メロウドロー
△ ▽ △




「うっ、わびびった名前かよ」
「……悟か」


寮の談話室に真っ黒なかたまりを見つけて、五条は二度見して立ち止まった。よく見れば真っ黒なのは高専の制服で、その主は膝を抱えて頭をがくんと落としその上から制服を被っている、という異様な状態である。制服の隙間から覗く髪の色や畳んだ足の前で組まれた白い指から測るまでもなく、慣れた呪力は同期生のそれであった。


「何してんの」
「振られた」
「あ?あー……」


五条の声にのそりと顔を上げた名前の目は赤く、心なしか頬も赤い。泣いていたのだろう、鼻水混じりの声はどこか拗ねたような色を乗せている。


「こないだ一緒に映画行った奴?」
「……ほかに好きな子が出来たって」


自分で言いながら身を切られるような悲しみを湛えた顔で、名前が唇を引き結ぶ。五条はがしがしと頭を掻いて、それから彼女の隣に腰掛けた。年季の入った談話室のベンチソファーがぎしりと軋んだ。

彼女は女子高生を謳歌する、という呪術師にはややハードルの高い夢を抱いている。つい先日はクラスメイトと海に行く、花火をする、肝試しをする、という彼女の希望を叶えてやるべく、五条はじめ夏油と家入も付き合ってやったのだ。
呪術師が辿る運命はほとんどが悲惨なものだ。命があっても四肢も内臓も健康無事なまま人生を謳歌できる者はなかなか居ない。名前はもちろん、三人もそれをよく分かっているからこそ、馬鹿で可愛い同期生のために思い出作りに付き合っている。
そんな名前に彼氏が出来たのは三ヶ月前のことだった。好きなアーティストのライブに行った帰り、声を掛けてきた男は彼女のひとつ上、高校三年生だった。アーティストの話で盛り上がり、すぐに二人は付き合い始めた。映画を観たりカフェに行ったり、名前は年相応の恋人同士の付き合いにすっかり舞い上がっていた。

はずだったのだが。



「まあなんか…早かったな」
「何が悪かったんだろ…」
「喧嘩とか」
「してない、けど、」
「けど?」
「この前のデートの時、ホテル連れていかれそうになって」
「……は」
「嫌がった、から、かな」


五条は思わず目を見開いて隣の名前を凝視する。そんな話は初耳だった。彼女は五条の驚きには気づかず、目に涙を溜めたまま俯いている。

高校生なら初体験を済ませていてもまあおかしくはないだろう。それでも名前はまだそんなつもりはなかったらしい。男にしてみれば残念だったかもしれないが、そのくらいで別れるような奴なら別れて正解だ、と五条は一人静かに憤慨する。


「お前がしたくなかったんなら、しなくて良かったんじゃねぇの」
「……でも、着いていってたら、振られなかったのかなって、」
「そんな男でいいのかよお前」
「だって……」


五条の頭を過ったのは、夏油の言葉だった。名前は恋に恋してる感じがあるから、少し心配だな、と。ああまあね、と家入も同意していた。彼女が好きなのはその男ではなく、恋人がいる楽しい生活の方。それはまあ、五条も概ね同感だった。


「お前を大事に出来ない奴なんか、こっちから願い下げだろ」
「……でも」
「彼氏なんかいくらでも作ればいいだろ。お前顔は悪くねぇんだから」
「それ慰めてるの?」


ここで名前の視線がようやく上がる。濡れたままの丸い瞳が、五条の碧眼とかち合った。


「慰めてるって言うか、気にすんなよ。そいつの目が腐ってたって話」
「腐って」
「そ。次行けよ次」
「……ん」


泣き腫らした名前の目は涙の膜できらきら艶めいて見えた。
彼女は呪術師としての実力はあるが、術師にしては珍しく純粋で根明で、ちょっと抜けている。けれどそんな名前がいると場が明るくなるし、だから三人の同期生達は彼女を大切にしていた。夏油と家入はほとんど保護者だし、五条は揶揄いながらもフォローしてやる兄のような立ち位置である。
そんな名前を泣かせる男のことだ、本当なら今すぐにでもぶん殴りに行きたいところである。



「優しいね、悟。珍し」
「一言余計なんだよ」
「次か…また彼氏、できるかな」
「お前さ、彼氏じゃなくて好きな奴見つけろよ」
「……同じじゃん」
「いや違くてさ、恋人ごっこじゃなくて、好きな男」


つまり恋に恋するのではなく、心から好きな相手に出会えるといいな、という意味を込めて言ったのだけれど。名前はあまり分かっていなさそうに、五条の顔を至近距離から見上げている。


「まあ、がんばる。はやく忘れなきゃね」
「おう。男なんかいくらでもいるだろ」
「はー、自信ないな…」
「いるっつーの」

俺とか。不意に脳裏を掠めたそんなせりふを、五条は慌てて飲み下した。

何を言おうとしてるんだ。これじゃまるで自分が彼女を好きみたいではないか。
一人密かな感情の起伏に翻弄される五条の心の裡など知らない名前が、まだ潤んだ瞳のままで柔らかく微笑んだ。


「ありがとう悟」
「……おう」


名前はいつも笑っているけれど、泣き虫でもある。だから泣き顔も何度も見ているのだが、五条の心臓はいやに跳ねた。


「悟って案外、優しいよね」
「はあ?いつも優しいだろ」
「ふふ、はいはい」
「なんかむかつく」


涙の跡を残した頬を五条の視線が辿る。それから緩やかに口角を上げた、瑞々しい唇へたどり着く。


「名前」
「ん?」


五条の視線はそこに釘付けになったままだった。無意識のうちに手のひらが上がって、隣に座る名前の肩に乗る。すこし身体を捻って、吸い寄せられるようにその唇に向かう。あと少しで、甘そうなそれに届く−−−


「ちょっ、悟、なに」
「………なんだよこれ」
「え、私の手」
「いやそうじゃなくて」


あとほんの少しで触れ合いそうだった二人の唇は、名前の手によって遮断された。名前の手のひらに口付けた五条が、分かりやすく不服そうな顔をする。


「なにすんの」
「いや、キスだけど」
「なんで」
「なんかそういう雰囲気だったろ」
「どこら辺が」
「つうかしたかったから」
「なんで…」


名前は手の甲で口元を覆ったまま目を瞬かせる。五条の脈絡のない行動が全く理解できなかった。
対する五条は未だ彼女の薄い肩に置いたままの手に力を込める。二人の顔が再び至近距離まで近づいた。


「名前」
「えっやだ、しないよ」
「なんで」
「なんでって、」


尚も彼女の唇を目指そうとする五条に、名前はいよいよ慌てたように身を引く。


「悟は彼氏じゃないもん」
「………あっそ」


ようやく解放された肩を自分の腕で抱きながら、名前は不思議そうに五条を眺めた。そこに浮かぶのが警戒心や嫌悪ではなく、純粋に不思議がっているだけなのを見て、五条は据わりの悪い感情を持て余す。

なんだか今、無性に彼女とキスしたかった。五条は女を知らない純粋さはもう持っていないし、それこそキスどころかすぐ抱ける女なら掃いて捨てるほど居る。それでも今、五条は世界でただ一人、名前だけを欲していた。初めての感覚にやや戸惑いながら、座り直して名前を見る。キスされそうになっておきながら、悟大丈夫?と眉を下げているのだから敵わない。



「あ、名前」
「あれ?何やってんの二人して」
「傑!硝子ぉ!振られた!!!」
「まじか」
「聞いて!」


そこにふらっと現れたのは任務を終えた夏油と家入で、名前はまた涙声になって大声を張り上げる。うるせぇよ、と耳を押さえながら、五条も手伝って二人にさっきと同じ話をする。


「………ほう」
「そういえばその男、学校どこだっけ?」


ぎらりと光を宿した家入の目が、同じく鋭い視線の夏油と交わる。その後長身の男二人と咥え煙草の女によって名前の元彼がきっちり報復を受けた事を、彼女はついぞ知らないままだった。


















そんな昔の話を思い出したのは、再会を果たした旧友が呪詛師の親玉として最期を迎えた夜だからだ。五条は誰もいなくなったそこにしゃがみ込んで、そうして頭を垂れて深い息を吐き出した。
いつかこうなると思っていた。こうしなくちゃならない事も、ずっと分かっていた。最後に夏油がもたれていた壁に同じようにもたれかかって、真っ暗な夜空を見上げる。乾いた血の跡が残るそこは、つい数時間前夏油がこと切れたその場所だ。頭の中は楽しかったあの日々が巡っている。溢れ出してこぼれ落ちて、いっそ消えてなくなればいいのに。


「……やっぱりここにいた」
「…名前」


夏油との思い出ばかりが散らかった静謐な夜闇に落ちたのは、先程新宿から戻った名前の声だった。
ゆるりと顔を上げた五条の隣に、彼女も同じようにしゃがみ込む。


「服汚れるよ」
「悟こそ」


名前が少し動いて、二人の腕が触れ合う。年の瀬近い冷たい空気の中で、触れた場所だけがほのかに温かい。


「懐かしいね。昔ここら辺でかくれんぼしたよね」
「したっけ」
「悟が鬼やるとその眼ですぐばれちゃってさあ」
「あー、名前が一人も見つけられなかったやつか」
「硝子も悟も全然範囲守ってくんないんだもん。傑だけだったよちゃんと隠れてたの」
「でも見つけられなかったくせに」


名前の笑う息が白く染まる。


「硝子は自由だし悟は勝手だし、傑がいないとまとまらなかったよね」
「名前はお子ちゃまだもんね」
「悟には言われたくないかなあ」


離れていた時間の方が、四人で過ごした時間より長かったはずなのに。色褪せない思い出がほとばしって、だけど一人きりの時より気分はましだった。
軽い調子でわらう名前とは、さっき既に霊安室で会っていた。五条と名前、家入、そして夏油。最後に四人揃ったのが暗くて寒い霊安室の中で、誰も何も言わなかった。だから彼女が今、本当は無理して笑っている事は分かっていた。


「……楽しかったな、あの頃」
「傑も硝子も、私のわがままに沢山付き合ってくれたもんね」
「僕もだろ」
「悟はなんだかんだで私と同じくらい楽しんでたでしょ」
「はあー?僕だって名前のために付き合ってたんですけどー」
「はいはいありがとうございましたー」


名前は高専卒業後、高専所属の呪術師になった。仕事の合間に夏油の情報を探り、危険だから止めろと五条と家入に何度も怒られた。新宿の百鬼夜行収束のために駆け回った身体は疲れている。それでもこの場所を訪れないわけにはいかなかった。


「……傑、幸せだったかな」
「幸せな奴は人殺しなんかしないだろ」
「んん、それもそうか」
「でもあの頃は、」
「……」
「それなりに幸せそうに見えたよな」
「……うん」


何が正しくて、どこで間違ったのか。どうすれば、こんな悲しい結末を迎えずに済んだのか。
考えても仕方のないことが、ずっと五条の頭の中を巡っている。

不意に腕が寒くなった。触れ合ったままだった名前の腕が離れたからだ。壁につけていた背を起こした彼女が、ざり、と地面に手のひらをつく。反射的に顔を上げた五条の唇に、音もなく名前の唇が吸い寄せられる。


「………なに、してんの」
「なにって、キスだけど」


一瞬触れ合って離れた名前が、けろりと言い放つ。五条は目を見開いたまま、触れ合った唇が熱を持ち始めたことに気付く。


「なんで、」
「…べつに。そういう雰囲気かなあって」
「絶対ぇ違うだろ……」
「そ?悟の真似だけど」


飄々と言ってのける彼女は、もうあの頃の馬鹿で可愛い女の子ではない。酸いも甘いも知った、艶やかな大人の女だ。

あの日五条はキス出来なかった。夏油と家入がやって来た所為だし、名前が拒んだ所為だ。その後彼女はまるでそんな事無かったかのようにいつも通りだったし、五条も気の迷いだったのだと自分に言い聞かせた。−−つい名前を目で追ってしまっている自分には気付かないふりをして。
彼女はあれからまた何度か短い恋愛を繰り返したけれど、もう何年も恋人ができたという話は聞いていない。それは名前が恋に恋する子どもじみた憧れから脱却したからで、五条はずっと変わらず彼女の友人であり続けた。名前を大切に思う気持ちは勿論あったけれど、夏油のように失ってしまうのが怖かった。ずっと変わらずそこにいて欲しいと思ったが最後、関係を壊すような賭けには出られなかったのだ。


「名前、僕のこと好きなの」
「悟も、傑も、硝子も、大好きだよ」
「……そういうことじゃなくてさあ」
「もう誰も、」

失いたくないな。

名前の声が少し震えたような気がした。


「……なあ」
「うん?」


今度は動いたのは五条の方だった。あの日のように名前の肩を掴んで、その唇に己のそれを押し付ける。温かくて柔らかくて、ほんの少し濡れていた。
名前が息を飲んだのが分かった。だけど今度は彼女の手のひらは邪魔しない。おずおずと上がった名前の手は、五条の袖を摘むように掴んだ。ねだるような仕草に、五条は頭の中が沸騰したように熱くなった。押し付けていた唇を少し開いて、名前の唇を舐める。誘われるように開いたそこへ舌を侵入させて、二人は夢中で口付ける。


「……っ、は、ぁ」
「……名前」


漏れた吐息すら惜しくて、五条は何度も角度を変えて口付け続ける。冷たい冬の空気すら感じなくなって、静か過ぎる夜の中でただひたすら彼女だけを求め続ける。


「さと、る」
「…ん、」


少し息の上がった名前が、とろんとした眼で見上げていた。肩を掴む手に力が入る。感情のまま抱き締めると、冷えた髪が頬をくすぐった。


「名前、俺はいなくならない、から」
「……うん」
「ずっといて、俺の側に」
「……いるよ、悟のそばに」


一人称が昔に戻ったのは、さっきまで頭の中を占めていた在りし日の思い出たちの所為で、今は他の事など考えられないくらい夢中で口付けた名前の所為だった。
彼女の腕が五条の頭を抱きしめるように伸びて、ゆっくりと髪を撫でていく。


「じゃあ、僕と付き合う?」
「今ここでする話じゃないね」
「何を今更」
「それもそうか」


親友のいなくなった世界は、夜の所為だけでなく色を失っている。二人とも同じだった。


「悟」
「ん」
「大好きだよ」
「……うん、僕も大好き」


子供みたいに拙い言葉で伝え合って、強く抱きしめ合って。星のない夜に二人分の小さな息が落ちた。

止まっていた時が流れ出すかのように、二人の時計が動き始める。談話室のソファーの上で感じた甘やかな感覚を温め直すように、心に空いた穴を互いで埋め合うように。五条も名前も本当は分かっているのだ。親友を失った悲しみも、止められなかった歯痒さも、決して埋まらないことを。





メロウドロー
悲しみから始まる恋の行方を、
今はまだ誰も知らない。





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