ここから。
△ ▽ △





秋の風に舞った髪の毛が視界を奪ったから、名前は耳に掛けながら抱えた花束を持ち直した。数えきれないほどやって来たから、もう視界を奪われても辿り着ける気さえする。整然と並んだ冷たい石のうちの一つに、彼女の愛した男が眠っている。


「真ちゃん、来たよ」


佐野家之墓、と彫られた墓石の横面には、真一郎の名も刻まれている。名前は肩に掛けていたバッグを地面に下ろして、抱えていた花束を広げた。
真一郎の眠る佐野家の墓はいつ来てもぴかぴかに綺麗だ。亡くなって数年経つ今も、たくさんの人が訪れる所為だろう。傷んでいた花を片づけ持ってきた花を生けると、名前は墓の前にしゃがみ込んでバッグの中を探り出す。


「ねえコレ、また値上がりしてたよ」


紙箱から煙草を一本取り出して、百円ライターで火を点ける。明々と燃えた先端を見て、名前はふう、と白煙を吐く。それから吸い口を向けて墓石の前に置いた。それからもう一本取り出して火を点け、今度は指の間に挟んだままにする。
名前は普段煙草は吸わない。真一郎に会いに来た時だけ、一緒に一本だけ吸うのだ。あの頃と同じなのに、どこか違う匂いを嗅ぐために。

誰もいない静かな墓地に、二本の白煙が細く立ち上る。


「聞いてよ。また振られちゃった」


真一郎が死んでから、もう五人目の恋人だった。付き合ったのは四ヶ月だが、短い方ではない。毎回一年と保たない名前の恋に、昔馴染みの男達はもう驚きもしない。


「誰かの代わりにはなれない、ってサ」


苦い煙に顔を顰める。時々しか吸わない所為もあるが、いつまで経ってもあまり慣れないものだ。

名前は俺といても、他の誰かを見てる気がする。そう言ったのはつい一昨日別れた男だった。いつも微笑んでいるような穏やかな男で、真一郎とは違うタイプだ。名前の幸せを考えてくれる、誠実な人間だった。なのに彼女は、それを受け入れる事が出来なかったのだ。
他の男を知れば知るだけ、名前は打ちひしがれる。次こそはと何度繰り返しても、真一郎を忘れさせてくれるような相手は現れない。


「真ちゃん、なんで置いてったの」


短くなった煙草を携帯灰皿に押し込んで、名前はゆっくりと手を合わせる。俯いて目を瞑って、そのままじっと静かになる。もう涙は出ないのに、真一郎の笑った顔だけは色褪せない。

















初めて会ったのは、若狭に連れられて行った黒龍の集会だった。まだ結成して直ぐのことだ。若狭の特攻服は白の方が似合ってたのに、と適当な文句を言いながら、それでもあの若狭が宿敵と共に下に着くと決めた男がどんな奴なのか興味があった。


「真ちゃん、コイツが名前」
「お、噂のワカのお姫様か」
「姫なんて可愛いモンじゃねぇけどな」
「えーカワイイじゃん。よろしくな、名前」

すらっとした体躯にリーゼントで、お日様みたいに笑う男だった。もっとゴリゴリのヤンキーかと思っていたから、名前は少し拍子抜けしたくらいだ。

ある日街中で白豹の女と因縁をつけられて絡まれていた名前を、真一郎が助けに入った時があった。こいつに手ェ出すな、と立ち塞がった大きな背中はときめくくらい格好良かったのに、結局真一郎は拳で負けて、名前が得意の足技で相手を沈めた。オマエ強ェんだなァ、と、負けたくせに笑う男に名前は思わず笑ってしまった。総長のくせに喧嘩が弱くて、しかも絡んできた相手は結局真一郎に惚れ込んで黒龍に加入したりして。女のくせに喧嘩の出来る名前のことも、屈託なく褒めてくれた。思えばもうきっとその頃から、名前は真一郎が好きだったのだ。男たちの世界は名前には分からないことも多かったけど、解散する時は少し寂しかった。

「真ちゃん」
「お、名前か」
「開店おめでとう。遅くなってごめんね」
「わざわざありがとな。なんかそうしてると大人みてェだなー」
「大人だよ」
「名前はなんか、妹みたいだからサ」

真一郎が始めたバイクショップには、名前も何度も行った。歳なんてそう変わらないのに、就職した名前を見て目を細める真一郎が少しもどかしかった。

「また振られたんだって?」
「俺の何が悪いンだろーな」
「喧嘩が弱いとこじゃないの」
「それはあんま関係ねェだろ…?」
「さあね」
「そういう名前だって独り身だろ」
「…真ちゃんと一緒にしないでよ」
「ああ?可愛くねェこと言うなよ」
「可愛くないもんどうせ」
「だからそういうこと言うなよ。ワカが悲しむぞ?」
「ワカ関係なくない?」
「さあ?」

バイクを弄りながら笑う横顔も、少し丸まった背中も、大きな手も、どれも名前は大好きだった。相手にされないような女ばかり追いかけて傷付く姿を見ても、どうしたって嫌いになんてなれなかった。

「なあ名前」
「んー?」
「オマエ最近、なんか変わった?」
「そうかなあ?あ、太った?」
「いやそーいうんじゃなくて…なんか」
「なんか何よ」
「んー、何だろうな」
「…真ちゃん、そう言う時は嘘でも可愛くなったな、とかさあ」
「はあ?」
「え?」
「オマエは元から可愛いだろ」
「……ほんと、そういうとこだよ」
「なんだよ」

関係が壊れるのが怖くて告白なんて出来なかったけれど、それでも二人の距離は少しずつ今までとは違うものに変化していた。それに気付いていたのは若狭くらいだったけど、僅かだが確かな変化だった。

「今度海行くか」
「海?」
「コイツの修理終わったら、試運転に」
「いいね、行こうよ」

柔らかく笑う真一郎に、名前は目を輝かせて頷いた。それが最後の日になるなんて、微塵も思わなかったから。



その夜、名前に電話したのは若狭だった。真ちゃんが、と震えた若狭の声が、名前の耳にはまだこびりついて離れずにいる。

それから一ヶ月くらいの記憶が、だから彼女はあやふやだ。若狭がアパートのドアを蹴破って、鬼の形相で飛び込んで来て、それから痩せ細った名前の身体を強く抱き締めた。何やってンだバカ、と珍しく声を荒げる若狭に、名前はしがみ付いてようやく泣いた。

















秋の風がまた一陣、名前の髪と花を揺らしていく。葬儀に参列出来なかった所為か、彼女はしばらくの間ここに真一郎が眠っていると理解はできても信じる事が出来ずにいた。


「真ちゃん、」


今はもう、ちゃんと分かっている。真一郎が死んだことも、自分の恋が実ることはないことも、思い出として片をつけるべきことも。
そして昔馴染みの親友とも言える一人が、ずっと自分のことを案じてくれていることも。


「…ワカがね、心配なの、わたし。多分ワカ、まだ私のこと心配してて」


若狭は昔から、それこそ名前と出会ったばかりの頃から、とにかく女性によくモテた。整った顔立ちと涼しげな笑顔と、穏やかな低い声。性格も優しくて聞き上手だ。そこに喧嘩も強いとくればモテない訳がない。けれど若狭に恋人が出来たことは、名前が知る限り一度もない。男の方が好きなのか、と聞いて本気の上段蹴りを食らいかけた事を思い返して、名前は軽く頭を振った。


「心配しなくていいよって、何度も言ったけど…結局またワカのとこに行っちゃって。ああでも…ワカが彼女とラブラブで私に構ってくれなくなったら、それはそれでちょっと…寂しいんだけどね」


わがままだね、と笑う名前に、応える声は二度と聞こえない。


「……私、ちゃんと幸せになるからね。ワカのためにも、真ちゃんの、ためにも」


小さな背中はその後もしばらく、墓石の前から離れなかった。










△ ▽ △







名前は辟易していた。仕事帰りの駅前で突然声をかけられて立ち止まると、先週合コンで出会った男が立っていた。偶然だね、と微笑んだところまでは良かったのだが、折角だからご飯行こうよ、としつこく言い募ってくる。今日は見たいドラマがあるし早く帰りたかった。


「俺今日、仲間にドタキャンされちゃってさ」
「へえ、じゃあ私はこれで、」
「奢るからさ、こないだ焼き肉好きって言ってたよね」
「あーいや、今日はほんと無理だから」


そういえば合コンの席でもしつこく連絡先を聞かれてなんとか撒いたのだ。名前のタイプではなかった。


「こないだの女の子たちの中で、名前ちゃんほんとダントツに可愛かったからさ、絶対また会いたかったんだよなー」
「はは、」
「こんなとこで会えるなんて運命でしょ、ね」
「あー、いや、」


完全に引いている名前の態度を気にかける様子は微塵もない。ただのナンパ男なら振り切って歩き出すが、合コンにいた以上知り合いの知り合いなだけにあんまり酷い態度も…と名前が迷っている間に、男が不意に彼女の腕を掴む。名前の視線が尖ったことにも、どうやら男は気付いていない。


「行こうよ、ちゃんと家まで送るし!」
「あの、私ほんとに、」


手を振り解こうと名前が一歩身体を引く。と、予想外に何かにぶつかった。通行人か、と謝ろうとした名前が振り返ると、すこし高い位置から聞き慣れた低い声が降ってきた。


「アンタ、俺のツレに何か用」


そこにいたのは若狭だった。それこそネコ科の大型な獣のような鋭い目付きで、男を真っ直ぐ睨みつけている。


「ワカ?」
「誰オマエ。ツレって、名前ちゃんが?」


男は何を思ったのか、対抗するように名前の腕を殊更強く握る。いた、と小さく眉を顰めた名前は、ぶち、と何かが切れる音を確かに聞いた。


「え、ワカ?」
「離せよ不細工」
「ハァ?なんだこのチビ」


あ、それは地雷。血の気が引いたのは名前の方だった。一歩前に出た若狭が、男の腕を握る。ぎり、と音がしそうなほど強く、だ。


「離せ」
「ふざけん、え、いっつ?!」


男の手は名前の腕から離れたが、若狭の手は男の腕から離れない。小柄だから、とか、蹴り技が得意だから、とか思っていてはいけない。若狭は慶三に負けないくらい握力が強い事を、名前はよく知っている。


「二度と名前に近寄ンな」
「なんなんだよ、オマエ、」
「コイツのカレシだけど」
「ハァ?彼氏いないって、」
「残念だったな」


涙目になった男の腕をようやく若狭が手離す。握られていたところをさすりながら尻尾を巻いて逃げていく背中を睨み付けて、若狭は舌打ちを落とした。


「ごめんワカ、ありがとう」
「…なんでああいう変なのにばっか捕まンだよオマエ」
「こないだ合コンにいただけだよ。連絡先とかも教えてない」
「まだそんな事やってンの」


呆れたように息を吐く若狭が、今度は名前の腕を取る。男に握られたあたりが赤くなっていて、思わずまた舌打ちを落とす。


「危ねェ奴もいるから、いい加減にしとけ」
「う…はい、ゴメンナサイ」


若狭は俯いた名前の手首を握り直して、それから何も言わずに歩き出す。え、ワカ、ちょっと、と名前が困惑した声を上げるが、若狭は気にせずさっさと歩いて行く。

少し歩いた先のコンビニの前に、若狭の愛機が停められていた。無言で差し出されたヘルメットを名前が受け取ると、腹に響くようなエンジン音が上がる。送ってくれるのかな、と乗り慣れた様子で跨ると、若狭のGSX250Eは夜の中を走り出した。


「ねえワカ、どこいくの」
「…」
「送ってくれるんじゃないの」
「…」
「ねえワカ?」
「…」


信号で止まる度に名前が声を掛けても、若狭はだんまりのままだった。そのうち名前の方も諦めて静かになる。おそらく今までの人生で親の車より乗ったであろう若狭のバイクの後ろで、名前は流れていく景色をぼんやりと眺めた。

しばらく走った後、バイクが止まったのは東京湾沿いの海浜公園だった。慣れた運転にうとうとしかけていた名前は、まだ暗さに慣れない目を丸くする。


「わあ、久しぶりだねここ」
「ん」


昔、若狭がまだ真っ白い特攻服を着ていた頃、この辺は溜まり場の一つだった。名前もよく来ていたが、黒龍解散からこっちすっかり来る事はなかった。潮の香りと夜の匂い。名前は思わず深呼吸する。


「懐かしいな。まだ真ちゃんもベンケイも知らなかった頃だ」
「そーだな」
「全然変わんないねー」
「変わりようがねェだろうな」


何もないだだっ広い駐車場で、少し歩いた先は防波堤になっている。かすかに打ち寄せる波の音が聞こえた。


「海の方行こうよ」
「落ちンなよ」
「ワカいるから大丈夫」
「バカ」


先ほどまでのなんとなく気まずい雰囲気などすっかり忘れたように、名前がはしゃいだ様子で防波堤の方へ小走りで向かう。溜め息を吐きながら後を追う若狭の声も、なんとなく笑っていた。

防波堤は名前の肩近くまであって、普通なら登るのは一苦労だ。ところが仕事用のヒールを適当に脱ぎ捨てた彼女は、持ち前の脚力でそこへ登ってしまう。素足のままでは危ないだろうと、若狭は靴を拾ってひらりと防波堤の上へ登った。


「ちゃんと履いとけ」
「わあごめん、ありがとう」


屈託なく笑う顔が、暗がりに眩しくさえ見えた。


「昔よくここ散歩したね」
「そうだな」
「あの頃は若かったねえ」
「そりゃそうだろ」


もう何年前になるだろう。子供だった若狭も名前も、いい歳の大人になった。それなのに名前はまだ昔の恋を引きずっているし、若狭もまた片想いを拗らせたままだ。あの頃はただ毎日喧嘩して、名前とバカな話して、バイクを乗り回して。あの頃から若狭は、ずっと名前の事が一番大切だった。男に媚びるでも、守られようとするでもなく、気の合う友人として仲良くなった名前は、気がついた時にはもう若狭にとって何より大切な女の子だった。


「なあ名前」
「んー?」
「オマエ、そろそろ落ち着けよ」
「なにがー?」


のんびり前を歩く名前の背中に、若狭が声を掛ける。波の音は穏やかだ。


「無理に男作ろうとすんな」
「んー、はは、そうだね」
「名前」
「ん」


名前が立ち止まって、若狭の方を振り返る。若狭の色素の薄い目が、暗がりの中で強い意志を持って光って見える。


「あのサ」
「うん?」
「真ちゃんを忘れろとは言わねェけど」
「…うん」
「でもオマエが傷つくとこは見たくねェ」
「…」


名前の瞳が揺れた気がした。若狭は一歩踏み出す。もう一歩踏み出せば、名前の身体はすぐそこだった。そっと伸ばした腕を拒む様子はない。若狭は両手で名前の肩の辺りをそっと抱き締めた。こんな風に抱き締めるのは、真一郎が死んだ後のあの日以来だ。



「ワカ、?」
「オマエが幸せになれるなら、真ちゃんじゃなくても、いいと思ってた」
「…」
「けど、もう充分分かっただろ」
「…ん、?」
「俺が、」
「….」
「俺でいいだろ。俺にしとけ、名前」


ぐ、と腕に力がこもる。名前はそっと目を閉じた。バイクに乗る時、片手はタンデムバーを握るがもう片方は若狭の腰辺りに掴まっている。昔からそうだし、ジムでも互いに触れ合うことは少なからずある。でもこんな風に、優しく抱き締められることは無かった。ずっと仲の良い、気の合う友達同士だったからだ。そこに男も女もなくて−−なのに、さほど身長の変わらないはずの若狭の硬い腕に、首筋の香りに、名前の心臓は早鐘を打っている。


「ワカ、それ、」
「…俺は、オマエが」
「…うん?」
「ずっと前から、名前が好きだった」
「う……え?」


名前が驚いたように目を丸くする顔は、若狭には見えない。けれど手に取るように分かる。何年も何年も、誰よりずっと彼女だけを見てきたから。
真一郎が名前を意識するようになった時、だから本当は悔しかった。幸せを願う気持ちは本物だったけれど、真一郎を殴り飛ばしたいのも本当の気持ちだった。今頃かよ、早くアイツを幸せにしてやれよ、と思ったのだ。なのに、なのに。


「俺が、最後まで一緒にいるから」
「…っ、」


名前の肩がちいさく震えた気がした。
別の誰かが幸せにしてやれるなら、それでもいいかもしれないと思っていた。でも無理に探して、変な男に引っ掛かって、なおさら死んだ男に焦がれて。もう見ていられなかった。自分の知らないところで傷付かれるのは嫌だった。そもそも真一郎だからこそ、彼女を譲る気になったのだ。本当は他の男になんて死んでもくれてやりたくなんてなくて、だけどこの関係が崩れてしまうのが怖くて。

−−だから本当ならもっとちゃんと外堀を埋めて、きっちり惚れさせてから、と思っていたのだけど。


「俺にしとけ、名前」


な、と頭を撫でると、名前が小さく息を吐く。


「ワカ、私で、いいの」
「……オマエなあ、俺が何年片想いしてたと思ってンの」
「何年て…」
「別に急かすつもりはねェよ」
「…うん」
「まあ、あんまり待つ気もねェけど」
「え、」
「バーカ、冗談だワ」


顔を上げた名前の視線を、若狭が間近で受け止める。まだ戸惑いを乗せた瞳は、それでも確かに若狭を映して揺らめいている。

さて、これからどうしようか。まあ何にせよまずは。


「真ちゃんとこ行こうぜ。明日」
「え?なんで、」
「俺が名前の事幸せにするから、心配すンなって言いに?」
「……なにそれ」
「いいからオマエは、もう他の男のとこには行くなよ」







ここから。
動き出す時間を、君と






「やっとか。良かったなワカ」
「まあな」
「せいぜい幸せにしてやれよ」
「当たり前ェだろ。……なあベンケイ」
「ん」
「プロポーズってまだ早ェのかな」
「……俺は、そういうのは分かんねェけど」
「…」
「さすがに昨日の今日でそれは早ェんじゃねェのか」
「俺としては別に早くねェんだけどな」
「それはオマエだけだ。名前の事も考えてやれ」
「んー…まぁ、そうか」
「(名前、大丈夫か…?)」



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