まぼろし
△ ▽ △




目を開けると、私は野原に寝ていた。頬をくすぐる背の低い若草が、柔く吹き抜ける風に揺れている。半身を起こして座ると、見渡す限りの野原だ。すぐ傍に小さな小川があり、きらきらと輝く水面が絶えず流れ続けている。穏やかで静かな春の風景がそこにあった。

−−−ここ何処だっけ。なんかすごく懐かしい気がする。私、



「名前」


記憶を辿る前に、不意に降って来た声に視線を向けた。


「……七海」
「ああ、久しぶりだな」


珍しく今日の七海はサングラスを掛けていない。いつも決まっている前髪から流れた一条が、そよぐ風に揺れた。柔らかく笑う七海に、私もつられて笑う。


「少し歩かないか」
「あ、うん」

七海が差し出した手のひらを取る。大きくて骨張った手がぐいと身体を引き揚げる。


「最近どう?」
「まあまあだ」
「そっか。私もそんな感じ」
「名前はいつもそうだな」
「あはは、そうだね」
「変わらないのはいいことだ」
「物は言いようだね?」


背の高い七海がこちらを見下ろしてわらう。
七海は私のひとつ後輩で、昔から冷静で真面目な奴だった。だけど根は優しくて、思いやりの深い男だと私は知っている。


「ああそうだ、こないだ硝子とカフェに行ったの」
「珍しいな、家入さんとカフェ?」
「確かにそうなんだけどさ、うさぎカフェでね」
「うさぎ」
「めちゃくちゃ可愛かったよ、うさぎ」
「……名前は少し似ているかもな」
「ええ、ほんと?」
「君が好物を食べる時は、うさぎに似ている」


私の好物はクリームパンだ。何かと食べている自覚はある。七海もパンが好きだから、美味しいパン屋を見つけると互いに買って帰って来たりして。
でもそんなにうさぎみたいだろうか。


「あの立川のパン屋、美味かったな」
「ああ!あそこね」
「全粒粉のものも美味かった」
「また行こうよ、今度の休みにさ」
「……そうだな」


七海の瞳がこちらを見下ろしている。優しい目だ。私は昔からこれが好きだった。
歩く速さはとてもゆっくりで、背の低い柔草から青い香りが鼻をくすぐる。


「……なあ、名前」
「んー」
「私達の人生とは、なんだろうな」
「なーに、急に」
「別に。ただなんとなく思っただけだ」
「……毎日命賭けて呪霊の相手して、でも大して感謝もされなくて?」
「感謝されるためにやってるわけでもないだろ」
「まあね」
「大切な人間を失って、自分自身を危険に晒してまで」
「そう、そうだね」
「……死ぬのは怖いか?」
「あんまり怖くないかな」
「私は、君が死ぬのが怖いよ」


七海がそんなことを言うのは珍しい。いつも合理的で冷静だから。


「私が死んだら、悲しい?」
「……あまり意地悪を言うなよ」


だから少し悪戯心が湧いてそんな事を言った。七海はふ、と口端を上げる。ああ、これは私の好きな顔だ。


「まあ、名前は殺しても死ななそうではある」
「そんな悟みたいな…」
「ある意味五条さんより死ななそうだ」
「え、どーいう意味」


じろりと横目で睨んでみても、七海の涼しげな目元は穏やかに笑んだままだった。

−−−こんな風にゆっくり話すのは随分久しぶりだ。最近は互いに忙しくて、高専で出くわしても短い会話を交わすくらいだった。
七海と私は恋人同士だった。もう10年近くも前のことだ。1年と少し付き合って、七海が高専を卒業して呪術師を辞めたのを機に別れた。お互いその方が良いだろうと、話し合いの末だった。裏切りや喧嘩があった訳ではない。互いの未来を考えての選択だった。その後何年か経って七海が復帰してから今まで、私達は良き友人関係を続けている。

だからそう言えば、手を繋ぐのなんて何年振りだろう。自然と繋がれたまま歩く速度に合わせて揺れる結び目を、なんの気無しに眺めた。


「君が生きている事は、私にとって何よりの救いだ」
「どうしたの七海、おじいちゃんみたいな事言って」


すこし俯いて呟くようにそう言う整った横顔が、ほんのわずか泣きそうに見えて瞬きを繰り返した。


「名前」
「ん」
「私はあまりいい恋人にはなってやれなかったな」
「そんな事はないよ」


即答した。そんな事はないのだから。七海は真面目で優しくて、言葉は少ないながらにも深い愛情を示してくれるいい男だ。10代の頃でそんなだったのだ、今だってきっと間違いなくいい男だ。


「今思えば、あの時」
「…なに」
「君の未来のためになどと格好を付けずに、そばに居続ければ良かった」
「どう、したの?なんか変だよ、急に」


視線が交わる。柔らかく笑んだままの七海が、ふ、とわずかに息を漏らした。


「生きてくれ、名前」
「だから、どうしたの」
「私は存外嫉妬深い。今更だとは思うが、君がこれから別の誰かと幸せになる未来を心から願うことが出来ない」
「…」
「ただ、名前には」


生きて欲しい。


悲しげに微笑んだ七海の紡いだ言葉に何か反応を返すより先に、急に視界が暗転した。




「………っ、」


次に目を開けると、そこに穏やかな春の風景は無かった。そよぐ若草も、柔らかな風も、すこし湿った土も、きらめく小川も、もちろん七海の姿もない。
もうもうと舞う粉塵と、暗く濁った夜空と、光源を失くして廃墟になった背の高いビルがそびえ立つ。アスファルトの上に仰向けに倒れているせいで、頭も背中も痛い。吸い込んだ空気は化学物質と呪いの匂いで陰鬱に曇っている。どこかで何かが崩れるような音が響いている。わずかに地面も揺れたようだ。



「……なな、み?」


今日は10月31日、そうだ、ここは渋谷だ。私は、そう、七海も、呪術師のほとんどが集結して、未だかつてない呪霊との戦いの渦中にいる。爆風に吹き飛ばされて気を失ったのだ、と、何処か冷静に現状を分析しようとする。だって、気を失っている間に見ていたあれは、あの夢は、まるで。



「七海、」


勢いよく半身を起こせば、ガツンと殴られたような頭痛と不愉快な耳鳴りに思わず目をきつく閉じる。頭を打ったらしい。身体は重いが、動かせそうだ。

七海は何処へ向かったのだったか。探さなければ。だってあれじゃ、まるで。



知らず噛み締めた歯がカチカチとちいさく鳴る。渋谷の夜明けは遠い。




back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -