あれから
△ ▽ △



若狭には今、深刻な悩みがある。


「………なあベンケイ」
「ん」
「……やっぱなんでもねェ」
「なンだよ」


夜のジムに再び沈黙が落ちる。片づけを進める慶三に対し、若狭はぼんやりと座り込んだまま上の空だ。
かれこれ一週間以上はこんな状態だ。気の長い慶三であっても、さすがに共同経営者がいつまでもこれでは困る。ミットをきちんと所定の場所に戻して、慶三は若狭の前に立った。


「ワカ、オマエどうしたんだよ」
「ん、……べつに」
「ずっとヘンだろ。何に悩んでンだよ」
「…」


若狭といえば最近、長らく続いた片想いをついに実らせて名前という恋人を得たばかりだ。幸せの絶頂にあると言っても過言ではないはずなのに、ワカが満足そうだったのは最初の二週間ほどの間だけで、そのあとはずっとこの調子だ。いくら付き合いの長い慶三でも、その理由は思い付かなかった。


「名前のことか?」
「……まぁ、」
「付き合ってみたら思ってたのと違ったとか」
「ああ?んな訳ねェだろ」


慶三とてもちろん本気でそう思ったわけではない。彼女とも長い付き合いになるからよく知っているし、大切な友人の一人だ。若狭はそれ以上の時間を彼女と共に過ごしてきたわけだから、今更そんな風にはならないだろう。


「…アイツってさ」
「ん」
「処女じゃねェよな…?」
「……あ?」


こんな時に何の冗談を、と若狭を見た慶三は、その表情を見て声を飲む。至って本気の顔だった。


「…まあ、アイツ男いたからなァ」
「だよなァ」
「オマエまさか、それで悩んでンのか…?」


ちょっと待ってくれ。慶三は頭を抱えたくなる。彼女が真一郎に長い間片想いしていたことはよく知っている。その後行き場を無くした想いを振り切るかのように、恋人を作ってはダメになる負のループを繰り返していたことも。いずれも10代のガキの頃の話ではないのだから、当然名前だって相応の経験があるだろう。もちろん慶三は彼女とそんな話をした事はないけれど。


「いや、別に処女じゃねェのは、まぁいいンだけど」
「じゃあ何だよ」


この期に及んで愛する女が処女じゃなかったことに腹を立てるような男ではなかったことに、慶三は内心すこしホッとする。旧友の知りたくない一面を知ってしまったかと思った。


「……アイツ、名前さァ」
「ん」
「ヤらしてくンねェんだよな…」
「……それは」


なんというかまぁ、ご愁傷様、というか。まあなんとなく話は読めた。つまり若狭はようやく手に入った名前と、さっさと先に進みたいのだ。それを彼女が、どうやら拒んでいるらしい。


「そういう雰囲気に持ってっても、わざと躱してくるっつぅか」
「……」
「無理矢理ヤるのはやっぱ違ェし」
「それはまあ、そうだな」


とりあえず慶三が思ったのは、こんな話を俺にしていたなんて知ったら名前は怒るだろうな、だった。
まあそれはさておき、最近の名前は無駄に出会いと別れを繰り返していた頃より元気で楽しそうに見えた。最初こそ若狭の告白に驚いていたようだが、意識し始めてしまえばあっという間だった。今はちゃんと若狭のことを恋人として大切にしているように見える。若狭は言うまでもなく彼女を大切にしているし、二人の間に漂う空気は時折慶三の方が恥ずかしくなるくらい甘やかだ。昨日の夜だっていつも通り名前が仕事帰りにやって来たが、スパーリング後にわざわざ彼女の汗を拭ってやる若狭に照れ笑いしている姿は完全に慶三など眼中になかった。それだけに、名前が拒むのは確かに不思議ではあった。


「それ、名前には言ったのか」
「なんでヤらしてくんねェのって?」
「おう」
「…言ってねェ」
「言ってみればいいだろ。オマエらそんな遠慮とかするような仲だったか」
「……嫌がられたらと思うと、なんかな」


慶三は意外だった。若狭はいつも飄々として、女の扱いも慣れたものだった。今もジムに通ってくる女性の中には若狭目当ての者が何人かいるが、上手くいなしている。女に対してだけでなく、若狭はそういう男だ。涼しい顔で周囲を観察して、淡々と物事を進めるタイプ。
それがどうやら本気の女相手には違うらしい。それこそ恋に悩む10代のように、どこか不安げにすら見える。


「何考えてンのか分かんねぇ」
「ワカが名前の事分かんねェなんてな」
「…笑い事じゃねェよ」
「ま、好きな女がヤらしてくンなきゃ辛いわな」


名前について慶三が知っている事で、若狭が知らない事など無いだろう。だから慶三に出来るアドバイスはおそらくない。出来ることといえば共感だけだ。


「でもオマエら上手くいってンだろ」
「まァ」
「じゃあ大丈夫だろ」
「普通に今までめちゃくちゃ好きだった女が自分のモンになって、ちょっと抱き締めたくらいで真っ赤ンなってんの見てみろよ」
「あー…」
「これでヤれねェとかマジで地獄だワ」
「それはまあ、確かに…」


珍しくやや早口になるくらいには悩んでいるらしい若狭の肩を、慶三は苦笑しながら飲みに行くぞ、と軽く叩いた。


 




△ ▽ △








「あれ、ワカ」
「おー」


インターホンの音にドアを開けた名前は、少し目を丸くした。最近恋人になった長年の友人だった男が立っていたからだ。
今日は金曜で、会社勤めの名前にとっては華金である。ゆっくり風呂に入って録り溜めたドラマを横目に缶ビールを開けたところだった。


「どしたの急に」
「会いたくなって」
「え」
「なンだよ」


互いの家は友人の時から何度も行き来しているが、連絡なしで突然やって来るのは初めてだった。普段の調子で問い掛けた名前に、若狭は少しばつが悪そうにそんな事を言う。名前の目がさらに丸くなった。


「ワカ、飲んでる?」
「んーベンケイと飲んできた」
「酒臭い」
「…オマエも飲んでンじゃん」


慣れた様子で上がり込んだ名前の部屋のテーブルの上にビールの缶を見つけて、若狭が呟く。


「だって金曜だし」
「あーオマエ明日休みか」
「ワカは仕事でしょ」
「んー」


若狭と慶三のジムは火曜が定休で、あとは適当に交代で休みを取る。土日は社会人が訪れるので、どちらかというと二人は忙しいのだ。
定位置になっているソファーの左側に座る若狭を眺めて、名前は冷蔵庫から缶ビールをもう一本取り出して来る。二人が飲みに行くのはだから月曜の夜が多いので珍しいな、くらいに考えて。つい30分前まで、居酒屋で若狭が慶三相手に溜まった鬱憤を漏らしていたことなど勿論知る由もない。


「かんぱーい」
「オマエもう風呂入ったの」
「だってもう11時だよ」
「ガキかよ」
「絡まないでよ」
「絡んでねぇワ」


一人暮らしの名前の部屋のソファーはそう広くない。二人並んで座って缶ビールを傾ける。


「ベンケイとどこで飲んできたの?」
「ん?駅裏のとこ」
「あー焼き鳥の?」
「そ」
「えー私も行きたかったな」
「オマエはダメ」
「なんでよ」
「なんでも」


じゃれ合うように笑いながら、名前がビールを飲む。ごくりと小さく動く白い喉に、若狭の視線がぴたりと止まる。
慶三相手に行き場のない悩みを打ち明けた事で、少しばかり楽になった気でいた。まあ名前には名前のペースがあるし、男と女では考え方だって違う。友人としての彼女のことはよく知っていても、恋人としての彼女については知らない事ばかりだ。焦らずいけばいい。そんな風に考えていたら会いたくなって、連絡するのも忘れて慶三と別れた足でそのままやって来たわけだったが、いざ名前を目の前にするとそれまでの余裕ぶった考えなど霧散してしまう。

風呂上がりで化粧けのない顔に薄手の部屋着姿、缶ビールに触れる唇、白くて細い首筋、どれも若狭を誘っているようにしか見えなくなる。


「名前」
「ん?」


テレビの方に向いていた視線が若狭の方を向く。無防備で、警戒心なんて微塵もないそんな姿に、若狭の熱はどうしようもなく高まる。

ソファーの背もたれについた片肘に体重を掛けて、ぐっと名前の方へ顔を寄せる。少し目を伏せた彼女の唇に、若狭は夢中で吸い寄せられる。軽く触れ合った唇は柔らかい。体を引いて離れようとした名前のうなじの辺りを、若狭の手のひらが抑えた。


「ん、」
「逃げンな」


ほとんど唇が合わさったまま呟いた声は、若狭自身でも分かるくらい余裕がない。若狭は少しずつ角度を変えて、温かくて柔らかい唇を追い掛けた。逃げるのをやめた名前のうなじから耳に指を這わせて、小さな耳殻を撫でる。彼女の肩が少し震えたのに気を良くした若狭は、身体を寄せてソファーに預けていた方の腕を名前の背中に回した。


「ワ、カ」
「ん」


息継ぎの合間に漏れた掠れた声に、どうしようもなく身体が熱くなった。力の抜けた唇に舌を割り入れて、丁寧に愛撫する。名前の力はどんどん抜けていく。舌をくすぐり歯列を撫でて、若狭は夢中で彼女の咥内を貪った。しばらくそうして好き放題堪能してようやく解放してやると、潤んだ目に少し息の上がった最高の女が腕の中にいた。


「ワカ、急になに、」
「……かわいーな、オマエ」
「は、」
「ん?」


上気した頬を親指で撫でて、若狭が腰を上げる。するりと下りていった腕が名前の肩を軽く押して、背中に回した腕で支えながらソファーの座面に彼女の身体を倒す。まだ息が整いきらない名前が、正気に戻ったかのように目を開いた。


「待ってワカ、」
「なんで」
「なんでって…いまドラマ見てるし」
「録画だろ」
「ビール途中だし!」
「知るかよ」


ほら、まただ。押さえつけられるような体勢になってなお、名前は起きあがろうと肘をつく。30分前までの若狭なら、彼女がその気でないならと紳士な対応を見せたかもしれない。けれど身体に渦巻く溜まりに溜まった劣情とアルコールの所為で、若狭の我慢はもう限界だった。


「…そんな嫌か」
「え?」
「ヤりたくねぇンだろ」
「そ、ういうわけじゃ、」
「毎回そうじゃん」
「…したくない訳じゃ、ない、けど」
「ヘェ?名前は俺とシたい訳?」
「なんかワカ、意地悪だよ」


ソファーに押し倒されたまま、若狭の腕の間で名前が少し眉根を寄せる。


「意地悪じゃねェだろ。俺結構我慢してンだけど」
「………やっぱり?」
「当たり前ェだろ。好きな女といてヤりたくならねェ男がいるかよ」
「…ごめん」


やや開き直り気味の若狭の直接的な言葉に、名前が視線を泳がせる。すこし赤くなった頬に、若狭の唇が触れてまた離れた。
本気で嫌がるなら、理由が知りたかった。どうあっても名前を傷付けたくはないから、どんな理由だろうと受け止めるつもりだった。


「あの、引かないで聞いて、ほしいんだけど」
「なーに」


名前が視線を彷徨わせて、それから意を決したように小さな声で話し出す。


「私…あの、初めてじゃないんだけど、その…あんまりした事なくて、」
「……あんまりって、どのくらい」
「えーと…最初に付き合った人、くらい」
「………は?」


ちょっと待て。若狭の知る限り名前は真一郎亡き後少なくとも五人はカレシがいたはずだ。

名前が羞恥に染まりながら話した内容は、若狭の予想を裏切るものだった。
真一郎を失って二年になる頃、名前は初めて恋人を作った。それもまた半年足らずで別れたのだが、初めて身体を許したのがその男だった。一番最初は痛いだけで気持ち良くない、とは名前も聞き及んでいたが、それはその通りで少しも良くなかった。次は、次こそは、と思ってみたが、自身の快楽を優先させる男に名前は嫌悪感を抱いて別れてしまった。結局身体を重ねる事に悪いイメージがついたままになった名前は、その後付き合った男たちとも結局最後までは出来なかったのだと言う。


「たぶん私、向いてないんだよこういうの」
「つまり濡れねェってこと?」
「……まあ、うん」
「んー」


キスの反応を見る限り不感症には見えなかったが、体の事は他人には分かり得ないこともある。濡れないならそれはそれで、潤滑剤を使うとか方法はある。問題は名前がほとんど男を知らない事を知った若狭の方だ。いい大人だしそれなりの経験はあるだろうし、今まで恋人を作り続ける名前を止めなかったのは若狭だ。ただ彼女を自分の恋人にしてからは、正直元カレ全員殺して回りたいくらいには憎らしかった。これは自分が抱けなかった八つ当たりもあるが。
それがどうだ、彼女は男をきちんと知らないばかりか、幸せなセックスすら知らないままなのだ。ならば自分が骨の髄まで教えてやりたいと思うのは男の性だろう。



「なら、俺で試してみたら」
「試すって、」
「どうしてもダメなら、蹴ってでも止めろよ」
「え」


熱を持った若狭の手のひらが、名前の首筋から下へ下りていく。彼女が息を飲むのが分かって、若狭はどうしようもない愛おしさに目を細めた。


「ねえワカ、?」
「嫌な事はしねェから」
「でも私、」
「いいから、とりあえず俺の事だけ考えとけよ」


性急に重なる唇に反して、手のひらは緩やかに名前の肌を撫でていく。観念したように目を瞑る名前は、知り得ないはずの身体の熱をすでに拾い始めている。


「え、や、待っ、」
「……どこら辺が向いてねェんだよ」
「待って、ワカ、」
「いいから、声も我慢すンな」


楽しそうに微笑む捕食者の瞳に、名前はまた小さく震えた。









 


「なあ、名前」
「…」
「なあって」
「…」
「なンだよ、怒ってンの?」
「……怒っては、ない、けど」



既に日付が変わって一時間以上が経っていた。すっきりした顔でペットボトルを持って来た若狭が見たのは、布団を被って籠城している名前だ。
ソファーで"試しに"始めたのち、名前を抱き上げて寝室に移動して文字通り足腰立たない状態になるまで抱いた。若狭は笑いながらベッドに腰掛ける。


「身体、大丈夫か」
「腰痛い」
「ん」
「喉も痛い」
「水持って来たけど、飲ましてやろうか?」
「……自分でのむ」


若狭の声が楽しそうなのに嫌な予感を覚えて、名前はのそりと顔を出す。汗ばんで額に貼りついた前髪を流してやりながら、若狭がペットボトルを差し出す。


「で、どうだった?」
「……どうって」
「ちゃんと濡れたろ」
「そっ、ういうこと、言う?」
「向いてなくなかったな」
「………ばか」


さっきまで若狭の下であられもない姿をさらけ出していた名前が涙目で睨むのを、若狭は満足そうに微笑んだ。


「なあ名前」
「…」
「ありがとな、頑張ってくれてサ」
「……ワカずるい」
「何が」
「ねえ」
「ん?」


名前が顔しか出ていなかった布団から腕を伸ばす。若狭は促されるがまま名前の方に身体を傾ける。まだ汗のひききらない身体が触れ合って、名前が布団から抜け出てくる。両腕で肩の辺りを抱き締められて、若狭は心地良さに目を細める。


「ワカ、だいすき」
「……俺も好き」


ここは天国だっただろうか。幸せ過ぎて死ぬかと思った。若狭は名前の背中に腕を回して、史上の幸福を抱き締めた。






あれから
僕らの道はつつがなく







「…ワカ、離して」
「やだ」
「ちょっとワカ?どこ触って、」
「オマエが悪いだろ」
「いやいや待って、ワカ明日仕事、」
「休むか」
「はい?」
「ベンケイいりゃ問題ねェし」
「そういう問題じゃない、」
「なあ、明日もシような」
「はっ?」
「名前、こっち向いて」
「待って、って、」
「もうじゅーぶん待ったワ」




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