無色
△ ▽ △





早川君と初めて会ったのは、鑑識課に来て二年目の春だった。ようやく仕事にも慣れて、一人でも色々と回せるようになった頃、長身で細身のデビルハンターがふらりと鑑識課に訪れた。デビルハンター本人がここへ来ることは珍しいから、印象に残っていた。それが早川君だった。


「あ、」
「…アンタ、鑑識課の」


次に会ったのはひと月後、公安の屋上で。私のお気に入りのサボり…いや休憩スポットで、煙草に火を点けたところだった。


「苗字です。お疲れ様です」
「早川です」


軽く会釈してから早川君はポケットから煙草を取り出して、100円ライターで火を点けた。へえ、この人も喫煙者なのか。今どきの若者っぽかったから、少し意外だった。


「苗字さんも、煙草吸うんですね」
「やめた方がいいのは分かってるんですけどね」
「ちょっと意外でした」
「そうですか?」


早川君は私と同じ事を考えていたらしい。それがおかしくて少し笑うと、彼の表情も少し柔らかくなった気がした。

眼下の喧騒から少しばかり浮いた屋上は、普段はほとんど人が来ない。静かで空が近くて、だからぼんやりするにはうってつけだった。一日中悪魔や魔人の死体その他諸々の禍々しいものと対峙していると、時々自分も悪魔なんじゃないかと考えてしまう。一番恐ろしく禍々しいのは、悪魔ではなく人間なのではないか、とか。特に今日は朝から珍しい悪魔の死体が運び込まれたので、その解剖にほとんど一日を費やしてしまった。着替えてシャワー室で洗い流しても、まだ鼻の奥に血の匂いがこびりついている気がする。
そんな最悪な気分の私の横で、早川君は長く煙を吐いた。


「ここ、いいですね」
「そうなんですよ。私の秘密のスポットです」
「へえ、なんか邪魔してすみません」
「いえいえ、大歓迎ですよ」


軽口を叩くと、早川君はふ、と口元を緩める。整った顔に思わず見惚れそうになって、意識して視線を宙空へ逃す。


「うち、あんまり喫煙者いなくて」
「…苗字さん、鑑識長いんですか?」
「いえいえ、まだ二年目です。全然新人の域を出ませんよ」
「鑑識って結構キツイですよね」
「あーまあ、基本地味ですけどたまにキツイです」


二人分の白煙が緩やかな風に掻き消されていく。
公安のデビルハンターは大勢いるが、鑑識課は人数で言えばその10%にも満たない程度だ。少数気鋭と言えば聞こえはいいが、実際には辞めていく人間が配属されてくる人間より多いからだ。そもそも鑑識課は、元々デビルハンターだった者が多い。怪我や病気(これは精神的なものも含めてだ)、色々な事情があってデビルハンターを続けられなくなった人が、その知識と経験を生かして転属するのが鑑識課なのだ。もちろん私のように、デビルハンターの過去を持たない鑑識もいるが。辞めていく理由は様々で、元々長く働くのが難しい怪我や病気だったり、地味な作業や悪魔の解体が肌に合わなかったり、あとは−−−



「鑑識いると、頭おかしくなるって噂ありますよね」
「まあ、公安離職率ナンバーワンですから」
「なんかいるんですか、ユーレイとか」
「今のところ、私は出会ってないですねえ」


もちろん、長く勤めているエキスパートも多い。と言うかその部分が少数気鋭で、あとは入れ替わりの激しいその他大勢といった感じだ。同時期に配属になった同僚三人は、既に全員公安を去っている。


「苗字さんは、なんで鑑識に?」
「…私の親、悪魔に殺されたんです。もう十年くらい経ちますけど。だから本当はデビルハンターになりたかったんですけど、全然弱いし、悪魔怖いし。だから消去法で、鑑識に」
「ふうん」


早川君は不思議な人だった。あまり他人に興味など無さそうに見えるのに、意外と突っ込んだ話を振ってくる。そして私も私で、それにすらすら答えてしまう。社交辞令的な会話ならもっと適当な、それこそ天気の話とか昨日のテレビの話とかでも良さそうなのに。


「なら、俺らと同じですね」
「え?」
「鑑識も、デビルハンターも、信念のある奴しか続かない」
「…危険度で言えば、全然劣りますから」
「鑑識が情報を集めて精査して、悪魔の実態を調べて、飼ってるからこそ、俺らデビルハンターが悪魔を殺すことができるわけでしょ」
「そんな風に言ってくれたの、早川さんが初めてです」
「そうですか?」


煙草はとっくに燃え尽きて、フィルターの端を焦がして消えていた。携帯灰皿に吸い殻を押し込んで伸びをする。想定外の相手との想定外の会話は、一人で吸う煙草よりずっと心身をリフレッシュさせてくれていた。


「早川さん、いい人ですね」
「こんなんでいい人とか言っちゃだめですよ」
「ふふ、この後はパトロールですか?」
「そうですね」
「お気を付けて。死なないでくださいね」
「……苗字さんも、ユーレイに憑かれないでくださいね」


穏やかに微笑む彼と別れて仕事に戻った。その日は何故だか身体が軽くて、周りが少し驚くくらいバリバリ仕事をこなせた。

それから早川君とは、時々屋上で短い話をするようになった。私はほとんど毎日屋上へ登るが休憩時間はバラバラで、だから時間は特に決まっていない。早川君はもっとそうで、本部に立ち寄って更に煙草休憩すること自体が少ないし、もちろん時間はまちまちだ。だから屋上で出くわすのは週に一度あれば多い方で、均すと大体月に二回か三回程度だった。彼は相変わらず表情が少ないままだったけど、短い時間同じ空の下で煙草を蒸す間は、なんとなくで会話は続いていた。そして早川君と休憩した後は決まって、なんとなく身体が軽くて仕事が捗った。


「特異4課」
「問題児の寄せ集めだけどな」
「それをまとめられるっていう信頼があるからだよ」
「…まあ、やれと言われりゃやるけどさ」


季節が変わって、早川君も私も随分ラフな口調で話すようになっていた。
早川君は彼に煙草を教えた先輩と離れて、実験的な部隊を率いることになった。愚痴を零しながらも、マキマさんから指名を受けた早川君はせりふに反してどこか嬉しそうにも見えた。


「名前はどう。最近」
「この間欠員補充で三人配属されてきたのにさ、今月だけで四人辞めちゃって早くもプラマイマイナスなんだよね」
「マジか」
「呪われてんのかなあ鑑識課」


早川君は私を名前で呼ぶようになった。苗字という苗字のデビルハンターがいて、紛らわしいから、とかそんな理由で。私が彼を君付けで呼ぶようになったのも同じ頃だ。


「道理でちょっと痩せたと思った。忙しいんだな」
「あれ、わかる?一週間で三キロも落ちちゃって」
「倒れるぞ」
「私煙草で栄養摂れるからさあ」
「馬鹿か」


その時は本当に忙しかった。人手がない時に限って面倒な案件ばかり舞い込んできて、けれどだからと言って溜め込む訳にもいかなくて。ほとんど家にも帰らず、公安の中のシャワー室と仮眠室でかろうじて女としてぎりぎりの見た目を保っているようなそんな時。化粧もほとんどしてなかった私を見て、早川君は心配そうな顔をした。


「…なんか食いに行くか」
「いやいいよ、仕事終わんない」
「名前が倒れたら、それこそ鑑識終わるだろ」
「いや、まあ…」


とりあえず肉か、と早川君は呟いて、それからぽかんと立ったままだった私を見てふっと笑った。


「行くぞ」
「……うん」


好きだなあ。

慢性化した過度の疲労に鈍った頭は、ぼんやりとそう考えていた。彼は真っ直ぐで、クールだけど薄情ではなくて、と言うより実際にはとても優しくて、すこし不器用で。私ができなかった仕事、命懸けのデビルハンターを、信念を持って本気でやっている、ヒーローみたいな人だった。

好きだと自覚したところで、告白するとかデートに誘うとかそういうつもりはない。それは恋というより、憧れと言った方が正しかった。それに早川君はきっとモテるだろう。私を女として認識しているかどうかも怪しい。でもそれで良かった。



「ビールでいい?」
「え、私ウーロン茶で、」
「飲めないんだっけ」
「いや飲めるけど。仕事戻るし」
「は?もういいだろ、今日は」
「うーん、今日中にやらなきゃいけないのが残ってて」
「…そ」


早川君が連れて来てくれたのは、半個室の焼肉店だった。何度か先輩と来た、と言っていた通り、手慣れた様子でメニューも見ずにオーダーしていく。お酒を断ってから、ああ失礼だったかな、と思ったけれど、早川君はさして気にする素振りも不機嫌になることもなく、じゃ俺もウーロン茶、と店員さんに言った。


「名前は本当、頑張り屋だよな」
「そうかなあ」
「辞めたいと思ったこと、ねぇの」
「無くはないよ、正直」
「でも辞めなかった?」
「私にはこれしかないからね」


父と母を殺した悪魔は、蛇の悪魔だった。大きな鱗だらけの体に乗った巨大な頭にくっついた幾つもの不恰好な目が好き勝手ギョロギョロ蠢いて、裂けたように開いた大きな口から覗く分厚く長い舌は紫色だった。細く尖った数えきれないほどの歯が口の中にびっしり生えていて、引き攣ったような気味の悪い高い声で言葉のようなものを発した。「コドモヲヨコセ、ソウスレバオマエタチハ喰ワナイ」私に聞き取れたのはそれだけだ。蛇は神話に登場した時から、狡賢く人間を惑わせる存在だった。だからだろうか、絶体絶命の状況で、あの悪魔は父と母に私を差し出すよう迫ったのだ。けれど私は生き残り、二人はあの無数の歯がびっしり並ぶ大きな口の中に消えてしまった。


「親の仇、はまあ、その時来たデビルハンターが討ってくれた訳だけだけど。心底怖かったし、心底憎かったんだよ、悪魔が」
「…それで公安に」
「この世の悪魔、全員ぶっ殺してやりたかったの。でも悪魔と戦えるようなフィジカルもメンタルも持ってなくてね」
「まあ確かに、名前は弱そう」
「ふふ、だから自分に出来る形を考えた結果、鑑識しかなかった」
「少なくともメンタルは強いよ、名前は」
「そうでもないよ。悪魔と契約なんて怖いもん。その点早川君はすごい」
「…まあ俺も、アンタと似たようなもんだからな」
「そっかあ」


肉の焼ける音と香ばしい匂いが空腹感を刺激する。夕食時の店内はそれなりに騒々しくて、あちこちで酒の入った陽気な声が時折大きく聞こえてくる。
そんな中で私たちは、向かい合って淡々とそんな話をしていた。こんなふうに身の上を詳しく話すのはいつぶりだろうか。早川君が相手だと、するすると言葉が出て来て止まらない。特別聞き上手な感じはしないのに、何を話してもただ静かに頷いて受け止めてくれるような彼の雰囲気が私を饒舌にさせた。


「早川君、北海道出身だっけ」
「ん、言ったっけ」
「前にちらっと聞いた。私北海道って行ったことないんだ」
「東京生まれ東京育ち?」
「そう。もっと田舎だけどね。23区外だし」
「都心は便利でいいよな。俺の実家なんかコンビニまで車で20分かかったわ」
「雄大な大地だねえ」
「広けりゃいいってもんじゃないけど」


早川君は薄く笑ったまま、ウーロン茶を飲んだ。


「じゃあ今度、名前も行くか、北海道」
「へ」
「毎年、墓参りに帰ってんだ」
「ああ、」
「北海道、何食っても美味いよ」
「…いいね、いつか連れてってよ」


それが冗談の一種というか、リップサービスというか、要は本気じゃないことくらいは分かっていた。でもだけど、私は一瞬で想像してしまったのだ。公安の制服でも、ロゴ入りの作業用ジャンパーでもない早川君と私が、二人で北海道へ旅する姿を。酔っていなくて良かった。私はちゃんと、冗談に乗って微笑み返す事が出来たのだから。

早川君は次々に肉を頼んで、私もつられてどんどん食べ進めた。ここ数日は食事といえばコンビニかぼそぼそした栄養調整クッキーばかりだったから、焼き立ての肉と温かいご飯は本当に美味しかった。目の前で同じものを食べているのが早川君だった所為もあるだろうけど、こんなに楽しい食事は何年振りだろう、なんて事まで考えた。



「名前ってなんか、放っとけないよな」
「まあ鈍臭いのは自覚してるけど」
「そうじゃなくてさ。放っとくと一人で頑張り過ぎて、オーバーヒートして壊れそうっていうか」
「いいんだよそれで」
「いや良くはないだろ。現に今回もやつれるまで仕事して」


表情が多い方ではないけど、早川君は優しい人だ。冷たそうに見えるけど、周りの人をちゃんと大切にできる人だ。


「デビルハンターは身体が資本みたいなとこもあるけど、鑑識は頭と手さえ動けばどうとでもなるからね」
「あのなあ、鑑識とかデビルハンターとかの前に、お前も一人の女なんだぞ」
「え」
「は?」
「早川君、私のこと女だと思ってたの?」
「は?女じゃないのかよ」
「いやまあ、生物学的には女だけど」
「じゃあ合ってんだろ」
「いやなんていうか、女とは認識されてないだろうなって思ってたから」
「お前こそ俺をなんだと思ってんだ」
「早川君は早川君でしょ」


だからなおのこと、私はこの気持ちを絶対に伝えない。それはこの穏やかな関係が変わることと、早川君に気を遣わせることへの恐れからだ。時々会って世間話する程度の、知人Aでいた方がいい。
それは結局、わたし自身の保身のためだった。大切な人を失う悲しみから逃げ続け、深く付き合える友人や恋人を作ることをずっと避けて来た私の保身のため。だってどんなに大切で愛している相手でも、大蛇の口の中に消えてしまったらもう二度と会う事は出来ないのだから。



「本当に戻るのか」
「うん。ありがとね」
「ん」
「じゃあまた、屋上で」
「……おう、またな」


早川君とは店の前で別れた。送ると言ってくれたけど、どうせ庁舎はすぐ近くだ。またな、と薄く笑んだ早川君に、私は先に背を向けた。



















悪魔とは何だろうか。公安のデビルハンターが殺した悪魔の死骸を電鋸で切り分けながら、飛び散る紫色の血がフェイスシールドに跳ねるのを軽く避ける。
人間が抱く恐れに比例して、悪魔の力は強大になる。公安に属する悪魔や魔人の証言に拠れば、悪魔は地獄から来るのだそうだ。そもそも奴らの言が全て信頼に値するかというとそれは否だから、本当のところは分からない。切り開いた悪魔の内臓を写真に撮って、一部の細胞をシャーレに移す。
人間が恐れる感情が悪魔を増強するのなら、悪魔を生み出すのは乱暴に言えば人間だ。恐れの権化とも言える悪魔をこうして切り刻み、研究機関に回したり、資金の一助として売却したり、これは私達鑑識課の仕事のひとつだ。恐れを糧に変え、糧は人間を増やす。人間が増えれば、それだけ恐怖の対象は増える−−−


「苗字、渋谷でクレーンの悪魔だとよ」
「クレーン?派手ですね」
「珍しいから解剖来るかもな」
「もう手一杯ですよ」
「上にはそんなこと関係ねぇからな」


隣で別の悪魔を解体していた先輩職員が鼻で笑う。最初の頃は悪魔の解剖をした日はまともに食事も摂れなかったけど、今では流れ作業だ。廃棄物となった死骸を所定位置に移動させ、タグを付けておく。先輩に声を掛けて解剖室を出て、二重につけた手袋とフェイスシールド、マスク、その他血に染まった全てを外して、シャワー室へ直行する。解剖三件ぶっ続けはさすがに堪えるな、と頭から熱い湯を被りながらぼんやりと息を吐いた。

早川君は元気だろうか。この間、新人デビルハンターが彼の班に入った事を聞いたばかりだ。ふざけた野郎、と眉を顰めていたけど、上手くやっているだろうか。
シャワーの後上がった屋上に、早川君は来なかった。それからしばらく、彼とは会えないままだった。














「名前」
「あ、早川君」

久しぶりだな、と早川君が笑った。
雨の日の屋上だ。ドアを開けてすぐの、わずかなひさしの下で白煙を吐いた所だった。早川君はドアを閉めて、私の隣に立つ。目の前は雨のカーテン、背後には屋上のドア。かち、と早川君のライターが鳴った。


「元気だったか」
「まあまあ。早川君は?」
「んー、まあまあ」
「真似しないでよ」
「してねぇわ」


狭い空間で並んで吐いた煙草の煙が、雨のカーテンにかき消されていく。
雨の音に混じるように、早川君の低い声がじわりと身体の中を巡っていくような感覚。


「そういえば、デンジくんだっけ?どう」
「あー、まあバカはバカ」


おや、と思った。どうやらなかなか上手くいっているらしい。男の子同士のことはよく分からないけれど、早川君の答えには前みたいな明確な拒否反応が見受けられなかった。いいなあ、顔も知らぬデンジくん。早川君と一緒に仕事して、一緒に暮らして、仲良くなって。時々こうして短い間世間話をする知人Aには、到底手の届かない距離だ。−−いや、私はそれでいいはずなのに。

対魔特異4課、早川君の班は、マキマさんの肝煎りの特別班だ。メンバーも異質な人ばかりだし、仕事も大変らしい。そういう噂は鑑識にいても聞こえてくる。この間亡くなったデビルハンターが、早川君が時々話していた、煙草を教えた先輩だということは知っていた。その人のことは詳しくは知らないけれど、もし早川君がその人に出会わなければ煙草を吸うこともなく、そうしたら私達の出会いも訪れなかったのかもしれない、なんて思考回路の私は薄情だろうか。



「大変だったね、色々」
「…まあな」
「ちゃんとご飯食べてる?」
「うるさいバカ二人が家にいるからさ、あんま感傷に浸ってる暇がない」
「そっか、楽しそうだね」
「んな訳あるかよ」


早川君は自分の事をあまり語らない。だけど全く話さない訳ではなくて、それを聞くのが私は好きだった。
悪魔の事、デンジくんの事、パワーちゃんの事、マキマさんの事。彼の取り留めのない話を聞く間は、不思議と他の雑多な事を考えずにいられた。


「名前は?ちゃんと食ってんの」
「うん、最近はちゃんと帰れてるから」
「そう」
「ん」


早川君の雰囲気が少しいつもと違う気がした。私は銀灰に烟るモノクロの空を眺めながら、深々と煙を吐き出す。ぐらりと視界が一度、頭を振ったように揺れた。足元がふらつく事が無いように、少ない腹筋に力を込める。



「なあ」
「ん」
「お前はさ、死ぬなよ」
「…なんで私?早川君みたいに危ない事してないよ」
「なんか、悔しいんだよ」
「悔しい?」
「信念を持って、しんどくても平気な顔して、身を削って本気で闘ってる人間が、死んでくのが」
「…それは、そう、だね」
「名前も、かなり無理してるだろ。俺らより休んでないくらい」
「言ったでしょ。私にはこれしか出来ないから」



ざあざあと雨の降りしきる音が、尻すぼみな私の情け無い声をもっと薄めていく。半ば苦し紛れに吸い込んだ煙草の先が、ちりちりと明るく燃えた。

明確な体調不良を感じたのは三日ほど前のことだ。ぐらりと地面が揺れるような眩暈や、食欲不振、なかなか眠れないのに、仕事中に立っているのが辛くなるくらいの強烈な眠気に襲われたりする。睡眠も栄養素も足りていないのが当たり前になっていたからだろうか。いや、でも、


「鑑識の人が、自殺したって聞いた」
「ああ…そう、驚いたよ私も」
「……名前も見たのか」
「あー、うん、ていうか、」
「ん」
「第一発見者」
「マジ?」
「マジ」


四日前の事だ。朝一番に出勤してきた私が、ドアを開けて見たもの。それは宙に浮いた二本の足だった。鼻をつく匂い、ぽたりと滴る濁った液体、影くらいの大きさの水溜り、見上げた先には、昨日まで隣で仕事していた男だったモノがあった。


「大丈夫か、お前ほんと、」
「んん、まあ、びっくりした」


早川君が煙草を指に挟んだまま、私の方をじっと見る。いつもより見開かれた目に映る私がどんな顔をしているか、考えたくもなくて視線は宙空を彷徨った。

同僚が辞めていくことは日常の一つだった。心配だったり、迷惑だったり、いちいち心をざわつかせるのは最初の内だけだった。いつしか当たり前になっていたし、辞めていった人間がどうなったのか興味も無かった。だけど流石に仕事場で首を吊った人は初めてで、親愛も友情も感じていなかった相手なのに、私の心は大きくざわめいた。何か線路の行く先を変えるレバーがかちんと変えられたような、見ていたテレビのチャンネルを急に変えられたような、変な感じだった。ああそうか、今まで居なくなった人たちの中にも、もしかしてこういう末路を辿った人が居たのかもしれない。思えばあの人も、そういえばあの人も−−−



「名前?」
「ん、」
「大丈夫か」
「…うん、幸いやる事はいっぱいあるからさ、あんまり考えてる暇なくて」


嘘だった。人間の脳は匂いと記憶を、音や光景より遥かに強く結び付ける。あれから数日、悪魔や魔人の血の匂いや腐臭に、私は第一発見者になった瞬間を幾度と無く思い返した。実際には血の匂いはしなかったというのに。悪魔とて人とは違えど器官を持ち内臓を持つ。死んだ悪魔の匂いに、フラッシュバックのように何度も何度も思い出し、眩暈をもよおし、足元がふらつく。当然仕事は進まず、苛つきと疲労だけが酷い勢いで溜まり続ける。少し休んだ方が、と心配そうに眉を下げた先輩にすら苛ついた。私が休んだらこの仕事は、あの報告書は、あの調査は、誰がやると言うのだ。もちろんこの感情が間違いなのは分かっていた、けど。



「なあ」
「うん」
「…本当に、死ぬなよ」
「だからあ、早川君には言われたくないよ」
「逃げてもいいんだぞ」
「逃げるって、」


早川君のせりふの意味が分からなくて、私はついに彼の方を向いた。高いところにある彼の瞳が、どこか何かを恐れているような気がした。


「名前が鑑識の仕事に誇りを持って、責任を持ってやってる事は分かる。辛い思いしたんだから怖いモンから逃げても誰も責めなかったのに、お前は自分に出来る事を考えて鑑識になったのも知ってる」
「…」
「でも、だからって死ぬまでやらなくていい」
「……だって、早川君は、」
「俺?」
「早川君は、死ぬまで銃の悪魔と戦う、つもりでしょ」
「俺は、」
「私も、死ぬまで出来ることをやるだけだよ」
「…」


視界が少しぼやけたのは、眩暈の所為ではない。無理矢理微笑んで見せたのは、このまま倒れ込みそうだったからだ。


「名前」
「ああでもべつにだから死んでもいいって思ってるとかじゃなくて…うん、早川君が銃の悪魔を殺すところは、見たいかな。たぶん引きこもりの私には無理だけど」
「名前」
「銃の悪魔の肉片を取り込んだ悪魔だけが持つ特徴がね、分かったかもしれないんだ。今は専門機関の解析待ちだけど、これがきちんと解明されれば早川君達も少しは参考になるかもしれない」
「なあ、」
「そうしたら銃の悪魔も見つけやすくなって、こう、対策みたいなものも少しは出来るようになるかもしれない。まだ断定するためのデータは足りないけど、このペースなら一年くらいあれば多分、」
「名前」



ぺらぺらと喋り続ける私の声は、不自然に止まった。銀色に霞んでいたはずの視界が、黒で覆われたからだ。煙草の煙と、洗剤と、何か爽やかな香りの混じった不思議ないい匂いがふわりと鼻を掠め、頭の後ろを押されて押し付けられるように黒色の中に顔を埋めた。


「もういい」


すこし硬い布地と、随分近くから降ってくる声、頭の後ろに感じる温度。
早川君に抱き締められたのだ、と、私はようやく気付いた。


「頼むから、無理しないでくれ」


弾みで落ちてしまった私の煙草はどこへ行ったのだろう。落としておいては後で誰かに見つかると面倒だ。ひどく落ち着く匂いの中で、ぼんやりとどうでも良いことを思った。

頭の後ろを押さえた早川君の手は、当たり前だけど温かい。目を伏せると、早川君のもう片方の手がぶら下がっているのが見えた。フィルターを焼き切りそうなほど短くなった煙草を指に挟んだまま、大きくて美しい手指がそこにある。あの手を取ったら温かいのだろう。だらりと垂れたままのこの腕に力を込めて、背中に回して、あの手を取ったら。



「ありがとう早川君」
「……お前分かってねぇだろ」
「分かるよ。早川君は心配してる」
「…このまま続けたら、なんかお前、」


随分と近い場所で聞こえる彼の低い声は、冷たい雨の音の中にあってもひどく優しく心地良い。

自分は、父と母が死んだあの日に、本当は死ぬはずだったのだ。蛇に喰われて、ぷちっとあっけなく命を終えるはずだった。なのに一人だけ生き残ってしまったから、だから。


「ちゃんと、ババアになるまで生きろよ」
「なにそれ」


そっと足に力を込めて、早川君から離れる。両腕は動かすことなく、ゆるやかな熱からそっとわずかな距離を置く。

あの日、だから私は一度死んでしまったから、あとの時間をどう生きたら良いか分からなかった。大嫌いな悪魔をただただひたすら殺してしまいたかった。デビルハンターにはなれなかったから鑑識になって、がむしゃらに頑張って、頑張って、頑張ったのに、悪魔はどんどん生まれ、人を殺し続け、私や他の人たちの精神を蝕み続け、そして目の前で同僚が死んだ。死ぬのなら、悪魔の一体でも殺してから死んでくれたら良かったのに−−−
ぐらり、また世界が揺れる。誰かがおざなりに掴み上げたスノードームのように、私の世界は寄る辺無く動転する。


「名前?」
「ん」
「なあ、」
「うん」
「ちゃんと、生きててくれよ」
「…人を幽霊みたいに言わないでよ」
「お前なあ」


早川君の呆れたような声に、私は笑う。生きろ、か。うん、初めて言われたな、そんなこと。好きな人に言われるのは嬉しいものだ。まるで私が彼にとって必要だと言われているような、そんなくすぐったい甘やかな勘違いが、なかなかどうして悪くはないようだ。

ああ、この人と出会えて良かったな。

ぐらり。















△ ▽ △







早川アキは足早に廊下を歩いていた。履き慣れたスニーカーの底が色褪せたリノリウムの床を忙しなく擦って小さな高い音を立てる。

最近名前の姿を見ていなかった。彼女はいつも庁舎内にいるとは言え、話すのは屋上ばかりで約束をした事はない。だから二週間くらいなら、タイミングが合わず顔を合わせない事はざらにあった。ただ今回違うのは、前回会った時の名前の顔色があまりに血の気なく、お世辞にも健康的とは言えない雰囲気を纏っていたことだ。だからアキは四度目の空振りに終わった屋上を後にして、真っ直ぐ鑑識課に向かった。
鑑識に行くのは随分久しぶりだった。普段ならデビルハンターであるアキにはあまり用のない場所だし、用件といえば書類のやり取りで済む程度だった。


「あの、名前いますか」
「名前?」
「苗字名前です。ちょっと用があって」


入り口の近くにいた壮年の男は、アキのせりふに怪訝そうな顔をした。この男は彼女の先輩職員で、名前の言葉を借りれば少数気鋭の一角を担うベテランだ。それを知っているからこそ、アキは最初揶揄われているのかと思った。彼が名前を知らないなんてことはないはずだ。


「鑑識にいる若い女の子、いますよね。名前って」
「若い女の子…っていうとアイツくらいだけど…」


男は全然違う女性の方を目で示して、それから眉間に僅かに皺を寄せた。


「いや、あの人じゃなくて。苗字名前です」
「いないけど。そんな人」
「……は?」


何を言ってるんだ。アキは絶句した。揶揄われているわけではない事は、男の顔を見れば明らかだった。


「鑑識に…もう何年もいるはず、ですけど。背はあんまり高くなくて、いつも髪後ろで束ねてて、よく屋上で煙草吸ってて」
「…」
「解剖も、研究も、ずっと頑張ってて…あ、ほら先月ここで亡くなった人のこと、見つけたのもアイツで」
「……君、デビルハンターだよね」
「はい?そうですけど」


会話が成立しない。苛立つアキの顔を、男は真剣な眼差しで見据えた。ちょっとだけいいかな、と人けの無い廊下にアキを連れ出して、そして髭の伸びかけた頬をぽりぽり掻きながら、男は語った。
十日か二週間か、そのくらい前から、なにかが無くなった感覚だけが続いているのだ、と。
鑑識は元々新入りがすぐに辞めてしまう事が多いので、ベテランである男はすでに全員把握してはいなかった。けれど、解剖しながらふと、いつも隣にいるはずの誰かがいないことに違和感を抱く。意見を求めようとふと顔を上げた時、話し掛けようと思っていた相手が誰だったのか分からない。ここに誰かがいた、長い付き合いになる仲間がいた、それを体と感覚で分かっていて、けれど頭がすっかり忘れてしまったような、そんな妙な状態なのだと男は言う。最初は自分の頭がおかしくなったのかと思ったが、実際に誰がやったのか分からない仕事が沢山記録としてあり、報告書一つとってもどこか懐かしいような、元々知っているような、そんな奇妙な感覚だけがずっと残っているらしい。


「……ちょっと待って、どういうこと、ですか」
「鑑識にはユーレイが出るって言うだろ」
「アイツは幽霊じゃない。ちゃんと生きて、食って、喋って、」
「名前か。そんな名前だったのか、もう俺には思い出せないけど。アンタはちゃんと覚えてるんだな」
「いやだからアイツは、」


どこか悟った風な男の表情にアキは苛ついた。それと同時に湧き上がったのは、恐怖だ。


「ちょっと待ってくれ、名前がいないってのは、本当なのか」
「本当だよ。元々女は少ないし間違いようがないだろ」
「いや、だって俺、アイツといつも煙草吸って、焼肉食って、」
「ふーん、随分仲良かったんだな。だから覚えてんのか」
「だから覚えてるとかじゃなくて!」
「いいか、ここにそいつはいない。苗字名前なんて職員は、初めからいなかったんだよ。お前も変な目で見られて立場悪くならないうちに諦めろ」


アキはぐっと言葉を飲み込んだ。この男はおそらく、最初はアキと同じように名前を探したのだろう。そうしてそうすればするほど、周りからついにおかしくなったのか、と白い目を向けられるようになった。そして徐々に、彼女の事も思い出せなくなっていって、


「……失礼しました。仕事に戻ります」
「おう。気ィつけてな」


男は口端だけで疲れた笑みを浮かべた。



アキはその足で書類保管庫へ向かった。もちろんまだ、彼女が幽霊だったなんて信じられてはいない。だけどもしあの男の言うように忘れてしまうなら、自分も名前の名前を、存在を忘れてしまうのだとしたら。そんなに恐ろしい事はなかった。

埃っぽい書庫の電気を点けると、背の高いアキよりもっと高い書棚の数々が圧倒してくるようだった。ぎろりとそれらを睨み付けて、目当ての書棚から適当な綴りを取り出す。分厚い紙束の中、四冊目で蛇の悪魔に関する記述を見つけた。日本では全国各地で蛇の悪魔が出没した記録があり、そこに付記された被害者の名を辿っていく。ぺらぺらと紙を捲る手が不意に震えた。


「苗字、」


十年ほど前の記録だった。都内の山間部に位置する山の中で、ハイキング中だった親子が被害に遭っている。記された死者の名前は夫婦とその一人娘だ。


「苗字、名前」


口の中がカラカラに渇いていた。半ば強引に誘って行った焼肉屋で、名前は何と語ったのだったか。蛇の悪魔は父親と母親に、子供である自分を差し出すよう唆したと言った。しかし二人は食われて、そこへやって来たデビルハンターが悪魔を殺したのだとも。
そのデビルハンターは民間だったらしく、詳しい状況についての記録はなかった。けれど確実なのは、名前は父と母を亡くしたのではなく、その時一緒に食われていた、ということだ。この記録が間違いで実は一人娘だけが生き延びた可能性は。そもそも同姓同名なだけでまったく別の家族の可能性は。アキは震える手で紙を捲る。蛇の悪魔の被害者の中に、苗字という名は他に見当たらなかった。


「マジかよ…」


呟いた小さな声は、誰にも拾われず霧散した。



記録資料を元の棚に戻して、保管庫の電気を消して、アキが向かったのは屋上だった。彼女と出会った日、アキは初めて屋上に行ったのだ。遠い昔のような気もするが、実際彼女と知り合ったのは一年ほど前のことだから、長く深い付き合いがあった訳ではない。ただ話すうち、名前の穏やかな雰囲気とひたむきな思いと、一緒にいると自然と頬が緩むような安らぎがアキの心を癒してくれるようになっていた。
煙草の箱を叩いて一本取り出し、百円ライターで火を点ける。最初の一吸いは旨い。深く深く吸い込んでゆっくり吐き出すと、目の前が白く烟る。


−−−今日はまだやる事があるんだった。これを吸ったら、まずは報告書を仕上げてマキマさんの所へ行こう。
少し冷たい風が首筋を撫でていく。ゆっくり瞬きをして煙草を吸うアキの記憶からも、柔らかく笑う名前の顔が消えて行く。アキはそれに気付かない。どこかでカラスが長く鳴いた。







無 色
どうして自分はわざわざ屋上で煙草を吸うのか思い出せなくなってしまっても、アキは本部に寄る度にそうする事をやめられなかった。最後まで、ずっと。





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