滲む紫
△ ▽ △




とん、とん、とん、静かな部屋に小さな音が規則的に鳴り続ける。


「……若」
「あ?」
「そんなに気になるなら、」
「なンも気にしちゃいねぇよ」


紺炉の声を遮るように返した紅丸が、わずかに眉根を寄せる。
とん、とん、とん、また小さな音が空気を振るわす。


「……」
「……」
「…迎えに行きゃあいいじゃねェですか」
「ああ?なんで俺が」


主語のない紺炉の言葉に、紅丸は食ってかかる。静かな詰所の室内にさっきからちいさく響く規則的なそれは、紅丸が無意識に文机を指で打つ音だ。溜まっていた書類仕事を二人で片付け始めたはずなのに、紅丸はとっくのとうに筆を置いている。紺炉は小さな溜め息を吐く。


「名前が気になるンでしょう」
「アイツの酒飲み癖は今に始まったことじゃねェ」
「まあそりゃあそうですが」
「酔ったところで女のくせに力は強ェから問題ねぇだろ」
「まあ、今更若の女に手ェ出す馬鹿はいねェだろうが」
「…なら尚更問題ねェな」


口ではそう言いながら、紅丸の顔はずっと浮かないままだ。相変わらず素直じゃねェな、と内心苦笑しながら、紺炉は壁に掛かった時計を見上げる。間もなく夜の十一時、遅過ぎるとまでは言えないが、若い女が一人で飲み歩くには確かに心配になるような時間ではある。
名前は酒が好きで、特に根を詰めて仕事に打ち込んだあとは反動なのかその傾向がより強くなる。朝まで飲んで川のほとりで寝入っているところを、紅丸が回収したなんて事もあったものだ。特に今回名前は今朝まで四日間、工房に篭り切りだった。皇国で流行りの資材を手に入れたとかで、改良のため寝食を惜しんで試作品を幾本も作っていたのだ。そして今日は朝から紅丸にそれを試させて、改善が必要な点とこのまま活かす案とをしっかり書きとめた。名前はがさつに見える時もあるが、仕事に関しては一切手を抜かず非常にまめだ。夕方まで紅丸に色々試させてデータを取り、そして今後の方向性が確立したと同時に彼女の仕事は一段落する。疲労と開放感に彼女が居酒屋に繰り出してはや五時間、まだ帰ってくる様子はない。

口では何ともなさそうな素振りをしながら、一時間ほど前から紅丸は明らかにそわそわしていた。皇国絡みの書類で大隊長直々に作成しなければならないものを置いたまま、指はずっと机を小さく打ち続けては何度も時計を見上げている。



「まぁでも、酒に飲まれるような馬鹿はどこにでもいるからなァ…名前がそんなのに絡まれないといいが」
「……」


独り言のように呟いた紺炉のせりふに、紅丸がまたじろりと時計を見上げる。
第七の本拠地である詰所は、紅丸の火消しで一時的に住まいを失った人を世話できるくらいには大きい。住み込みの隊員もおり、紅丸も紺炉も独り身であることもあってそうしている。名前は工房兼自宅があるが、詰所に泊まる事がよくある。紅丸の恋人となってからは特に、詰所の雑務を請け負うことが増えたからだ。紺炉に言わせれば立派な花嫁修行であるが、名前が素直に認めた事はない。酒を飲んだ日は特に、紅丸は詰所へ帰ることを彼女に約束させていた。今日もそうだ。



「ああそうだ、先週賭場の近くで妙な奴が出たらしいですぜ。身なりからして浅草のモンじゃなさそうで」
「妙な奴?」
「女に声かけて、写真を撮らせてくれって頼むんだと」
「写真くれぇいいんじゃねぇの」
「それが撮らせると調子に乗って、こういう格好をしてくれ、とか今度は皇国の衣装を着てくれ、とかってしつこいんだとかで」
「……」
「あああと、髪をくれとかって頼むらしい」
「なんだそりゃ…」
「昼間だったし今んとこ着いてっちまった話は聞かねェが…例えば夜で酔っ払った女とかだと、まあ危ねェでしょうね」
「…あのバカはどこに飲みに行ったンだ」
「いつもの店から始まってりゃ…東の方か南の方か。南なら賭場が近い」
「ったく」


紅丸は重そうに腰を上げた。早足で畳を踏んで歩く後ろ姿に、紺炉は苦笑を漏らした。













紅丸は暗がりの夜道を足早に進んでいた。顔だけ見ればいつも通り退屈そうな無表情だが、足取りはどこか急いている。彼女の行き付けの居酒屋で聞くと、しっかり飲んで出て行ったのが二時間前。名前の行動パターンを頭に浮かべて次に向かったのは刺身の美味い居酒屋だったが、これは当たりだった。彼女は刺身をアテに一時間ほど飲んでいたらしい。出る時には、飲み仲間の慎太郎という男と一緒だった。確か慎太郎は新婚だったはずだから、そう遅くまで飲んではいられないだろう。近場のはずだと踏んだ紅丸は二軒外して三軒目、焼酎の品揃えが多い居酒屋でようやく名前の名を聞く。慎太郎は妻が迎えに来て帰って行き、名前は一人で店を出たらしい。それが三十分ほど前。三十分あればとうに詰所に帰り着くはずだから、やはり彼女はまだどこかで飲んでいるのだろう。紅丸は苛立ち混じりに溜め息を落として、ぽりぽりと頭を掻いた。

名前はよく食べるが、さすがに腹は満たされただろう。酒はいくらでも飲める質だから、良い気分でまだどこかの店に入り浸っている可能性は十二分にある。けれどまさかどこかで何かに巻き込まれているなんてことはないだろうな、と嫌な予感も頭を過ぎる。名前はいくらでも飲めるが、酔わない訳では決してない。
気付けば賭場の近辺だった。紅丸にとってはお馴染みな場所だが、賭け事には興味のない名前にはあまり縁がない。


「お、紅ちゃん」
「おう、名前見なかったか」
「名前ちゃん?ああ、それならさっき」
「あっちか」


賭場でよく会う顔馴染みが指差した方向は、表通りから一本入った川べりへ向かう路地だ。まさかまた寝入ってるんじゃねェだろうな、と紅丸が足早に路地に入っていくと、暗がりの奥から聞き慣れた笑い声が聞こえた。


「あはは、どうしてそんなの欲しいの?」
「いやあなんていうかな、そういうのが好きなんだよ」
「へえ、奥さんが?」
「そうそう、綺麗な女の子が好きで」
「ふうん」


果たして探し続けていた愛しの恋人の姿がそこにはあった。川沿いに置かれた簡素なベンチに腰掛けて陽気な笑い声をあげている名前の前には、見知らぬ男が立っている。何だってこんな暗がりに他所の男と二人きりで親しそうに話しているのか、無意識のうちに紅丸は舌打ちを漏らす。


「オイ名前」
「え?あ、紅丸」
「さっさと帰って来いって言っただろうが」
「これから帰ろうと思ってたんだよ」


想像はついていたが、やはりかなり酔っている。紅丸を見て嬉しそうに相好を崩し、やや間延びした喋り方をする。
片や名前の前に立っていた男は、紅丸の登場に悪事がばれたとでも言うように一瞬明らかに狼狽えた。それから慌てて取り繕った平静を貼り付けて微笑む。


「アンタ、見ねェ顔だが」
「あ、ああ、俺は浅草見物に来てる旅行者だから」
「ヘェ、旅行者」
「そう、だからこのお嬢さんに色々教えてもらって」
「…」
「浅草ってのはいいとこだなぁ、いやほんと。じゃあ俺はこの辺で、」


男が逃げの体勢を取った時、酔った女の陽気な声が暗がりに響いた。


「ああ紅丸、その人、奥さんにあげたいってんで私の髪が一条欲しいんだって」
「……あ?」
「でも私の髪、紅丸もお気に入りだしどうしようかな、って」
「…ほう」


へらへらしたままの名前には見えなかったが、紅丸の顔が一瞬鬼のように険しくなった。男がひっと息を飲む。


「あ、いやあそうなんだけど、まあ、彼女酔ってるみたいだし、今日はいいから、うん、」
「…お前最近ここらでよく出る変質者だな?」
「えっいやいや滅相もない。俺はただの旅行客だって」

「あ、そうださっき撮った写真、後でちゃんと送ってくれるって」
「写真だァ?」


暗がりに浮かぶ丸バツの虹彩がぎらりと紅い光を帯びる。名前の呑気な声だけが場違いだ。


「そう、写真!紅丸にも見せてあげるからさ」
「ほう、どのカメラで撮ったんだ」
「え?あ、えーっといや、」
「どれだよ」


後退りし始める男の足がすくんで止まる。紅丸の身体から立ち昇る怒りに射られた男が、震える手で懐からカメラを取り出した。


「へえ、随分と良いモン持ってンじゃねぇか」
「あ」


音もなく男のすぐ前に移動した紅丸が、男の手のひらより随分大きなカメラを手に取って、そして。


「わあ明るい」


名前の笑い声と共に、瞬く間に灰になった。


「とっとと失せろ変態野郎。テメェも灰になりてェか」
「ひっ、」

紅く光る両眼に睨まれて、男はもつれる足で走り去って行った。



「ハァ…帰るぞ、名前」
「えーもう?」
「充分だろ」
「まあ、紅丸と帰るのも悪くないか」


静かになった川べりの道の上、名前が緩慢な動作で立ち上がる。酔っ払いめ、と睨む紅丸の目にはしかし、先程の男に向けたような鋭さは皆無だ。
立ち上がった名前が歩き出そうとして、不意にぐらりと揺れる。舗装されていない川べりには石が多い。紅丸の身体は素早く動いて、よろめいた名前の身体を抱き留める。


「危ねェな」
「あれ?あはは、ごめんごめん」
「ちったァ弁えろ。ガキじゃねぇンだぞ」
「分かってるって」


まだへらへら笑ったままの名前が、紅丸の袖を掴む。事故とはいえ人けのない夜道で抱き合っているような格好だが、彼女はそれを気にする素振りはない。
そこで紅丸が気付く。名前と恋人同士になってしばらく経つが、素面の彼女はなんせ照れ屋でいけない。二人きりになってもなかなか恋人らしい触れ合いを許してくれないし、好きだとかそういうせりふを口にしてくれた事もない。子どもの時分から喧嘩仲間で友人だったから照れ臭い気持ちも分かるには分かるが、紅丸とて男である。本音としてはやっと結ばれた恋人ともっと触れ合いたいし、言葉にして伝えてほしいとも思っている。


「……なあ名前」
「ん?」


紅丸の声に、名前が顔を上げる。未だ紅丸に抱き締められたような格好なのだが、やはり気にする気配はない。暗がりだが夜目の効く紅丸には、腕の中でこちらを見上げる名前の蕩けた表情がよく見える。蕩けさせているのは自身ではなくアルコールだが、この際それはどうでも良い。


「お前、」
「ん」
「…あんまり心配かけんじゃねェ」
「うん、ごめん」


今日の名前は随分素直だ。紅丸の喉がひくりと上下する。


「なあ」
「うん」
「お前は俺のこと、」
「うん?紅丸?」
「あー、まあ、なんだ」
「なに、変なの」
「…」


しかしここで要らない照れを発揮したのは紅丸の方だった。俺の事、好きか、なんてそんな女々しいこと、口にするのが憚られた。


「紅丸のこと、大好きだよ」
「……は」


けれどそんな紅丸の葛藤など毛ほども知らない名前が、またへらりと笑ってそう言った。丸くなった紅丸の目を見上げて、悪戯そうに笑って見せる。


「なに、変な顔して」
「いや、お前が」
「何よ。私が紅丸を好きじゃおかしい?」
「おかしい訳ねェだろ」
「じゃあいいでしょ」


柔らかく笑う名前に、紅丸が腕に力を込める。苦しいよ、と笑う名前の髪に鼻先を埋めて、甘やかな体温に目を細める。


「なあ名前」
「うん」
「お前は俺のモンだろ」
「そうだよ」
「……そうかよ」
「何言ってんの紅丸、当たり前じゃん」
「そうだな」
「ねえ紅丸」
「ん」
「大好き」


今度こそ紅丸は奥歯を噛み締めた。名前が腕を伸ばして、紅丸の背中を抱きしめたからだ。いくらひと通りのない夜道とはいえ、外で抱き合って、あげく甘い言葉を囁くなんて。普段の彼女からは想像出来ない姿に、紅丸はついさっきまでの怒りをすっかり忘れて夢中になる。名前の滑らかな髪を撫で、耳裏を指でなぞり、くすぐったそうに顔を上げた名前の顎に指が行き着く。


「名前」
「ん」


川のせせらぎだけが微かに響く夜の中、促されるまま顔を上げた名前の唇に吸い寄せられるように、紅丸の顔が近付く。音もなく触れ合った熱い唇から、どちらともなく吐息が漏れる。くらりと脳を震わせるのはアルコールの香りの所為か、見慣れない名前の姿に当てられた所為か。このまま掻き抱いてもっと深くまで貪りたいのを、紅丸はすんでの所で踏みとどまる。


「……チッ、帰んぞ」
「ん」


今度こそ恋人の所為で蕩けた眼の名前を担ぎ上げて、紅丸が発火能力を発動させる。急な浮遊感にぐえ、と妙な声を漏らした名前をしっかり抱き留めたまま、詰所まで直線で飛び帰った。









滲む紫








「おう名前、随分寝てたなもう昼だぞ」
「紺炉、おはよう」
「スゲェ声だな」
「笑い事じゃない…紅丸は?」
「いつも通り出てったぞ」
「化け物かアイツは…」
「大体お前がいつまでも素直にならねェからだ」
「はあ?」
「若がヤキモキしてンの気付いてただろ」
「……だってさぁ」
「お前も素直になれねェからって酒に頼るのは辞めとくンだな」
「だって今更照れ臭いっていうか」
「そいつは若もおんなじだ。逃げ回ってっから最終的に痛い目見んだろうよ」
「あーあーはいはい」
「…とにかく今日のとこは寝てろ。部屋から出て来ない方がいい」
「え?別に大丈夫だけど、」
「そうじゃねェ。お前ちゃんと鏡見て来い」
「なにが」
「…若がどれだけ我慢してたかよォく分かる」
「だから何が」
「いいから誰にも会うな。顔洗って鏡見てからな。首もだぞ」
「紺炉はさっきから何の話してるの」




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