天使の羽根をなぞる夜
△ ▽ △





とろりと立ち込める濃い暗闇が、小さな部屋の中を占拠している。遮光カーテンからは月明かりも街灯の光も差さないから、そこには目が痛くなるほどの黒だけが満ちている。


「……ん、暗い」


七海建人はすぐ隣で、温かいかたまりがもぞもぞと動くのを感じた。すこし掠れた小さな声が落ちて、それから音もなく淡いオレンジがかった光が灯る。彼女がベッド脇の照明に手を伸ばしたのだ。淡い光の中に白い背中が浮かび上がる。どうやら彼女は起き上がったらしい。


「うわ、もう2時じゃん」
「ん、」
「あ、ごめん起こした?」
「いや、いい」


七海の声も掠れている。彼女とベッドに入った時、確か時刻はまだ日付を跨いでいなかったはずだ。甘やかな疲労感がまだ腰回りに残っている。


「建人、声掠れてる」
「君ほどじゃない」
「まあそうだけど」
「…身体は大丈夫か」


まあね、と名前が薄く笑う。


「でも色んなとこ、痛い」
「……すまない」


色々あった所為で、随分久しぶりの逢瀬だった。だから再会を喜んだり近況を話したりする前に、さっさとベッドに倒れ込んでしまった。

名前がぐ、と両腕を上に伸ばす。暗闇の中のオレンジの光に、白い背中が淡くひかる。七海は無意識下で腕を伸ばした。指先で触れた肩甲骨、そこには黒い緻密な線で翼が描かれている。


「…ん?」
「……綺麗だな」


彼女がいつそこに翼の刺青を入れたのか、七海は知らない。出会った時にはもう、名前には羽根が生えていたから。

肩甲骨の真ん中から肩口に向けて、伸びやかに描かれた翼はその白い背中によく似合う。まるで生まれた時からそこにあったかのように、彼女によく馴染んでいる。
刺青を入れている人間は多くない。少なくとも七海達の暮らすこの国では、それは未だに忌み嫌われることが多い。反社会的組織の象徴であるという偏見が根強い所為だが、名前はもちろんヤクザとは何の関係もない。それどころか彼女もまた、人知れず命を賭して人を助ける呪術師の一人だ。


「建人はこれが好きだね」
「…そうだな」


顔だけ振り返って名前が笑う。淡い光の中で笑う彼女は、人ではないような神聖な雰囲気を纏う。たったさっきまで七海の下で息を乱していた女とは思えないほどに。


「さっきもそこ、撫でてたでしょう」
「なんだ、随分余裕があったんだな」
「…そのくらい、分かる」
「そうは見えなかった」


七海が口端で笑むのを、名前は軽く睨んでやる。
さっきというのはつまりベッドに入ってしばらく経ってからで、されるがままに腕を引かれて七海の眼前に背中を晒していた時だ。息も声も途切れ途切れで、名前の意識は既に飛びかけていた。それでも気付いていたのだ。汗を滲ませた七海が熱い息を吐きながら、名前の翼を手のひらでなぞったのを。



「君は天使みたいだ」
「えー?」
「飛んで行ってしまいそうで」
「ふふ、飛べたらいいのに」
「…いいよ、何処へも行かなくて」
「寂しくなっちゃう?」


名前がいたずらに笑う様子を、七海は熱に浮かされたような心持ちで眺めた。見惚れていたと言ってもいい。

禍々しい呪霊と日々対峙しておきながら、砂埃を払ってシャツを脱いだ剥き出しの背中には天使のような翼が生えている。不意に飛び去って行ってしまいそうな危うさを孕んで、彼女はいつも柔らかく笑うのだ。


「寂しいよ。飛んで行かないでくれ」
「……うん、まだどこにも行く気はないよ」
「そうしてくれ」
「どうしたの?なんか珍しいね、そんなこと言うの」


久しぶりに会えた今日まで、互いに面倒な任務をこなして来たのだ。幾度となく死線を越えて来た二人だからこそ、逢瀬は貴重で重要で。毎回、これが最後かもしれないと何処かで思っている。そしてまた、次まで生きねばと思うのだ。


「君の前だとどうもな」
「私は弱気な建人も好きだよ」
「そうか」
「そ」


名前が微笑んだまま、再び七海の横に肘をついて転がる。七海は乱れた前髪をかき上げて、彼女を見つめていた。弱い部分を曝け出すのは勇気が要ることだ。こんな生業であれば尚のこと、そういう存在を作ってしまう事は足枷にもなりかねない。それでも。


「君の前では、私もただの男だな」
「何言ってんの、それがいいんじゃん」


眉を下げて笑った彼女につられて、七海もふ、とわらう。願わくばこんな愛おしい時間が、少しでも多く在りますようにと視線に込めて。


「名前」
「ん」
「愛している」
「……知ってる」





天使の羽根を
なぞる夜

どうか此処にいて





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