追うつもりだった。けれど足に力を込めても、伏黒の身体は動かない。灰に睨まれている、ただそれだけで。後になって思えば、結局詳しいことは分からずじまいだった彼女と灰の術式によるものだったのだろうと推測はつく。でもこの時、伏黒の頭にはとにかく彼女を行かせないことでいっぱいだった。もう二度と会えなくなるような、嫌な予感が身体中を埋め尽くしている。


「さよなら、恵」
「名前!」


手品のように灰がすっと消える。途端に開けた視界に写った数メートル先の錆びた柵の向こう、名前はこちらを向いたまま、やはり微笑んでいた。
彼女の身体が柵の向こうで後ろ向きに倒れて行く。スローモーションのように、名前の髪が宙に踊るのがはっきりと分かる。かち合ったままの視線が外れる前に、彼女の唇が小さく動いたが、声にはならなかった。いや、伏黒の耳にはもう何も聞こえていなかった。耳鳴りが脳を震わすような激情が貫いていく。


「名前、」


叫んだはずの声は絞り出すように掠れて、ほとんど音にならなかった。なんの躊躇いもなく、名前はそのまま背中から落ちて行った。
ここが何階建てのビルかなんて知らないが、この高さから落ちてはひとたまりも無い。名前の身体が見えなくなってからようやくたどり着いた柵の際、がしゃんと大きな音をたてて身を乗り出す。ものを考える余裕もないまま下を向いた伏黒が見たのは、しかし最悪の想像とは異なっていた。


「名前…?」


下に見える地面に、彼女の姿はなかった。血の跡もなく、通行人や車は普通に行き交っている。まるで全部悪い夢だったかのように、落ちて行った名前は影も形も無かった。

そしてそれが、伏黒が名前を目にした最後だった。










季節が巡り、伏黒は予定通り呪術高専に入学した。同級生は伏黒の他には二人きりだが、その割には賑やかな日々が過ぎて行く。少なからず伏黒の所為で両面宿儺の器としての力が顕現した虎杖は、呪術師としては超初心者だ。口は悪いが悪い奴ではない釘崎と、三人で実習という名の任務に就くことも増えて来た。そこに加えて式神の調伏、術式解釈、基礎的な体術や近接戦の練習など、毎日が忙しなく過ぎて行く。術師として実力が向上するのに合わせて、反対に自身の未熟さもひしひしと感じるようになる。
時間は淡々と過ぎていくが、伏黒はあの日から行方知れずになった名前の事を忘れた日はない。あの日屋上から落ちるようにして消えてしまった彼女は、その後一切の消息を絶った。



「遅くなっちまったなー」
「あ、駅まで伊地知さんが迎えに来てくれるって」


三人で就いた任務の帰り、補助監督の都合がつかず電車に乗って帰る途中だった。補導されるほど遅くは無いが、煌々と明るいホームの外は真っ黒な夜が色濃く迫っている。スマホを操作する釘崎と、腹空いたな、と独りごちる虎杖の後ろで、伏黒は何の気なしに線路の奥に視線をやる。都心から外れた場所柄の所為か、明る過ぎるホームに立つ所為か、伸びて行く線路の先はどこまでも暗闇だ。

ぼんやりしている時に考えるのは大抵、姉に巣食う呪いのこと、明日の予定、そして名前のことばかりだ。灰狼教はまだ無くなっていないが、彼女の母は正気を保てなくなったらしい。いずれ消えゆくか、別の教祖が据えられるか、どの道衰退は免れないだろう、というのが五条の見解だった。名前を捕らえていた母と灰狼教は既に無い。けれど彼女は帰っては来なかった。伏黒は五条にも協力を頼んで名前を探したが、本当にあの日以来、狼も彼女も消えてしまった。
消耗品だと微笑んだ彼女が本当に求めていたのは何だったのか、伏黒は結局分からないままだ。消耗品なんかじゃない、友人であり、才ある呪術師であり、たった一人の大切な女の子だった。少なくとも伏黒にとってはそうだったし、それからこれから出会えるはずだった人間たちにとってもきっと。


「なー伏黒、ラーメン食いたくない?」
「…この時間からは重い」
「えー私クレープ食べたい」
「クレープじゃ腹膨れないじゃん!」
「あ、なんか口に出したら余計食べたくなってきたわ」
「え、マジで?」


虎杖が不意に投げた声で、伏黒の視線は暗闇に伸びる線路から逸れる。
ここに名前がいたら−−考えても仕方のないことを、それでも無意識のうちに考えてしまう。いい奴なのに友達を作ることもままならない可哀想な彼女はきっと、コイツらとあっという間に打ち解けるだろう。灰を見たら、この二人は目を輝かせるだろう−−−


「あ、ねえこのクレープ屋0時までやってる」
「釘崎マジで言ってんの?てか方向違くね?」
「クレープ食べたらラーメン付き合ってやってもいいわよ」
「えっ太りそう…」
「女子かよ」
「まあ釘崎細いからいいのか…?」
「まあね」


暗闇の向こうから切り込むようにライトが光って、減速した電車がホームへ向かって来る。眩しさに目を細めて、伏黒は電車がやって来るのとは逆、進行方向の線路の先へなんとなしに視線を向ける。ライトに眩んだ目に、ほんの一瞬大きな狼のような影が映った−−−気がした。


「名前、?」

「なあ伏黒クレープ食える?」
「食べれるでしょ。甘いやつばっかじゃないし」
「そ?なあ伏黒、」
「…アンタ何ぼけっとしてんの?」


視線を固定したまま目を瞠った伏黒に、虎杖と釘崎が振り向いたまま怪訝な顔をする。ホームに滑り込んだ電車が、ゆっくりと停止する。ドアの開く軽快な電子音が、伏黒の耳を上滑りする。


「なんかいた?」
「なんもいないじゃない。ほら行くわよ」
「……ああ」


目を凝らしても、もう何も見えなかった。きっと見間違い、考え過ぎて見た気になる、そんなところだろう。伏黒は二人に続いて足を踏み出した。

あの日、屋上で彼女が最後に言った言葉は何だったのだろう。いくら考えても正解が分かる日は来ない。高架下で、夜のプールで、無邪気に笑った名前と話した事がぜんぶ本心だったのか、それすらも分からなくなってしまった。それでも。二人の時は普通の女の子にしか見えなかった彼女がその内に抱えた膨大な感情の塊を、もっと聞いて、話して、ほんの少しでも分かってあげられたら。もしかしたら彼女は今ここに一緒にいる未来があったかもしれないし、一人きりで消えてしまうこともなかったかもしれない。灰色の大きな狼と共に消えてしまったよく笑う彼女のことを、伏黒は飽く事なく考え続けている。





Last Dance
真意を知れば最期になるならさ、
舌が乾くまで話そうぜ






title&song:ラストダンス



back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -