滅べよ世界
△ ▽ △




運命なんてもんがもしあるのなら、神様なんてもんがもしいるのなら、どっちもクソ喰らえだとしか思わないけど。










「五条、早かったね」
「ん、まあね」


駅前に20時。待ち合わせは大抵ここだ。時間はまちまちだけど、名前はいつも時間より少し早くここに居る。


「仕事早く終わったの?」
「僕にかかれば大抵はね。でもさあ、だからって最近詰め込み過ぎなんだよね。人をなんだと思ってんだって感じ」
「相変わらず大変だねえ」
「後進を育てたいって散々言ってるのにさ、嫌味くらい突っ込んでくんのマジで嫌がらせ」


並んで歩くスピードは同じだ。身長が全然違うから歩幅ももちろん違う訳だけど、僕たちの速さは昔から同じ。元々同じな訳じゃなくて、長い間ずっとこうして隣を歩いて来たからだ。お互いに二人で歩く時のベストが染み付いている。


「名前は相変わらず?」
「うん、相変わらず退屈」
「そ」
「だから待ち合わせも早く着いちゃった」
「待ちきれなかった?」


歩きながら少し屈んで名前の顔を覗き込めば、バカ、と綻ぶ唇が街灯の明かりを受けて艶めく。

いつも通り並んで歩いて、示し合わせないまま同時に角を曲がる。向かう先がいつも通りだから当然だけど、そんな些細なことに知らず口元が緩む。
穏やかで明るい、けれど豪奢なエントランスに入る。重厚なドアを開けたのはベルボーイだ。計算され尽くした美しい所作でお辞儀をしたままの男の横を、僕たちはスピードを変えずに通り過ぎる。チェックインは必要ない。行き先は僕が年単位で借り上げている上階の部屋だからだ。カードキーは二枚。もちろん、僕と名前が持っている。

エレベーターの前で偶然出くわしたのはこの豪奢なホテルの支配人だった。五条様、お帰りなさいませ、と慇懃に頭を下げる。それに片手をあげて返して、エレベーターに乗る。あの男は僕たちをどんな関係だと思っているんだろう。恋人同士に見えるだろうか。ドアが閉じ切るまで、そんな事を考えながら支配人のつむじを眺めた。


「今日は遅くなってもいいの?」
「うん、私は大丈夫だけど、五条は明日も早いんじゃないの」


二人きりのエレベーターが音もなく上昇していく。天井のきらきらした灯りに照らされて、こちらを見上げる名前の瞳がやけに潤んで見えた。


「名前で呼んでよ、もういいでしょ」
「……まだエレベーターだけど」
「知ったこっちゃないね」
「五条、」

往生際の悪い唇を、小さな頭を掴んで思い切り奪ってやる。触れた途端に身体の奥が熱くなるような感覚がする。


「…っ、バカ」
「誰が?」
「……さとる」
「よく出来ました」

我ながら意地の悪い笑い顔だと思う。だけど一度触れたら最後、どうしようもなく彼女が欲しくてたまらない。






「……っ、さ、とる、待っ、」
「またなーい」


カードキーで開けた重いドアが閉まり切る前に、薄い肩を捕まえて首筋に吸い付いた。エレベーターからいつものこの部屋までの短い廊下を歩く間だけでも、我慢した僕を褒めて欲しいくらいだ。
自動で点いた柔らかな照明に照らされた名前の首筋が濡れて光る。肚の底からどうしようもなく熱が湧き上がって疼く。全部彼女の所為だ。僕は悪くない。


「ちょっ、と、」
「会いたかったよ、名前」


思い切り抱き締めて呟いた声が、自分のものとは思えないほど切ない熱を孕んで彼女の髪の中に消えていった。



「名前、」
「…うん」
「名前、名前」
「うん、ここに居るよ、悟」


彼女の声がすこし震えて、もう何もかもどうでも良くなって、僕と彼女以外みんな滅んでしまえばいいと思って。抱き締めたついでに抱き上げて、隠れ家の奥へ足早に急いだ。













「大丈夫?息してる?」
「……してる、ギリ」
「ギリかよ。水飲む?」
「のむ…」


大きなベッドの上で、真白いシーツに埋もれた名前が肩で息をしながらカサついた声で呟くのを見てすこし笑った。

ミネラルウォーターのボトルを取ってベッドに戻ると、名前が緩慢に動いて半身を起こす。くるまっていたシーツを胸のあたりで抑えたまま、少しとろんとした目をこする。幼いその仕草が愛おしくて、笑みを堪えきれずにベッドに乗り上げる。高級ホテルのベッドは僕が思い切り乗ったところで軋むことはない。



「ほら、ゆっくり飲んで」
「ん、ありがと」


蓋を開けたペットボトルを手渡すと、ごくごくと喉を鳴らして水を飲む。随分無理をさせた自覚はあるので、僅かに居た堪れなくなる。
ぷは、と息を吐いて喉がいくらか楽になったのか、髪を撫で付けながらボトルを返すために名前が腕を伸ばす。うん、可愛い。



「大丈夫?」
「心配するなら手加減してよ」
「名前が悪い」
「悪くないですー」


剥き出しの白い肩を抱き寄せて、まだ少し乱れたままの髪に鼻を埋める。僕の香りが移った気がしてすこしにやけてしまう。

部屋に入ってからもう随分時間が経っていた。体感で言うとまだ一時間くらいなんだけど。



「名前がエロすぎるんだよ」
「悟だって」
「なに、僕がエロすぎるって?」
「そう、度が過ぎてる」


額を押し付けて息のかかる至近距離で笑い合って、肩を抱いていた手のひらを腕や首筋に滑らせる。さっきまで散々触っていた身体なのに、幾らでも触れていられるし幾ら触れても足りない気がする。


「大好きだよ、名前」
「うん、ありがとう」


裸のままで抱き合って、このまま世界が終わればいいのにと思う。僕たちのこの幸せな部屋だけを残して、他の全部が滅んでしまえばいい。


「悟」
「ん」
「もっと」
「……やっぱりエロすぎるのは名前じゃん」


大きな窓の下に広がる贅沢な東京の夜景も、彼女の前ではただのゴミゴミした雑踏だ。名前以外、なんの価値もない。



僕たちは、恋人同士ではない。出会ったのは高専に入学した時で、名前はひとつ上のセンパイだった。それからもう軽く十年は経ってしまった。だから付き合いは随分長くなるけれど、彼女と恋人同士だったことは一度もない。


「さ、とる、っ」
「名前…っ」


名前で呼んでくれるのは二人きりの、この部屋の中でだけ。ここを出れば、僕たちは元通りに戻る。僕は特級呪術師で高専の教師、そして名前は、僕ではない男の妻だ。


「悟…っ」
「好きだよ、名前、名前…っ」


名前は僕と出会った時にはもう婚約者がいた。最初から何となく気が合うとは思っていたけど、彼女に惹かれて恋に落ちるまではあっという間だった。名前さあ、俺と付き合ってよ。そんな僕に、彼女はすこし困ったように笑ったのだ。ありがとう五条君、でも私、もう決まってる人がいるから。別に何とも思わなかった。負ける気がしなかったからだ。僕は誰にも、何にも劣らない。見た目も、呪力も、家柄も経済力も。だからいくら名前に心に決めた人がいたところで、そいつより自分を好きにさせるのなんて時間の問題だと思っていた。


「あ、や、待っ、」
「待たない」
「さとる、」
「うん」


まあ結論から言えば、僕は子供だった。そして名前は、ほとんど同じ歳にも関わらず、色んな事を我慢して押し込めて飲み込んだ大人だったのだと思う。心に決めた人がいるのではなく、あらかじめ決まった婚約者がいたのだ。それはもちろん名前が選んだのではなく、彼女の家が決めた婚約者だった。そもそも選ぶ道すら無かったのだ。


「好きだよ」
「うん、…っあ、」
「名前、が、っ」
「ん…っ」


五条家の影響力をもってすれば、無理矢理名前を婚約者から引き離して、僕のものにすることは出来たのだと思う。でもそうしなかった。彼女が拒んだからだ。名前の家は、彼女の結婚無くして存続出来なかった。だから僕は全ての責任を負って援助すると言った。そして名前はそれを断った。本当に頑固な女で、だけど心底好きだった。


「……っさとる、」
「ん、」
「す、き、」
「……っ、ああもう、」


名前の身体に力が入るのを自分の肌で感じる。煮詰められた過ぎた快感に眉根を寄せるその顔を、もっとたくさん見たい。

名前と肌を重ねるようになって、やはり十年ほど経つ。途中何年か間が空いたのは、彼女が結婚して術師を辞めた頃のことだ。名前は優秀な呪術師で、頭が切れるからみんなに頼りにされていた。婚約さえなければ、今も僕と同じように呪霊相手に飛び回っていたはずだ。築き上げた経験も、たくさん出来た人脈も、慕ってくれた友人や後輩たちも、彼女は全部すっぱりと捨てて家庭に入った。その呪力がしかし今も決して変わらずあの頃のままであることは、僕が見れば一目瞭然だ。


「名前…っ」
「ん、さと、る、っ」


言葉を無くしてただひたすらに互いを呼び合って、ぎゅっと力の入った身体がゆっくり弛緩するまで、僕は名前の顔から目を離さなかった。















「今日は何してたの」
「今日?んー、掃除して、洗濯して、料理して?」
「いい奥さんだね」
「食べてくれる人はいないけどね」


ぐったりするまで抱き潰して少しだけ眠った彼女を風呂に入れて、僕たちはリビングルームのソファに並んで座った。十人くらいは余裕で座れそうなL字型のソファに、わざわざくっ付いて腰掛けている。バスローブ姿の名前の髪を手櫛で梳かしながら、同じローブの僕は絶えず彼女の身体に触れている。もちろんいやらしい触り方じゃなく、愛おしむように。一秒だって離れていたくないのだ。


「……旦那、帰ってないの」
「そうだねえ」
「どのくらい?」
「今回はまだ一週間てとこかな。今日帰って来てたら笑えるね」


名前が結婚した相手は、五条家ほどではないが禪院系の大家の次男だ。一応呪術師だから僕も知ってはいる。そして二人の間に愛はない。初めから今までずっとだ。旦那は旦那で他に女がいて、今ではほとんど家にも寄り付かないらしい。名前はタワマンの中腹あたりのファミリー向けの間取りのその部屋に、だからずっと一人で暮らしているようなものだ。

名前が手料理作って待つ家に帰らない旦那を、僕が本気で呪い殺そうと思ったことは一度や二度ではない。しかし彼女は眉を下げて笑うのだ。あの人も私と同じで、自由に生きることを許されなかった可哀想な人だから、と。



「僕のお嫁さんになればいいんだ」
「ありがとう」
「…ねえ僕、まだ本気だよ」
「じゃあ、来世ではお嫁さんにしてくれる?」


そんなのはごめんだ、と言葉にする代わりに、僕はまた名前を抱き締める。輪廻転生、命を終えて、巡って、またこの世に生を受けて、なんてそんな長いこと、僕は名前と離れているつもりはない。今世だってあの世でだって、本当は片時も離れたくはないのに。



「悟さ、」
「うん?」
「もういい歳なんだから、結婚とかちゃんと考えた方がいいんじゃない?」
「……そんなつもりないね」
「五条家当主が一生独身じゃ色々困るでしょ」
「僕は名前以外とは結婚しない。死んでも嫌」
「それじゃ私が心配になっちゃうよ」


抱き締めていた腕を緩めて、視線を合わせる。もう百万回はした話だ。この話は僕が嫌がるのを分かっていて、それでも名前はそう言う。まるで身を切られるかのような苦しそうな感情を押し込めて、微笑んで僕に結婚を勧めるのだ。僕の返事は百万回聞かれても同じだけれど、そう言った後で見せる表情は年々苦しさを増しているように思える。


「じゃあ僕のものになって」
「私は悟のものだよ」
「分かってるけど、もっと欲しい。旦那と別れて、僕と結婚して、二人だけの家に住んで、名前の作った料理食べて、いっぱいセックスして、子供も作って、」
「悟」
「……僕はさ、本当は、本当に、名前以外はどうでもいいんだ」
「私だって、悟が居れば、なにも、」


そこで彼女は口をつぐむ。きっと本心は、僕と同じなのだと思う。二人以外全て滅んでも、一緒に居られるならその道を選んでくれるだろう。でも彼女には実家があり、まだ学生の弟がいる。名前の婚姻が解消されて家の存続が危ぶまれることになれば、皺寄せがいくのは彼女の家族達だ。世界はそんなに都合よく滅んでくれないことを、僕らはちゃんと知っている。


「旦那と最後にセックスしたの、いつ?」
「い、きなり、何」
「いいから、いつ?」
「…もう一年以上、前だと思うけど」
「じゃあもうアイツに肌見せることもないかなあ」
「だから何、急に」
「バレそうにないし、タトゥーでもいれちゃおうかなって」
「タトゥー」
「そう、刺青」
「刺青」
「僕の名前とかどう?」
「…何言ってんの、ばか」


名前は笑ったけれど、割といいアイデアだなと思う。僕の名前じゃなくてもいい。おそろいで彫るのもありかもしれない。名前の左手に嵌っている忌々しい結婚指輪なんかより、もっと確実で消えない証。そうだ、


「左手の薬指に」
「……ばか」
「普段は指輪で隠れるくらいのやつだよ」
「嫌だよ、痛いもん」
「僕とおそろいにしてさ、呪い合うの」
「どこから思いついてくるの、そんなの」
「だって僕天才じゃん?」
「はいはい」


いつか名前がその指輪を手放す時が来たら、たとえ来なかったとしても、傷になった僕と名前の誓いは一番近い場所に在り続ける。ほら、悪くない。
呪力を込めて彫れば、それは魂に刻まれる立派な呪いになる。生まれ変わってもずっと引き合う魂の呪いがあれば、もしかすると今世くらいは我慢できるのかもしれない、なんて。


「悟は、私に縛られなくていいんだよ」
「僕は名前に縛られたいんだよ」


そう、家も派閥も何も無く、ただたった一人の名前という人間を。


「僕の魂は名前の物だ」
「悟…」


愛ほど歪んだ呪いは無い。それは他のすべてのものを超越して、常識も理性も捻じ曲げて、一途に結び続けるものだ。

名前の旦那は滅多に家に帰らないのだから、名前もまた好きにしたってバレやしない。僕の家に連れ込んで軟禁しても、しばらくはきっとバレないだろう。だけど僕たちが行くのはこのホテルの部屋だけで、誕生日やなんかに時々個室の店で食事するくらいだ。それは一応彼女が人妻で、禪院系の家の嫁に五条悟が手を出している面倒な事実を隠すため。だけど本当はいつでもどこでも名前と手を繋いで歩いて、好きな場所で好きに過ごしたい。この子は僕のものだと見せびらかしてやりたい。だからささやかながら現状への抵抗として、待ち合わせはこの部屋では無く駅前なのだ。
−−とはいえ隠すのは一応のポーズで、近しい人間達は僕らの仲を知っている。恐らくは、名前の旦那も、だ。

本当にどうかしている。名前だけの夫婦も、不貞を隠している振りをするのも馬鹿げてる。見ている者など一人もいないのに、必死で言い訳してるみたいな間抜けな現状だ。分かっている。



「来世かあ、待てるかな僕」
「待たなくていいよ。どこにいても探しあてるから」
「…名前って時々男前だよね」
「それはどうも」


筋肉の少ない、呪術師ではなくただの女になった名前の身体は薄い。けれど柔らかくて、僕だけが触れることを許されている。そう思っていないとどうにかなりそうだった。

ああ、本当に、



滅べよ世界




back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -