ジ・インフェルノ
△ ▽ △





最初の記憶、ある者は母親の胎内からそれを持つというが、大半は物心つくかつかないか、その辺りが妥当だろう。家族の思い出、衝撃を受けたこと、はたまたどうしてこれがと思うような他愛もないことだったりもする。
私の場合は普通の人たちと少し違う。最初の記憶は赤だ。血の赤ではない。眩ゆい赤い光と、ごおごおと鳴り響く暴風の音。激しくうねる光の帯。いや、光では無く、あれは炎の渦だ。近くで起きたらしいバックドラフトによる破裂音と新しい爆風が肌をチリチリと焼く。熱い。眩しい。熱い。熱い熱い熱い熱い−−−










「やあ、気分は?」
「さっさと殺してくれないかな」
「つれないな、少しくらいお話ししない?」
「……」


軽薄そうな声色、深い青い瞳にぼんやりとした灯りが映りこむ。こんな異質な状況下で相変わらずのんびりとした声を出す男に、私は思わず舌打ちを落とした。

何千、何万と張り巡らされた呪符が四方の壁、床と天井までをも埋め尽くす。少し視線を上げると、太く撚り合わされた麻で作られた注連縄が蜘蛛の巣のように吊り下がっている。小さな四角い部屋の四隅にある行灯のような形の灯りだけが光源で、それがぼんやりとした光を投げている。ここは呪術高専の地下深く、幾重にも張り巡らされた結界で覆われた、堅牢な牢獄だ。
そして私はそこに囚われた咎人で、彼は捕らえている側、つまり高専の人間。決して相容れない、正反対にある男。



「もう一年経つよ。強情っ張りもいい加減にしたら?」
「どうしてまだ殺さないの」


禍々しい小さな箱のような部屋に、不釣り合いな簡素な木製の椅子。それが唯一、普通の家具だ。そして私がそれに座らされ、両の手足を床から伸びる青と黄の組紐できつく結ばれ拘束されたまま、一年が経つらしい。長い手足を折り曲げて目の前にしゃがみ込んだ男の名は五条悟。かの有名な六眼に無下限呪術を併せ持つ現代最強の呪術師だ。



「この結界保つのも、結構維持費掛かるんだよ?」
「ならさっさと殺せばいい」
「二言目、いや一言目には殺せ殺せって、閉じ込められると語彙力無くしちゃうのかな」
「……」


ああ嫌だ嫌だ、と五条悟がわざとらしく頭を振る。軽薄不真面目、人を小馬鹿にしたような態度を、この男は一度たりとも変えたことがない。初めて会った日から、ずっと。



「……そろそろ僕が庇うのも辛くなってきてね。ここらできちんと君と話がしたい」
「話すことなんて無い」
「それは君が決めることじゃないよ、名前」


淡い光にさえきらきらと光って見える白髪の間から、冷え切った青い目玉がぎらりと覗く。前に来た時より前髪が伸びている、とどうでもいいことに気が付いたけれど、もちろん口に出しはしない。



「一年前、君は村と山ひとつを燃やした」
「……」
「記憶はあるね?」
「……さあ」
「村には当時52名の住民と、空き家含め34戸の住宅、13の蔵があった。そしてそれらはすべて消し炭になって、身元はおろか性別も判別できなかった。骨すら残らなかった人も居たみたいだね」


ゆっくりと深い息を吐く。強力な封印の所為で、今の私には呪力を操ることが出来ない。指先がちり、と熱を持ったような感覚も気の所為でしかない。

燃え盛る赤と黄と白の炎は、風を巻き起こしとぐろを巻くように天高く燃え上がった。青い空に形を変えながら広がっていく黒々とした煙、やがて爆ぜた火花の幾らかが、すぐそばの山裾に飛び火する。激しい風に煽られ酸素を送られた火種は、あっという間に山を登り出す。木々の、動植物の悲鳴の代わりに、轟音をたてて燃え盛る。熱気を孕んだ空気に焦げ臭い匂いが強く混じる。



「術式的に炎に見える呪力だと思っていたのは、僕のミスだ。呪力なら僕の力でどうとでもなる。君のは呪力を纏った、本物の炎だった。あれだけの大火だ、まあ大したものだと思うよ」
「あんたも焼け死ねば良かったのにね」
「焼死ってかなり辛いらしいね。僕は絶対に御免だな」
「……」


五条悟がうげ、と顔を歪める。死者を悼む気持ちはないのだろうか。勿論私に言えたことでは無いが、この男には私の行いを咎めるような素振りはない。
人間的に欠落した部類に入るのだろう。五条悟も、私も。


「何故あの日、あの村は消防が着く前に全て燃え尽きたのか。山深い小さな村で街の消防の到着が遅れた所為、じゃないね。理由は簡単君の呪いが燃やしたから。じゃあ、君は何故あの村を燃やしたか、そこが問題だ」
「……理由は簡単」
「うん?」
「特に無い」
「あーなるほどー」


これって一本取られたのかなー、と学生のように笑って見せる男が不意に立ち上がる。長い脚が伸びると、小さな顔が随分遠くなる。こんな狭い箱の中では天井に頭がついてしまうのではないだろうか。もちろんどうでもいいけれど。



「何を呪ったのさ」
「……さあ」
「ソレ、かなり強力だけど、その代わり連続しては使えないんだろ?」
「……」
「僕には視える。封印されていてもね。君の呪力、術式まで全部分かる」
「その眼の所為?」
「そう、なんでもお見通しなのさ」


五条が笑う。私が質問した事で、話しが出来そうだと感じたのだろう。ほとんどまともに話した事はなかったから。


「名前の術式は強力な炎だ。ただでさえ炎はそれそのものが信仰の対象になることもあるくらい強い呪力を帯びている。それを君の激烈な呪力が操るとなると−−−今までも火を使う術師はいたけど、あんなスゴイのは初めて見たよ」
「……そう」
「不死鳥が炎の中で生き返るように、火には再生の意味合いも強い…だからかな、反転術式も大したものだ」
「本当によく分かるのね」
「まあこれは、一年もずっと同じ姿勢なのにぴんぴんしてるとこ見れば誰でも分かるけどさ」
「この再生は私の意思とは関係ない」
「へえ、だから封印下にあっても通常運転なのか」


わざとらしく顎に長い指を添えた五条が感心したように息を吐く。

長らく拘束されたままの身体は、しかし傷一つなく衰弱もしない。呪力を込めなくても、私の身体は常に最善の状態に更新されていくのだ。


「それは生まれつき?」
「……多分ね。怪我が一分以内に治らなかった事はないから」
「なるほど」


それじゃあ、と五条が腰を曲げる。端正な顔がすぐ目の前まで降りてくる。


「じゃあ、君は忌み子だったんじゃない?」


鼻先が触れそうな距離で、確信を持った声が囁いた。


どん、と胸を押されたような衝撃を感じた。五条は手を出していない。数々の結界や封印の所為でも無い。ふ、と息が漏れる。これは古い、しかしそこまで遠くは無い記憶の所為だ。
忌み子だ、災いだ、禍ツ者だ、殺せ、殺せ、殺せ−−−
脳内に溢れる、大人達の声。


「そう、私は忌み子だった」


思わず口元が緩んだ。

あの腑抜けた汚い大人達があげる、聞くに耐えない醜い断末魔を思い返したからだ。


「あの村は」
「……あの村は、呪詛師の村だよ」
「やっぱりそうか」
「長きに渡って、金のため、村のため、人を呪い殺すことで発展した、クソみたいな馬鹿共の集まり」


五条が再び腰を伸ばしてこちらを見下ろす。こちらを値踏みするような冷たい青が刺さる。

私の生まれたあの辺境の村は、呪詛を生業としていた。村長はお飾り、全てを掌握するのはイタコである長老だった。くねくねと変な方向に曲がった長い白髪、皺だらけの手と顔、その奥にぎらぎらした小さな目。呪術を使えない者は一人もいない村だった。才能の無いものは追放されるか、消されるかのどちらかだったからだ。
この広大な世界で、なんだってそんな村に生まれたのか、自分は本当に運がないのだと思う。呪われていると言ってもいいかもしれない。


「でも君の力なら、呪詛師共には貴重だろ」
「……強すぎるモノは、脅威になる」
「やっぱりそっちか」


これはもちろん後から聞いて知ったことだ。一歳になる頃、家の階段から落ちた。烈しく泣く赤子の声に両親が駆け付けてみると、頭から血を流して腕が変な方向に曲がっていた。村には反転術式を他人に施せる人間は居なくて、両親は娘の死を覚悟する。しかし赤子は烈しく泣きながら、突然強い炎に包まれたのだ。不思議な光景だったと言う。全身を覆う炎はしかし、熱さを感じさせなかった。そして炎が収まると、火だるまになったはずの赤子に怪我はひとつも残っていなかった。
驚いた両親は長老に娘を見せる。彼女はまだ一歳に満たない小さな赤子に向かってたった一言言ったのだ。

−−−忌み子だ、と。



「つまり名前は強すぎる力を恐れられ、抑圧されたと」
「抑圧ね。そんな可愛いもんじゃなかったけど」
「…ずっと閉じ込められていたのか」
「いや?数え切れないほど人を殺したよ」


忌み子と見做された子供の未来は暗い。大概は村の者によって呪殺されてしまう。呪殺するのは勿論、転じて呪いになるのを防ぐためだ。私がそうされなかったのは、この強力な再生能力のためだった。子供の内から強大な呪力を持っていた私を、呪殺することは容易では無いとの結論に至ったのだ。
それからの生活といえば、座敷牢に押し込められて呪詛を学ぶだけの日々だった。学校に行ったことなど勿論無い。人を呪い殺す術を叩き込まれ、そうしてある程度大きくなると仕事に駆り出されるようになった。私の術式は火を操る。身体からは勿論、ほとんど呪力を持たない無機物からも発火させられる。勢いを操り、思いのままに延焼させる。火事を起こす、人だけを燃やす、体内だけを燃やすことも可能だ。

数え切れないほどの人間を、建物を、呪いを、私は焼き払い続けた。言われるがまま。そういう生き方しか知らなかったから。



「だけどそれは、君が望んだことじゃない」
「詭弁だね」
「他に道が無かった」
「さすが呪術師は口が上手い」


逃げ出そうと思ったことが無かったわけではない。人を殺すために出た座敷牢の外、村の外は、まるで別世界だった。同い年の女の子達が、楽しそうに笑っている。物と人で溢れた都市部は音と光の洪水で、最初は少し怖かった。

でもそれはすぐに羨望に変わる。私も自由になりたい。好きな服を着て歩きたい。でも私に出来るのは、ただ炎を操って人を殺すことだけ。お前は忌み子だ、殺されないだけ有難いと思え、お前は人間じゃない、忌み子め、価値のないバケモノめ−−−
植え込まれた己の価値が、自由への憧れをことごとく打ち破った。所詮私は生きる価値のない、人を殺すための道具だ。でも、だから。


「じゃあ何故、君はあの日村を焼いた?」
「……さあ」
「じゃあ別の質問にしよう。あの日村が焼けるのを見ながら、君はどう思った?」
「……よく燃えるな、って」
「そうか、すっきりした?」
「それは、」


そう、あの日、私はついに全てから逃げた。焼き払ったのだ。跡形もなく。

座敷牢も、蔑みの目を向ける村人達も、おそらくまだ村の何処かに暮らしていたであろう両親も、長老も、家も、蔵も、地下室ごと。


「……そうだね。もう無くなったと思うと、叫び出したいくらい嬉しいよ」


あの日全てを焼き払った所にやって来たのが五条悟だった。呪力を使い果たした私は、抵抗する間も無く捕縛され、それからずっとこの地下牢にいる。結局牢屋に戻ったのだ、と笑ったが、どうせすぐに殺されるのだし、何より縛るものが全て灰になったことが嬉しかった。元より生きる意味の無かった人間だ、さっさと殺して無くして欲しい。
−−だというのに、待てど暮らせど誰も殺してくれない。


「あのさあ名前、高専に入らない?」
「……は」
「君は死刑だ。人を殺しすぎた」
「……」


話に脈絡が無さすぎる。眉間に皺を寄せて見上げた先で、五条はまた笑って見せた。


「危険過ぎるし、抑えられているうちに殺すしかない。これが上層部の判断だ。でも名前は呪詛師をごっそり始末してくれた。奴らの所為でこれから死ぬはずだった沢山の人間を救いもした」
「はあ?」
「奴らの言いなりだった頃の話は、君に非はない。産まれてからずっと、そうする他ないように仕向けて来たのは呪詛師共だ」
「何言ってんの?」
「ま、そうは言っても名前が大いなる脅威であることには変わらない、ってジジイ共は言うけどね。そこはほら、脅威より更に強い人間が付いてれば無問題じゃない?」
「……頭大丈夫?」


あの村は元々高専から目を付けられていて、あの日五条が来たのも偶然ではなかった。それはこの男から聞いて知っている。ではもしあの日、私が燃やす前に五条が着いていたら。あんな奴らで五条には到底太刀打ち出来なかっただろう。だから根こそぎ捕らえられて、私は人も村も山も燃やさなかったかもしれない。その時一緒に捕らえられても、なんとか弁解できたかもしれない。でも、だけど。

それでも私は、五条が着く前に燃やしておいてよかった、と心から思うのだ。


「私はまともな人間じゃない」
「呪術師はイカれてなきゃできないでしょ」
「人殺しを躊躇ったりもしない」
「じゃあ呪霊を祓うのも躊躇わない。いいね」
「……」
「僕はさ、未来ある優秀な術師をジジイ共の保身のためにみすみす殺したくないわけ。分かる?」


分かるか。言葉は出なかった。


「名前、君が求めるなら、僕がサポートするよ」
「……今更そんなの、」
「まあね、これが通せるのは、どこ探しても僕だけだろうね」
「褒めてない」
「死ぬ気だったんだろ?呪術師やってりゃ、結局待ってるのは地獄だ。早いか遅いかの違いだよ」
「……」
「憧れとかないの?高専生活。やることは呪術師だけど、同期生達と高め合い、それなりに青春もできる」


刹那私の中を巡ったのは、蓋をしたはずの感情だった。
街を歩く同世代の女の子達。綺麗な髪、きらきらした笑顔、友達と楽しそうに話して−−−


「……なるほど。案外名前も可愛いとこあるね」
「は、」
「年齢的には…三年生くらいなのかな?まあ学校も行ってないし、一年からでいいよね。制服はどんなのがいい?うちの学校結構融通効くからさあ、希望があれば言ったもん勝ちだよ」
「誰も行くなんて、」
「名前」


碧が私を貫いた。

燃え続ける炎の中を一条、光のように。


「私は、」
「うん?言ってごらん、ほら」


全てを燃やし尽くした私に待つのは死だけだった。それで良かった。何もかも終わりにしたかった。それなのに私は今、一本延びる青い炎に手を伸ばそうとしている。





ジ・インフェルノ
そこは地獄か天国か




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