能井の猫
△ ▽ △





能井が初めて名前と出会ったのは、寂れた廃墟の片隅だった。能井は仕事を終えて城へ戻るところで、ガラスの残っていない窓から差し込む茜色にすっかり染まった視界の端で、不意に蠢く影を見て視線を遣った。それはひび割れて所々から草の突き出した床に小さくうずくまって、霧のようにケムリに覆われていた。能井ははじめ、今しがた片付けた敵の残党かと警戒した。しかしあっという間にケムリは晴れ、床にうずくまる影が輪郭をあらわにする。女だった。その女は背中まである髪を汚れた床に流れるままにして、ぴくりとも動かずに静かに横たわっていた。怪我人だろうか、と能井はその女に声を掛ける。見たところ怪我はなさそうだし、呼吸も正常だ。まるで眠っているように見えるが、これだけ声を掛けたり揺すっても起きないところを見るとやはりただ眠っているだけではないのかもしれない。そのまま放っておけなかったのは、もちろん心配だったからだ。能井は掃除屋でありながら、根明で優しい心を持っている。一応念のため、とケムリを彼女に吐き掛けて、自分と比べると随分薄っぺらくてちっぽけな身体を抱き上げた。

そうして能井は、彼女を自分の部屋−−煙の城へと連れ帰ったのだ。



















交通事故に遭った。それは間違いない。私は横断歩道を歩いていて、確か信号はちゃんと青だった。早くしないと仕事に遅れてしまう、と急いでいて、ほとんど周りを見ずに小走りになっていた。突然視界の右側で何かが光り、反射的に目を遣った先、そこには壁みたいに大きなトラックのグリルがあった。なんで、どうして、こんなに近くに?目の前が真っ暗になった。目の前だけじゃない、何も見えない。どこか遠くで、ひどく焦った声や泣き声みたいなものが聞こえる。なんとなく、ああ、私は死んだのだ、と思った。大型トラックにはねられて、呆気なく。
死んだのだ、たぶん。死ななかったとしても、大怪我は避けられない。だって走っている大型トラックに轢かれたのだから。なのに、どうして。


「オイお前、大丈夫か?どした?」


私はその声を聞いた。少し心配そうな、でも警戒するようなよく通る声。音が高いから女性の声。だけど目が開かなくて、身体も動かなくて、私の思考のすべては黒い靄に沈んでいく。








「おい能井、なんだコイツは」
「落ちてたから拾って来た」
「ダメだ、元いた場所に戻して来なさい」
「捨て犬じゃねェっつーの」


男と女の声に、私の意識は浮上した。ゆっくり目を開けると、最初に飛び込んできたのは天井できらめくシャンデリアみたいな照明だ。明るさにまぶたがひくりと震える。


「あっ起きた。オイ大丈夫か」


声の方へ視線だけ向ける。真っ赤な髪を重力まるで無視で逆立てた男、化け物かと思った顔の下半分は、どうやらマスクだ。そしてその男よりもっと大きな身体で、しかし真っ白な銀髪に真っ赤な瞳の女。


「お前、廃墟の隅っこで倒れてたンだぜ」
「……あの、ここ、」
「あ、ここは煙の、コイツの城。全然起きねーから連れてきた」
「城?」


なんのことだ。起き上がって、また驚く。シャンデリア輝くこの部屋は、まさしく西洋の城の一室のように豪奢な作りだった。広くて、床がふかふかで、調度品のひとつひとつが繊細で贅沢な雰囲気。どこかアンティークなそれらは綺麗で可愛らしかった。そこで初めて、煙、と言われた赤い髪の男が私に言った。


「お前は何者だ」
「え、と、名前と申します」


あれ、私はどうして名前だけを名乗ったのだろう。普通初対面の人に名乗る時は苗字か、フルネームだ。


「へぇ、名前っていうんだ。俺は能井、よろしく!」
「能井、さん」
「でもオマエなんであんなとこに倒れてたンだ?」
「え?私、トラックに轢かれて…」
「はぁ?トラック?廃墟ン中で?」


廃墟の中?いや、私は道路を歩いていた。仕事に行く途中で、−−−あ、仕事。まずい、無断欠勤、


「んーでも怪我はなかったみたいだけどな。お前家どこ」
「あの、−−あ、れ?」


ここで私はようやく、先程から感じていた違和感の正体を知る。私は自分のフルネームも、住所も、


「……分かりません」
「え?」
「どういう事だ。家がないのか」


能井さんと煙さんが訝しげな視線を向ける。私の家、一人暮らしの小さなアパート、二階の角部屋、そこは覚えている。だけど住所も、私の苗字も、すとんと抜け落ちたみたいに出てこない。


「覚えて、ない、」
「記憶喪失ってことか」


そうか、記憶喪失。確かにそんな感じだ、と、なぜだか他人事みたいにそう思った。


「記憶が無ければ家に帰れないな…どうするんだ、能井」
「うん、俺がちゃんと世話するよ」
「元いた場所まで送って行くのか」
「そうじゃなくて。俺が自分の部屋で世話するってこと」
「…うん?」


煙さんが目を丸くした。私は頭上で交わされる二人のやり取りを、やっぱりぼんやりと聞いていた。







1日目





能井さんの部屋だと言う別の部屋に連れられて来られた。言われるがまま彼女の後ろを歩いて行ったが、廊下にはよく分からない悪魔みたいな銅像や彫像、キノコの絵画が飾られていて、すれ違う人たちは皆防護服みたいな物を着ていた。
能井さんの部屋は広く、あまり女の子らしいものは無かった。シンプルで少し散らかっているけど落ち着く部屋だ。壁には写真が飾ってある。


「ここが今日から名前と俺の部屋な」
「えっと、でも」
「どーせ帰る場所分かんないンだろ。じゃあいいじゃん」
「…はあ」


なんとなく、ここが私の暮らす街ではない事は分かっていた。だってこんな大きな屋敷にこんな派手な人たち、絶対に話題になるだろう。ここを流れる空気は自分の知っているものと何かが決定的に違う。

でもだから、能井さんの提案、というか決定はありがたかった。帰れる気がしなかったから。


「んー、なんか違うな。ちょっと待ってな」
「はい」


突っ立ったままの私を上から下まで眺めて、能井さんはちょっと難しい顔をした。何が違うんだろ、とクローゼットを開ける能井さんの背中を眺める。


「あー、どこ行ったかな…捨てちまったンだっけなぁ…」

能井さんはクローゼットの中身をごそごそ探っている。ぽいぽいと後ろに幾つも服を投げて、それから下の方から白い布地を引っ張り出した。


「あったあった。コレなら名前でも着られンだろ」
「…ワンピース、ですか?」
「俺のお古だけど、物は良いヤツだから」

な、と能井さんが私にワンピースをあてがう。真っ白というよりは生成りに近い色味で、シンプルなワンピースだ。丈も丁度良さそうだし、手にして見ると触り心地も良い。
確かに今の能井さんには小さいだろうな、と思いながら、ありがたく着替えさせてもらった。今朝着た仕事着は砂埃で汚れてしまったから。


「うん!可愛い!」
「え、あ、ありがとうございます」

着替えた私を見て、能井さんは花が咲いたように笑った。とても綺麗だ、と思った。







2日目





・私はトラックに轢かれた
・目が覚めたら能井さんが拾ってくれていた
・能井さんの部屋で暮らすことになった
・苗字と住所は忘れてしまった




朝起きて、ここがどこだったのかしばらく考えた。ふかふかの大き過ぎるベッドの上、すぐ目の前にふわふわの銀色がかった白い髪。ああ、能井さんの部屋だ。
昨日はあれからすぐ眠くなって、食事も摂らず寝てしまった。無断欠勤は二日目だ。そういえばバッグも失くしてしまったから、スマホも手帳も財布もないんだ。


「能井!起きてるか!」


不意に廊下から大きな声が響いて、私はびくりと肩を震わせた。能井さんがむにゃむにゃ言いながら身体を起こす。


「んあ…あ、名前、おはよぉ」
「おはようございます」

まだ目を開けきらないまま、能井さんが笑う。とても可愛らしい。また廊下から能井さんを呼ぶ声がした。


「あ、先輩だ。待ってな名前」

能井さんがすこし急いでベッドを降りる。そして部屋のドアを開ける。あ、寝癖。


「先輩おはようございます!」
「ああ、つーかオマエ、女拾って来たって本当か」
「え?ああ、名前の事っスか」
「一体どういうつもりだ」
「どうもこうも、俺が拾ったンだから俺がちゃんと世話するってだけですよう」


あ、揉めてる。私のことだ。
ドアの前に立つ能井さんの影から見えた顔に、私は思わずひっと短い悲鳴を漏らしてしまった。だって、顔が。


「…そいつか」
「そう!可愛いっしょ?」
「なんか、ビビってね?」
「あれ?あ、先輩のマスクの所為か?」
「俺かよ」


はーーと長い溜め息を吐いて、心臓そのものを模ったマスクをぐいっと親指で押し上げる。現れたのは想像に反して少し幼げな金髪の男だった。


「あの、初めまして」
「……」
「名前といいます」
「……心、だ」


心さんは不機嫌そうな顔のまま、それでもきちんと名乗ってくれた。






5日目





・私は    に轢か た
・目が覚めたら能井さんが拾ってくれていた
・能井さんの部屋で暮らすことになった
・苗字と  は忘れてしまった
・ここは煙さんの城で、ファミリーのみんなが暮らしている
・能井さんはチョコが好き
・能井さんと心さんはパートナーで、掃除屋をしている
・彼らはみんな魔法使いで、普段はマスクを着けている


すっかり能井さんの部屋で過ごすことに慣れてしまった。彼女は私を猫可愛がりしてくれて、夜はいつも抱き締めて眠りに就く。ふわふわの胸に顔を埋めると不思議と何もかもどうでも良くなって、私はあっという間に眠ってしまう。元々寝付きが悪くて睡眠不足になりがちだったはずなのに、すっかり直ってしまった。
たくさん眠っているのに昼間も眠くて、能井さんがいない時はいつも一人で彼女のベッドで丸くなっている。最初は私を警戒していた心さんも、最近は少しずつ話してくれるようになった。お前は本当に猫みたいだな、と、夕食の時に魚のムニエルを分けてくれた。本当は肉の方が好きだけど、心さんがくれたからありがたく頂いた。


「おいで、名前」
「はい」

能井さんはよく、私を抱き上げる。仕事のない日、日課のトレーニングを終えて時間がある時は一緒に出掛けたりもする。城の中を歩くときも、私は大抵彼女に抱き上げられたままだ。たくましい腕に座るようにして、能井さんの首の辺りに腕を回す。ひどく高くなった視線は新鮮で、私はこれが好きだ。


「今日は名前の服を買いに行こうな」
「服ですか」
「ずっと俺のお古ばっかじゃ嫌だろ?」
「…嫌じゃないです、けど」
「ん」
「能井さんは、私にお古着せるの嫌ですか?」
「っ馬鹿、嫌なわけねェだろ。でも名前にはさ、もっと色んな服着て欲しいンだよ、俺が」
「じゃあ、能井さんとお揃いがいいです」
「あはは、りょーかい」


私は彼女のことが好きだ。明るくて元気で、裏表がなくて。得体の知れない私を拾って、こうして可愛がってくれる。本当の居場所はここではないはずなのに、最近の私ときたらずっとこうしていたいだなんて考えている。







92日目





・私は    に轢か た
・目が覚めたら能井さんが    れていた
・能井さんの部屋で暮らすことになった
・  と  は忘れてしまった
・ここは煙さんの城で、ファミリーのみんなが暮らしている
・能井さんはチョコが好き
・能井さんと心さんはパートナーで、掃除屋をしている
・彼らはみんな魔法使いで、普段はマスクを着けている
・煙さんの城は広い
・心さんは能井さんの次に優しい



今日の服装は大きめのフードが付いたパーカータイプのワンピースだ。先日能井さんが新しく買ってくれたもので、厚手で重くてとても着心地が良い。


「あ、名前さん、おはようございます」
「おはようございます」


廊下で防護服姿の誰かとすれ違う。最近は眠ってばかりいないで一人で城内を散歩することも多い。能井さんが仕事に出ている間、ぼんやり歩いたり、図書室で読むともなしに本を眺めたり。


「アレ?名前じゃん。今日は一人か」
「あ、心さん。今日は能井さんが煙さんと出掛けてて」
「ふーん。これから買い物行くけど、お前も来る?」
「え、いいんですか」


廊下をランニングしていたラフな服装の心さんと出会う。今日は心さんは予定がないらしい。城の外には城壁に囲まれた街があるが、そこへは私は一人で出たことがない。いつも能井さんと一緒だ。だけどこの間街に出た時食べたクッキーが美味しくて、あれをまた食べたいと思っていたのだ。
私は心さんの提案に勢いよく頷く。


「おし、じゃー行くかァ」
「え、わっ、」


にっと笑った心さんが、いつも能井さんがするように私を抱き上げる。心さんの腕は能井さんのより硬い。


「先に俺の部屋寄って、着替えてからな」
「あの、心さん」
「ん」
「私、歩けます」
「いーんだよ。能井が名前は歩かせたくないって言ってたから」
「え?」


片腕に私を乗せたまま、心さんのもう片方の手のひらが不意に私の足を撫でる。


「怪我すると悪ィから」
「な…しませんよ、そんな」
「ハイハイ、大人しくしとけ、な」
「もう、心さん」


私には、能井さんが買ってくれた靴がいくつもある。けれど普段は能井さんが抱き上げたまま移動するから、ほとんど履いていないものがたくさんある。

心さんは、少し能井さんに似て来ただろうか。

結局街に出ても私は心さんに抱き上げられたままで、能井さんとよく行くお菓子屋さんの店主には「きょうの騎士様は能井さんじゃないんだな」と笑われた。
心さんは自分の用事が済んだ後、私に小さな石の付いたネックレスを買ってくれた。首輪が要るだろ、と丁寧に私の首にそれを着けて、満足そうに微笑んだ。







223日目





・私は    に   た
・ が    能井さんが    れていた
・能井さんの部屋で暮らすことに  た
・  と  は   しまった
・ここは煙さんの城で、ファミリーのみんなが暮らしている
・能井さんはチョコが好き
・能井さんと心さんはパートナーで、掃除屋をしている
・彼らはみんな魔法使いで、普段はマスクを着けている
・煙さんの城は広い
・心さんは能井さんの次に優しい
・能井さんと心さんは私をとても大切にしてくれる



「名前、メシだよ」
「はぁい」


仕事の日でも、帰って来る日は必ず能井さんは私と夕食を摂る。外食するときもあれば、城の中や能井さんの部屋で食べる時もあって様々だ。そして外食の時は大抵心さんも一緒で、賑やかなので楽しい。


「名前、風呂入ろう」
「うん」


それから能井さんは、ほとんど毎日私とお風呂に入る。小さいなぁ名前は、と口癖のように言いながら、私の身体を綺麗に洗ってくれる。髪も丁寧に洗って、タオルでよく拭いて、ドライヤーもかけてくれる。そしてサラサラになった私の髪に顔を埋めて、幸せそうな笑い声を上げる。


「今日はなにしてた?」
「今日は煙さんとキノコをとったよ」
「偉いなァ、煙の手伝いしたのか」
「それから紅茶とチョコレートをもらったの」
「良かったな、名前」


ベッドの上で、座ったままの能井さんに背中を預けてゆっくり話をする。私の話を聞くのが好きだ、と能井さんはいつも言う。
煙さんは私の事を、能井の猫、と呼ぶ。ペットみたいだからな、と少し呆れたようにいうけれど、確かにその通りだと思うので私は気に入っている。


「おやすみ、名前」
「おやすみなさい、能井さん」


そうしてベッドに横になると、能井さんは私の鼻の頭や頬にキスをする。それで目を瞑ると、私はあっという間に眠くなる。能井さんの高い体温が心地良い。他にはなにもいらない、と思う。





436日目





・ は    に   た
・ が    能井さんが    れていた
・能井さん   で     に  た
・  と  は   しまった
・ここは煙さんの城で、ファミリーのみんなが暮らしている
・能井さんはチョコが好き
・能井さんと心さんはパートナーで、掃除屋をしている
・彼らはみんな魔法使いで、普段はマスクを着けている
・煙さんの城は広い
・心さんは能井さんの次に優しい
・能井さんと心さんは私をとても大切にしてくれる
・能井さんの魔法は怪我や病気を治すものだ
・私は能井さん達が大好き




能井さん達は魔法が使えるが、私は使えない。お前はケムリに包まれていたんだよ、と能井さんは言うけれど、なにも覚えていない。近ごろは記憶が曖昧で、何かいろんなことを忘れているような感覚だけが残っている。


「えっ、心さん?」
「おー名前、能井いるか」
「多分今は、図書室の方に」
「そっか分かった」

夕方能井さんの部屋にいた私が見たのは、血を流した心さんだった。濃い血の匂いに頭がくらりとする。
今日は二人べつべつの仕事だったはずで、能井さんは図書室に調べ物に行っていた。ドア枠に手を掛けたまま方向転換しようとする心さんの膝がかくんと折れて、どさっと重い音を立てて床に倒れ込む。これは大変だ。能井さんの魔法は怪我や病気をたちどころに治してしまう。だから心さんは、能井さんを探しているのだ。


「まってて、私呼んでくる」
「あー、悪いな、頼むわ」
「じっとしててね、心さん」
「はいはい」

辛そうなのに口調はいつも通りな心さんにそう釘を刺して、私は幾日ぶりか走り出す。図書室はよく行くから、最短ルートを採る。


「能井さん!」
「ん、名前?どうした慌てて」
「心さん!怪我、して、」
「先輩が?」

すぐ行く、と能井さんが手にしていた分厚い本を置く。それから代わりに息を切らした私を抱き上げて、風を切って走り出した。
先輩!と能井さんが少し驚い声を上げて、それから私をそっと床に下ろし、心さんの身体に覆いかぶさる様に膝をつく。ふぅぅ、と深い息を吐くと、能井さんの口から黒いケムリが出て来て心さんを覆うように溜まっていく。苦しそうだった心さんの呼吸が落ち着いていく。ああ良かった、間に合ったんだ。


「おー助かったわ」
「名前が部屋にいて良かったっスね」
「そうだな。ありがとな名前」

私はなにもしていないのに、二人から頭を撫でられる。心地よくて思わず目を瞑ると、頬にちゅ、と小さな音と柔らかくて温かい感触がした。驚いて目を開けると、心さんが悪戯そうに笑っている。


「ご褒美な」
「心さん」
「あ、ちょっと先輩!だめですよ名前は俺の!」
「なんだよケチだなぁ」

二人が私の頭上で口喧嘩し始めるのを、私はなんとなく笑って眺めていた。本当に、能井さんと心さんは仲が良い。





   日目









・ここは煙さんの城で、ファミリーのみんなが暮らしている
・能井さんはチョコが好き
・能井さんと心さんはパートナーで、掃除屋をしている
・彼らはみんな魔法使いで、普段はマスクを着けている
・煙さんの城は広い
・心さんは能井さんの次に優しい
・能井さんと心さんは私をとても大切にしてくれる
・能井さんの魔法は怪我や病気を治すものだ
・私は能井さん達が大好き
・私は能井さんの、




私はその日、一人で街を歩いていた。城壁の中は煙さんのものだから、私は自由に動くことを許されている。のんびり歩いて、能井さんにチョコレートを買って帰るつもりだった。能井さんが買ってくれた真新しいワンピースに、柔らかくて薄いサンダル、首には心さんがくれた小さな石付きのネックレス。お気に入りの服とアクセサリーに、私の気分は上々だった。

能井が大好きだって言うチョコレートを入荷したんだ。特別に売ってあげよう。
そう私に言ってきたのは、見知らぬ行商人だった。この街には時々、煙さんが認めた外部の商人がやって来る。だからきっとこの人もそうだ、と私は疑わなかった。

でも実際は、違った。



「お前、能井の猫だろ?」

向こうに停めてあるトラックに積んであるから、見においで。そう言われた時、なんとなくトラックという言葉に脳の片隅が反応した。私は前に、トラックに何か関係があった気がした。なんだっけ、と思い始める前に、目の前の男は人の良さそうな笑みを引っ込めて下卑た笑みを浮かべてそう言った。

ぶわっとケムリが出て、私の目の前は一瞬真っ暗になった。身体中を切り付けられるような痛みが襲ってきて、かは、と浅い息が漏れた。


「アイツには散々世話になったンだ。たっぷり恩返ししてやらねェとな」

行商人の声に底知れぬ怒りと憎しみが乗っていた。ここで死ぬのだ、とぼんやりする意識の彼方で考える。きっと四肢が千切れて、ばらばらになって、血だらけで、


「名前!!」

ああ、死ぬ間際に聞こえた声が能井さんので良かった。きっと気の所為だろうけど。私は本当に、いつも能井さんのことしか考えてなかったな。ケムリの中でわらった。





   日










・能井さん
・能井さん 心さ

・煙 ん
・心さ  能井さん
・能井さん
・能井さ
・  能井 ん
・私 能井さ  、




「なんで効かないンだよ!!!」


バシン、と何かを強く叩き付ける音で、不意に意識が浮上する。

能井さんの声だ。悲しそうだ。なんだか嫌だ。


「……能井、デカい声出すな。名前の身体に障る」
「先輩、なんで俺の魔法が効かないンですか、名前の傷、治せないンですか」
「なんでかなンて俺にも分かんねェよ。それよりオマエ少しは寝ろ」
「名前が苦しんでるのに、寝られるワケねェ…」
「ケムリ出しっぱなしだろ。オマエが死ぬぞ」
「……名前が死ぬなら、俺が生きてても、」
「能井」


目が開かなくて、声も出せない。私はどうなったのだっけ。もつひとつの声は心さんだ。私が苦しんでる?苦しくはない。というか、感覚がもうどこにも無い。だから大丈夫だよ、能井さん。そう伝えたいのに、どこも動かせなくてもどかしい。


「名前は…魔法使いでも、人間でも、なかったのかもな…」
「なに言ってンすか先輩、俺は名前がケムリに包まれてるとこを見つけたンですよ、一番、最初…」
「まァ俺にも分かんねェけどさ」
「どうしよう…名前、ごめんな…」


能井さんの声が震えている。ねぇ、大丈夫だから、謝らないで、


私は−−−









◇ ◇ ◇










煙の城の中庭には、陽の光を浴びて様々な種類の植物がある。ファミリーに入って初めてのブルーナイトを控え落ち着きなく歩き回っていた藤田は、そこでふと見知った白髪に気付いた。


「アレ、能井さん?」
「ん、藤田か」


彼女は中庭の隅、とりわけ大きな木の下にしゃがみ込んでいた。背中に隠れて見えないが、そこに何かあるのだろうか。


「何してたンです?」
「報告」
「報告?誰に…」
「名前だよ」
「名前、さん?」


藤田の頭の中をハテナが飛び交う。名前、そんな名前のファミリーは聞いたことがない。もっとも藤田はまだ全てのファミリーを把握している訳ではないが、しゃがみ込んだ先に魔法使いがいるとは思えなかった。いたとしたら随分小さい。そんなワケが…と藤田は能井の横に回り込む。
そこにあったのは、膝下くらいの高さの石だった。平たくて厚みのある縦に長い−−それはつまり、墓石だ。



「死んじまったンだ。助けられなかった」
「……そう、なんですか」


石を見つめて、能井が心底悔しそうに眉を顰める。そんな顔を見るのは初めてだった。


「名前さんって、スゴイ魔法使いだったンですか?」
「いや?アイツは何にもできなくて…俺の部屋で眠って、昼間は散歩して、そんで俺を恨んでるヤツに殺されちまった」
「え」
「毎日ここに来るンだ、俺。今でも部屋に帰ると、名前が待ってるような気がする」



魔法が使えないヤツが煙ファミリーにいて、能井の寵愛を受ける?藤田は訳が分からなくて黙り込む。

そこに不意に大きな影が差した。


「能井、てめェまたココにいたのか」
「先輩」
「あっ心さん」


少し呆れたような顔で、腕を組んだ心が立っていた。


「仕事だ、行くぞ」
「ハイ」
「…お前がそンな顔してると、名前が悲しむぞ」
「……うん、そうですね」


二人の間にどこか切ない雰囲気が漂う。その顔を見比べて、藤田はまた墓石に目を落とす。俺着替えてきます!と能井が空元気のような声を上げて走って行った。
大きな背中を見送って、残された心が藤田をちらりと見遣る。



「あー、オマエは知らねェか」
「名前さん、ですか?随分大切にされてたん、ですね」
「そうだなァ、アイツが死んだ時大変だったンだよ、能井の奴」
「へぇ、想像つきませんね」
「ま、だろうな」
「……魔法使えなかった、って、能井さん言ってましたけど」
「ん?ああー、まぁ…アイツは能井の猫だったから」
「へ?猫?」


藤田の目が丸くなる。なんだ、猫の話だったのか。それなら魔法は使えないし、能井の部屋で可愛がられるのも分かる。


「……ま、そういうことだ」


心得顔の藤田を見て、心がわずかに口角を上げる。


「あ、じゃあ俺、今度猫缶お供えします!」
「アイツはそんなモン食わねェよ。魚より肉が好きだったし、一番好きなのはチョコチップの入ったクッキーだったな」
「え、猫ってチョコ食べていいんでしたっけ」
「さあな」


またな、名前。心が先程の能井のようにしゃがみ込み、一度墓石を撫でる。それからじゃァ行くわ、と大きな歩幅で去って行く。


「変な猫もいるンだな…」

まぁ、猫とは違うがキクラゲも変わってるしな。藤田はそう納得して、それからもう一度墓石に目を向ける。おや、と思ってよく見ると、墓石の根元に小さな石の付いたネックレスが掛かっていた。きらりと陽光を反射したそれは、なぜだかとても綺麗に見えた。



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