そこには、
△ ▽ △





慶三と若狭の経営するジムには、老若男女さまざまな人間が訪れる。アマチュアで大会に出場する者、プロを目指す者、身体を鍛えたい者、ダイエットしたい者、目的は様々であるが、なんにしろ利用者は多いに越した事はない。木曜の夜は講座の設定がないから、大体静かなことが多かった。最近はコーチングばかりで本気で身体を動かすことが少なかった若狭は、たまにはベンケイを誘って本気でやり合うか、なんて考えていたところだった。がちゃ、とドアの開く音がして、視線と意識が入り口へ向く。


「たのもーう」
「道場破りごっこ長ぇな」
「あ、ワカーお疲れ」
「おう」


のんびりした声の主は、随分長い付き合いになる昔馴染みの女だった。先日道場破りが現れた一件からこっち、彼女の第一声はいつもこれである。



「仕事帰りか」
「ん、疲れた。ベンケイは?」
「コンビニ」
「ふーん」


シンプルなビジネススーツ姿の名前が、壁際のソファーにバッグを放る。受付代わりのデスクに座っていた若狭を気にすることなく、豪快にジャケットを脱ぎながら壁に寄せられた細長いロッカーの一番端を開く。このジムができた当初から、そこは彼女の専用だ。


「あ、着替え無かった」
「オマエこないだ持って帰ったろ」
「そうだっけ」
「……つかもうやらないんじゃなかったワケ」
「そうだっけー?」


適当な調子で笑いながらロッカーを閉める名前に、若狭は静かに溜め息を落とす。コイツまたか。

若狭たちがこのジムを始める前から、名前は趣味でキックボクシングをやっていた。試合に出るとか強い相手に勝つとかを目的とするわけではなく、あくまで身体を動かす目的でだ。特別強い訳ではなかったが、彼女の柔軟性は若狭も素直に羨ましいと思っていたことがあるくらいだった。付き合いの長い若狭が共同経営でジムを始めることになってからは、名前は週一くらいのペースで運動のために通うようになった。彼女はごく普通の会社員で、来るのは大抵仕事帰り。着替えて軽く汗を流して、若さや慶三相手にスパーリングして、すっきりした顔で帰って行く。ところが彼女は先々週、もうボクシングしない、と言ってロッカーの荷物を引き揚げた。彼氏が辞めろって言うから、とも。ちなみにこのパターンは二度目である。


「ねえワカ、相手してよ」
「……準備運動しとけ」

はあい、と間の抜けた返事を聞きながら、若狭はデスクに広げていた会員名簿を閉じた。


名前は男を見る目がない。見た目は良い方だし頭も悪くないので恋人は出来るが、どれも一年と保たない。今回の男は話を聞くだけでも束縛の激しいタイプなのが分かったから、大方昔馴染みとはいえ男だらけのジムに通うのを良しとしなかったのだろう。想像は安易につく。


「また振られたか」
「あんな男こっちから願い下げだよ」
「こないだは結婚出来るかもとか言ってなかったっけ」
「覚えてないなあ」


若狭と名前がリングに上がる。着替えのなかった名前はスラックスにワイシャツ姿だから、あまり派手に動けないだろう。そう思っていた若狭の眼前に、一瞬名前の足の甲が過ぎった。危なげなく躱したものの、若狭はジロリと名前を睨む。


「オマエなあ、俺に当たるなよ」
「当ててないじゃん」
「そういう意味じゃねぇんだワ」
「もっと女の子らしい趣味を見つけなよって」
「あー、」
「料理とか、裁縫とか?」
「ハ、オマエには無理だろ」
「ていうかさあ、押し付けられるのがまず無理」


リズムを刻むようにリングの床を鳴らして、軽い調子でスパーリングを続けながら。名前が苦いものを含んだように顔を歪める。


「…私って本当、男運ないな」
「ねェな」
「なんなんだろ、前世で何かした?」
「知るか」


動き辛い格好のまま、名前が大きく脚を上げる。スラックスの方が着いて来れないのだろう、彼女の唇から小さな舌打ちが漏れるのを聞いて、若狭は笑う。


「大体オマエはさ、」
「なに」
「過去を引き摺り過ぎなンだよな」
「……」


ダメだ、やっぱ脚上がらない、と名前が一方的にスパーリングを切り上げる。さっさとリングを下りていく背中は小さい。

彼女が恋人と続かない理由の大いなるひとつに過去の恋愛があることは、若狭はもちろん慶三も、まだ子供と言っていい歳の千壽でさえも分かっている。名前は昔、佐野真一郎に恋をしていた。


「あっつー」

その辺に掛けてあったタオルを遠慮なく使いながら、名前が結んでいた髪をほどく。続いてリングを下りて来た若狭の方まで、ふわりと甘やかな香りが届く。


「そのタオル、ベンケイの」
「ワカのかと思った」
「どっちにしろやめとけ」
「いいじゃん」


慶三はまだコンビニから戻って来ない。名前はさっきバッグを放ったソファーに背中を預けて脚を投げ出した。楽しそうには見えないその表情の裏で今誰のことを考えているのか、若狭には簡単に分かる。


「……真ちゃんがさ、完璧だったから」
「そーだな」


備え付けの小さな冷蔵庫からペットボトルの水を二本取り出して、若狭もソファーに座る。ありがと、とペットボトルを受け取って、名前は若狭と並んで喉を鳴らしてそれを飲んだ。


「元カレも、最初はちゃんと好きだったんだよ。でもさ」
「ん」
「真ちゃんだったら、って、考えちゃうんだよね」
「最低だな」
「だよねー」


初代黒龍総長、佐野真一郎は、底抜けにイイヤツで見た目も良くて、けれど喧嘩と女はからきしだった。そして名前はずっと、真一郎に片想いしていた。はたから見れば彼女の淡い恋心なんて筒抜けだったのに、当の真一郎だけはそれに気付くことはなかった。けれど黒龍が解散してそれぞれが社会生活に馴染み始めた頃から、彼らの関係は少しずつ変化した。相変わらず真一郎の横で笑っていた名前に、ようやく春が訪れようとしていたのだ。「なんか最近の名前、やけに可愛いんだよな」と真一郎が呟いた時は、若狭もやっとか、と思ったものだ。時間こそ掛かったが二人の関係がようやく実を結ぼうとしていた矢先、しかし別れは突然やって来た。

たくさんの人間でごった返す真一郎の葬儀に、名前は結局現れなかった。何日経ってもまともに連絡が取れず仕事も行かず、アパートの部屋から出て来ない名前を心配した若狭が最終的にドアを蹴破って乗り込むと、やつれた顔に酷い隈を作って、生気を無くした彼女がいた。名前が社会生活に戻れるまでそれから一年近く掛かったわけだが、ずっとそばにいたのは昔馴染みの若狭たちだった。真一郎を失った悲しみはもちろん耐え難いものだったが、当時の若狭は名前まで死んでしまわないよう必死だった。
それから彼女は何度も恋人を作った。合コンに行ったり、友人に紹介してもらったり、どこか何かに急いでいるようにすら見えた。けれど彼女が生きて前を向いてくれるならと、若狭たちはそれを見守ってきたのだ。



「べつに、真ちゃんは私の彼氏でもなんでもなかったのに」
「それはあんま関係ねェだろ」
「真ちゃんだったらこんなこと言わないのに、とか」
「…」
「真ちゃんならきっとこうしてくれたのに、って」
「……それは俺だって、考える時はあるけどサ」
「私一生このままなのかな」
「あ?」


名前の語尾が震えた気がして、若狭は反射的に横を見る。慶三のタオルを握り締めたまま、彼女の目はどこか遠くを見ている。


「真ちゃんのこと、忘れるつもりはないけど。だって真ちゃんより好きになれる人なんて、たぶんいないんだよ」
「…名前」
「思い出にしなきゃって、分かってるんだけどね」
「…そうだな」


名前が無理やり笑顔を作るのを、若狭は横目で眺めていた。
佐野真一郎は、誰にとっても特別な男だった。もちろん若狭にとっても。だから彼女の気持ちは痛いほど分かる。


「まあ、オマエが何人に振られようが、俺は居てやるよ」
「えーこれからも振られる前提なの。ていうかワカの方がさっさと結婚とかしちゃいそう」
「なんか放っとけないんだワ、オマエ」
「もう子供じゃないよ?」
「どうだか」


若狭と名前は、若狭が白豹と恐れられるよりもっと前からの友人だった。名前が真一郎に出会って恋をするより、もっともっと前から。


「おばあちゃんになってもこのままだったらどうしよ」
「そーだな」


そしたら俺がオマエを貰ってやるよ。

喉まで出かかった言葉は、今日も音にならずに胸の奥に溜まっていく。


「ワカ、先に結婚してもいいけど、ちゃんと報告してよ」
「さあな」


ずっとずっと前から誰より大切な女は、若狭が唯一敵わないと認めた男を想い続けている。






そこには、
愛しかないんだけど






「お、名前」
「あ、ベンケイおかえりーおつかれー」
「オマエもう来ないんじゃなかったのか」
「人ってのは日々変わりゆくもんだからね」


「…それで、また言えなかったワケか」
「うるせェよベンケイ。てめェコンビニに何分かかってんだ」
「入っちゃ悪いかと思ってな」
「余計なお世話だ」
「そろそろ言ってやれよ。俺にしとけってよ」
「うるせェ」






×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -