色淡く蠢動
△ ▽ △





「ムシシ?」
「そう、昆虫の虫を三個書いて、蟲、に師走の師」
「なんだそれ」
「まあ、大まかに言えば呪術師の一種になるのかな」


ストローで吸い上げたアイスクリーム入りのサイダーが、口の中でしゅわしゅわと弾けて喉を通っていった。制服姿の五条は目の前で同じようにストローを咥える名前に、訝しむような視線を隠す事なく投げ付ける。昼下がりのカフェは若い女の子やカップル達で混み合っている。


「私の一族は蟲師なの」
「だからなんなんだよ、それ」
「蟲の所為で困っている人を治療したり、蟲そのものを研究したり?」
「ムシ、ってさあ……」
「昆虫じゃないよ。命の源に近い、人智の及ばぬ源世界の生き物たちのこと」
「何だそれ、妖精?」
「まあ、まあそんな感じ。精霊って言ってもいい」
「…呪術師じゃん」
「だから大まかに言えば呪術師って言ったじゃん」
「蟲って、要は呪霊とか、呪力溜まりみたいなもんだろ」


んーまあそれはちょっと違うけど、と名前がパンケーキを口に運ぶ。話よりスイーツに夢中なようだ。
五条は五枚重なったパンケーキを豪快に切り崩しながら、サングラス越しに向かい側の彼女をちらりと見た。

歳の頃は同じくらいに見えた。高校生か、せいぜい大学生。未成年なのは間違いないだろう。長い髪は流行りの色に染まっていて、自然だがきちんと計算された化粧が施され、しかし爪先は切り揃えられて素のままだった。
名前と五条が出会ったのはつい一時間ほど前の事である。


「あー、そっか、治療ね」
「だからそう言ったじゃん」
「急に人の顔に針刺そうとするから」
「言い方…」


この日五条は単独で祓除任務に当たっていた。郊外の廃ビル内に巣食う呪霊が、どうやら少なくとも三人の一般人を取り込んでいる。呪霊を祓い被害者を保護するべく、乗り込んだ先にいたのが名前だった。残穢から呪霊がいた事は分かったが、五条が到着する直前に祓われたらしい。気を失って横たわったままの被害者の額に、長い縫い針のようなものを今まさに刺そうとしていたのが名前だ。呪霊よりヤベェ人間だ、と五条は目を剥いた。


「でもだからって、急に手を出すのはどうかと思うけどね」
「それこそ言い方な」


二人ともパンケーキを頬に詰めたまま、五条が名前をフォークで差す。彼女は不服そうに目を細める。

五条は呪霊の姿を見なかった訳だが、どうやら胞子のような呪力を飛ばして人間の動きを封じて溜め込んでいたらしい。被害者三人のうち一人はすでに食われかけていて助からなかったが、残った二人は名前の針で胞子を抜かれて一命を取り留めた。
しかしそんな事とは知らなかった五条は、人間の額に針を向ける名前の腕を慌てて掴んで止めたのだ。彼女は驚いたと同時に憤慨していた。


「でもま、助けられたから良かったけど」
「そう、私のおかげでね」


腕を掴んで止めた五条が呪術師なことに、名前はすぐに気付いた。そうして一喝したのだ。


「私が治すから引っ込んでて!ってさあ、言う?初対面のイケメンにさあ」
「え、それ笑うところ?イケメンって」
「なんでだよ」


迫真の演技を見せる五条に、名前がは、と鼻で笑って見せる。
彼女の気迫に圧された五条は、思わずぱっと手を離した。名前は一度呼吸を整えて、それから針を被害者の額に軽い力で刺したのだ。針先がほんの少し突いただけのように見えた。彼女が手を引くと一拍置いて、皮膚の下がどくんと脈打つように蠢く。そこから寄生していたと思しき呪霊の胞子が出て来たのだ。被害者の顔色が良くなったのを見て、五条は驚いた。手際の良さも判断力やそのスピードからも、彼女が随分と手慣れていることが窺えた。


「まあ、蟲師だけじゃ食べてけないから私は呪術師だけど。アレも呪霊だったし」
「ふーん、オマエ高専入らねぇの」
「オマエじゃなくて名前って言ったじゃん。高専は入らない方針の家なの。普通の女子高生だよ」
「普通の女子高生が平日の昼間にあんなとこいていいのかよ」
「通信制なんでね」


はーん、と五条が真っ赤な苺を口に運ぶ。名前も大きな口を開けてクリームの乗ったパンケーキをぱくりと食べる。からん、と彼女のアイスティーのグラスで氷が鳴った。

呪霊を祓って被害者を救出し、五条が呼び出した補助監督が被害者を高専へ搬送して行った。応対した術師を高専へ連れて来るよう指示があったのだが、名前はこれを渋る。普通は説得するなりどうにか連れて行く手段を考えるのだろうが、五条は杓子定規にはいかない男である。じゃあとりあえず腹空いたしパンケーキ食おうぜ、と突拍子もない提案を持ち出した。まあいいよ、と二つ返事で了承した名前もまた、杓子定規に嵌まらないタイプの女だった。


「なんか変な奴だな」
「アンタもね」
「アンタじゃねぇよ」
「なんだっけ、さとし?」
「悟だよ、五条悟。知らねぇの?」
「いや知らないよ」


呪術師界で五条悟を知らぬ者はいない、はずである。しかし彼女は高専は知っているのに五条悟を知らないと言う。蟲師の家系で、五条悟を知らない女子高生。五条は興味を乗せた目で、喉を鳴らしてアイスティーを飲む名前を見つめていた。








名前は旧家の生まれで、その起源は蟲師だった。蟲は呪霊ではなくカテゴライズするなら精霊だ。
生命の起源である光脈は大河に例えられるが、蟲師の中でもそれを視認できる者は少なかった。彼女の家系はかつてから蟲を寄せる体質で、光脈を感じることが出来る蟲師が大抵どの時代にも存在していた。
人や動植物よりもっと原始的で光脈に近しい蟲たちは、普通の人間には視認どころか存在を感じることも出来ないが、影響を受けることはままあった。それは不可思議な出来事や原因不明の病とされがちで、それを解決するのが蟲師だった。

名前は適当に流したがもちろん蟲と呪霊は全くの別物で、人間の思念によって生まれる呪霊と違い蟲には人の感情は全く関係ない。しかし精霊である蟲をはっきり感知しその対処や種に関して膨大な知識を持つ蟲師は呪術師には向いていると言って差し支えなく、時代と共に呪術師の一派として組み込まれるようになった。
精気の宿る手付かずの自然が少なくなり蟲も減ってしまった今世に於いても、その血と技術は脈々と受け継がれている。

−−−とはいえ名前はごく普通の女子高生だ。両親は早くに亡くしたが祖母は現役の蟲師で、日本国内に点在する光脈の通る土地、いわゆる光脈筋と云われる精気の濃い場所を管理する傍ら、呪術師稼業も行なっている。








「苗字、か。ああ、知ってるぞ」
「へえ、有名なの?」


任務を終えて帰った先の高専で、五条は勢いよく顔を上げた。担任は眉間に皺を刻んだままだがこれはそもそもデフォルトだ。そしてそうであろうとなかろうと五条はそんな事を気にかけるような男ではない。


「そうだな。苗字家は代々蟲師の家系で、今は呪術師だが高専には属していない」
「ふーん…」
「悟お前、苗字の家の者に何かしたのか」
「何かってなんだよ、俺はなんもしてねぇっつの」


問題児五条に対する担任の心配は尤もだ。苗字家は元から数は多くないものの、由緒正しい長い歴史を持つ旧家だ。高専に属さない術師は他にもいるし、特にいがみ合うわけではなく必要なら情報交換程度のやり取りはある。そんな友好的な関係にある旧家に御三家が手を出したりでもしたら一大事である。


「今日の任務の時たまたま会ったんだよ。名前とかいう奴」
「……お前それ、当代じゃないか」
「はあ?あんなガキが?」
「そうか、お前らと同い年くらいだったな…確か先代が早くに亡くなって先々代が一時戻っていたはずだが、その後名前さんが当代になってもう三年は経つ。お前本当に何もしてないだろうな」


夜蛾の視線が尖る。だから任務の時に出会って一緒にパンケーキを食っただけと正直に言ったわけだったのだが、任務中に何をしているんだと結局制裁を喰らう羽目になった。

−−−当代、つまり昼間向かい合わせでパンケーキを食べていたあの彼女が、古くから続く蟲師で呪術師の苗字家の現役の当主。こう言ってはなんだがそんな風には見えなかった。五条は喉を鳴らしてアイスティーを飲む名前を思い浮かべる。被呪者に向ける真剣な眼差しは確かに、責任感の強いひとかどの呪術師の顔であった。それ以外は初対面の顔面特級を前に平気でパンケーキを頬張るし、割とふざけた−−いや、くだけたタイプに見えたものだったが。
またどうであれ、変わった奴だと思ったこと、嫌いじゃないなと思ったことは本音であった。

しかしそんな出会いからたったひと月、五条は名前と再び顔を合わせることとなる。





「あ、さとしじゃん」
「だから悟だっつってんだろ蟲師」
「冗談だよ五条悟くん」
「気持ち悪い呼び方すんな」


東京から新幹線に乗り、在来線の快速に乗り換え更に各停に揺られた先、小さな無人駅で降りてそこから迎えの車に二時間ばかりも乗った山奥の小さな村だった。移動だけでぐったり疲れた五条が村役場の人間に案内されるまま向かった立派な古民家の土間の向こうで、名前はどこか楽しそうに笑っていた。


「久しぶりだね」
「ひと月ぶりだな」
「私の名前覚えてた?」
「名前だろ。お前当主なんだってな」
「そうだけど、言ってなかったっけ」
「聞いてねぇわ」


深い息を吐きながら五条がどかりと座り込む。長身の五条にとって公共交通機関のシートは狭い。ずっと座っていただけなのに疲れていた。


「お前いつ着いたの」
「三日前からいるよ」
「早くね?俺要るのそれ」
「頼りにしてるよ最強くん」


口角を上げて、名前が妖艶に笑って見せる。五条はそれを横目で見ながら、それでもなんとなくこんな辺鄙な場所まで来た甲斐があったような気がし始めていた。






「それで?三日も此処で何してたんだよ」
「昔と違って今は何処も管理が行き届いてるからね。紙魚が食うのは珍しいんだよ」
「……答えになってねぇんだけど」


事の始まりはつい昨日だった。東北の山奥にある蔵の中に、1級相当と思われる呪霊が憑いている。祓除は五条指名だった。別の術師が既に出向いていると聞いて、特に初対面の人間との付き合いがあまり得意とは言えない五条は面倒だな、と思ったものだった。しかしその術師が苗字名前と聞けば話は別だった。あの日出会ったちょっと変わった女に、もう一度会ってみたかった。


「紙魚って知ってる?」
「シミ?」
「銀色っぽい小さい虫で、紙を食べるの、本とか、掛け軸とか。まあ害虫だね」
「へー」
「でもここの蔵にいる紙魚は私の領分の方の蟲。書いてある内容を食う」
「……内容を食う?」
「そう。コピーもデジタル化もされていない昔の人にとって、文献の内容を食う紙魚はかなり厄介者だったんだよね」
「内容を食うってなんだよ」
「そのままの意味。紙を食うんじゃなく、中身を食って無くしちゃう」
「はーん……」


五条は胡座をかいた足に肘をついて顎をのせたまま、半眼で彼女の説明を聞く。蟲の話をしている名前は随分と楽しそうだ。


「ここの蔵には古い文献が山ほどあるの。和綴じだけじゃなくて巻き物も。すごいよね」
「ふーん」
「それが全部、蟲や呪術に関わる内容なんだって。この辺の山は光脈筋で、結構ハイレベルな霊場だから記録も多い」
「ふーん」
「産土神に禍ツ神、蟲の記録も多くてね、かなり貴重なの。高専も把握してなかった記録ばかりだって」
「んんー」
「国産みから記載があるなんて珍しいよね、時代もまだはっきりとは判別出来てないけど、口寄せの記述もあったからシャーマンなんかも、」
「……」
「……悟?」
「ん、」
「今寝てたでしょ」
「寝てねぇ」


拗ねたような不機嫌な声色でじろりと睨んでみても、名前が動じることはない。長く豊かな睫毛に縁取られた碧眼はとろんとしているし、瞼も重そうだ。五条は五条で、疲れた身体につらつら響く名前の声が睡眠導入剤のように沁み入っていた。


「とりあえず少し休んだら蔵の中、見に行こ」
「呪霊いんの」
「……なんのために悟を呼んだと思ってるの」
「つうかお前が呼んだのかよ…」


無理、限界、5分寝る。五条は降参したように囲炉裏のそばに長くなった。













結局まるまる三時間爆睡した五条を連れて、名前は蔵の前に立っていた。辺りはすっかり暗くなり、夜闇がとろりと濃く立ち込めている。都会と違って明かりが少ない山奥の小さな集落では、夜の色さえ濃いようだった。


「で、どう?」
「どうって何が」
「悟、眼がいいんでしょ?」
「まあね」
「何かみえてる?」
「んーまあ、いるなってことは分かる」


確かに面倒そうだな。閉まったままの蔵を見上げて呟く五条に、名前はやっぱり?と眉を下げる。
五条の眼は蔵の中いっぱいに巣食う呪力を捉えている。年季の入った頑健な蔵は、煤けた白壁が夜に浮かび上がってひどく禍々しい様相だった。


「祓えそ?」
「つうかお前が祓えば良かったんじゃねぇの」
「私は紙魚の調査研究に来たので」
「来たので、じゃねぇよ。お前も術師なんだろ」
「術師としては割と雑魚だよ、私」
「ああ?」


片眉を上げた五条が名前を見下ろす。彼女はあっけらかんと笑ってみせる。


「紙魚のサンプルは今は貴重でね、文献の内容と紙魚が私の目的。まあ、呪霊が大したことなかったら祓うけど、手に負えなかったら文献も紙魚もパァだからさ」
「つまり勝てないとまずいから俺に確実に祓ってもらおうと」
「うん」
「いっそ清々しいなお前。言ってて恥ずかしくねぇの」
「え?全然?」


五条の言い分としてはこうである。仮にも旧家の当主で呪術師である名前が呪霊に勝てないと悪いから、という理由で高専の五条を呼び出して、プライドは無いのか、と。
彼女は全く気にする様子はない。名前の目的は蟲師としての知識欲を満たすことだ。人間の感情が生み出す呪霊と闘うくらいなら、本当は蟲だけを研究していたい。


「まあいいか。とりあえず祓う」
「あ、文献と紙魚は、」
「呪霊だけ祓えばいいんだろ」
「そう!悟ならできるんでしょ?」
「文献はまあ…ただ蟲はよく分かんねぇ」


五条の纏う呪力が膨れ上がる。名前は思わず目を見開いた。

元々、本当に五条の事は知らなかった。当主である以上他の呪術師との付き合いはある。高専には属していないとはいえ、御三家の事くらいは知っていた。しかし詳しい事を知らないのは勿論、興味がないからだった。正直なところ、名前は家系だの御三家だの派閥だの全くどうでもいい。
名前の先祖の蟲師は、蟲との共存を第一に考えていた。呪霊と違い、蟲は人間同様に命を持つものだ。共存が不可能な場合は殺すこともするが、蟲と見ればとにかく駆除するという蟲師の主流とは異なっていた。その考え方に名前も感化された、という訳ではなく、単純に彼女も先祖と同じ考え方を持った人間だ。蟲は動植物よりもっと原始的で、命の源に近い原生物だ。ならばヒトより下位だろうか、その答えは否だ。それにその母数そのものの減少が著しい蟲は、貴重な生ける資料に他ならない。
だから名前は閃光の如く弾けた五条の呪力が落ち着いた途端蔵に飛び込んで、そうして深く安堵した息を漏らした。


「……さっすが現代最強。悟、すごい」
「蟲、大丈夫そ?」
「呪霊だけ、綺麗さっぱりいなくなってる」
「やっぱり俺すげえ」


名前に続いて蔵の中まで入った五条は、はん、と不遜な息を漏らしてぐるりを見渡す。光源のない蔵の中は真っ暗で、表の明かりが差し込んだ入り口付近だけの板目がぼんやり見てとれる程度だ。名前はもっと奥の闇の中にいて、それから五条の方へ向き直る。表情までは読めない。


「悟、扉閉めて」
「暗くねぇの」
「紙魚を見せてあげる」
「蟲なあ…」


名前の声は笑っている。虫が苦手な訳ではないが、さしたる興味もない五条はしかし、彼女のいう通り扉をしっかり閉める。名前をこれ程までに夢中にさせるイキモノといえば、多少興味は湧いた。
がちゃん、と重たい音を立てて堅牢な扉が閉まると、蔵の中は肉眼では何も見えなくなる。蔵には明かり取りの窓はあったが、あいにく今夜は曇りで月もない。五条が呪霊を抹消したため、少し埃っぽい木と紙の匂いに満たされた深い黒だけが静寂の中に満ちている。
かちん、と軽い金属音が鳴って、小さな光が名前の顔を照らし出す。目を伏せた彼女の唇には煙草が咥えられ、それの先端に火を点したライターの明かりだった。コイツも喫煙者かよ、今時の女子高生怖ぇ、と五条は意外な思いでそれを眺める。ふっと火が消える。途端に暗闇はとろりと元に戻り、名前の顔を飲み込む。


「ちゃんと閉めたよね?」
「ん」


念を押した名前がふう、と長い息を吐く。家入のそれとは違い、どこか甘くてくらくらするような香りが鼻をついた。

途端。


「っ、は?」
「わあ、大量ー」


一拍置いて、次の一瞬。閉め切ったはずの蔵の中に一陣の風が吹き抜ける。五条は口と目を開けたまま立ちすくんだ。

真っ暗な中に浮かび上がるいくつもの線。線というよりは帯のような、平たい細い線だ。長さの分からない幾本もの光の線が、風を起こすくらいの速さで蔵の中を縦横無尽に駆け回っている。光は弱々しいものだが、膨大な量の所為で夜の屋内はうすぼんやりと明るくなった。
よくよく見てみれば、それはただの線ではない。全てが文字だった。文字列が発光しながら飛んでいる−−−五条は今まで見たことのない夢のような光景に呼吸を忘れた。

はっと我に返って名前の姿を探す。彼女は変わらず立っていて、幸せそうに笑っていた。


「これが紙魚。文献、だいぶ食われてるねえ」
「この文字は」
「紙魚が食った文献の中身。食われた箇所はまっさらになってるよ」
「はー……」


そこで五条は気付く。勢いよく飛び回っていた文字列が減っている。蔵の壁に貼り付いて、弱々しい光を放ったまま動かなくなっていく。


「死んだの、コレ」
「まっさかあ。壁にね、糊を塗っておいたの。だからくっ付いてるだけ」
「お前いつの間に」
「昼間は出てこないタイプの呪霊で助かったよー」


どこから取り出したやら、名前はいつのまに大きな箱を手にしている。まだ糊に捕まらず飛んでいる紙魚を素手で捕まえては、箱の中に突っ込んでいく。口の部分がよくあるくじ引きの箱のようになっていて、入れるのは簡単だが出るのは難しそうな箱だった。


「この方法も、ご先祖様の記録にあったの。紙魚を飼ってる人がいたんだって」
「飼う……」
「私も飼おうかな、こんなに居るし」
「いや、っていうかこれじゃあ文献全然ダメじゃねぇの」


五条の尤もな指摘に、名前はまた緩やかに口角を上げた。


「戻せば戻るの」
「あ…?」
「だから、これぜーんぶ捕まえて、元の文献に戻すの。貼り直す、みたいな」
「は?」


五条が不可解そうに顔を歪める。名前はまだ笑っている。

蔵に残っていた大量の文献は、そのどれもが墨汁で記されたものだ。陽の光に晒されず温湿度を保たれていた紙そのものの状態は良かったので、文字列となって飛び出てしまった紙魚を再び紙に戻すのだという。


「お前そんなこと出来んの」
「手書きだからね。墨の濃淡や筆跡なんかで、大体は」
「はー…」
「これでしばらく蔵ごもりできるよ」


名前の目的はそこだったのだ。文献は揃っていなければ意味がない。膨大な紙魚を正しい場所に戻す作業は、慣れた人間−−つまり彼女にしかできない。文献全てを読むまで、名前はこの任に就くほかない。


「なんかお前って変わってるよな…」
「悟には言われたくないかなあ」


手伝いたいなら手伝ってもいいよ?
名前が悪戯そうに笑う。五条は勿論、昔の文献に興味はないし読める気もしない。それでもなぜか、もう少しここに残ってもいいかもしれない、と思い始めていた。








色淡く蠢動




「名前お前、紙ばっかなのに煙草吸っていいのかよ」
「あ、これ?蟲除け…っていうか蟲の動きを鈍くする効果があるんだ」
「はーん…」
「でもちょっと副作用があって」
「なんだよ」
「人間がこの煙を嗅ぐと、一緒にいる人に恋しちゃうんだよね」
「……ああ?」
「あれ?悟身に覚えあんの?」
「バッカ、ねぇわ、ないない」
「えー嘘なんだけどー」
「お前さあほんと何なの」
「そんな怒んなくていいじゃん、あ、ほらそこの巻き物取ってよ」
「……」
「え、ちょ、投げないで!」



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