残星を追う
△ ▽ △




今牛若狭は病院が苦手だ。怖いとか嫌いとかでなく、なんとなくその雰囲気や漂う空気が好きになれない。静かで、だけど騒がしくて、痛みや苦しみや恐怖なんかが澱のように重く沈殿している気がしてなんとなく息苦しくなる。それでも若狭は、ほとんど毎日病院へ行く。喧嘩した日も、しなかった日も、彼は大きな病院の自動ドアを抜けて、目を瞑っても辿り着けるくらい通い慣れた一室へ向かった。
病室のドアは大きくて厚いのに、見た目に反して手応えは少ない。軽い力で引き開けた先、陽の光が透ける薄いカーテンの向こうのベッドには、若狭の大切なものが待っている。


「名前」
「ワカ、いらっしゃい」
「おー」


ベッドの上に座ったまま、名前が微笑む。つられて若狭も頬を緩めた。



「調子は」
「いいよ。ワカは?」
「まあまあ」
「いつもそれ」
「いいだろうが」


呆れたように笑う名前は、薄くて淡い色のパジャマに編み目の大きいニットカーディガンを着ている。夏も冬も、いつもそうだ。病院の中は空調が効いていて、外を見ないと季節を感じられない。今日着ているカーディガンは前に若狭が買ったものだ。それに気付いて口角を上げた若狭を、名前が不思議そうな顔で見上げる。


「お土産はぁ?」
「ハイハイ」


ベッドの脇に置かれた椅子に座りながら、若狭が手にしていたビニール袋をベッドに備え付けのテーブルに置く。名前は目をきらきらさせて中を見た。


「ありがとうワカ」
「でもなんで急にトマトジュース」


中身は紙パックのトマトジュースが三本。名前があらかじめメールで頼んでおいたものだ。若狭の声にふふ、と笑みを漏らして、名前は枕元から分厚いハードカバーの本を持ち上げる。


「吸血鬼の気分なの」
「…また妙な本読んでんなあ」


長らく入院している彼女の楽しみといえば、若狭の訪問と読書である。病院を出られない名前は活字の世界で外に出る。


「面白いよ。若者の血がやっぱり一番美味しいの」
「ふーん」
「ちょっと、興味持ってよ」
「へーへー」


吸血鬼の気分の名前に代わって、若狭がトマトジュースのパックにストローを挿してやる。両手で受け取った名前が笑いながら飲み始めて、んーまあまあかな、とまた笑う。

名前の病名がなんだったか、若狭は忘れてしまった。長くて漢字だらけの名前だったのは覚えている。ある日突然、彼女は昏倒した。一緒にいたのは若狭だった。幼馴染みだったからこそ知っていた彼女の母親に電話を掛けて、それから救急車を呼んだのも若狭だった。あれから名前は何度も入退院を繰り返し、そして一年ほど前から退院の予定が未定の入院となった。


「なんか名前、痩せた?」
「そうかな」
「んーなんか、胸ねェなって」
「はあ?多くないだけでちゃんとありますけど」


若狭の視線を睨み返して、名前がまたトマトジュースを啜る。
冗談めかして言ったが、彼女は日々痩せ細っている。毎日会いに来ている若狭でさえ気付くくらいだから、数値に直せばかなり減ってしまったのだろう。

名前は若狭の恋人だった。過去形なのは、一年前に彼女から別れを告げられたからだ。若狭は認めなかったけれど、名前は頑なだった。別れないならもう会わない、と言う名前に、じゃあ別れるから毎日会いに来る、と若狭は返した。彼女の母親には呆れたように笑われたけれど、若狭にとっては名前に会えない事より避けたいものはなかった。



「胸はねぇ、これからまだ育つんだから」
「揉まなきゃ大きくなんねェんだろ」
「どっちにしろワカには関係ないねー」
「はあ?生意気」


腕を伸ばした若狭の指が名前の頬をつまむ。前はもっと掴めたのに、すっかり肉の薄くなった頬に若狭は眉間に力を入れた。

恋人同士ではなくなったけれど、若狭にとって名前は大切なただ一人に違いない。彼女の笑う姿をそばで、出来れば一生見ていたい。だから若狭は、雨の日も風の日も、毎日ここへ通って来るのだ。


「それよりワカ、また喧嘩したでしょ」
「……さあ」
「あのねえ、怪我してなくても分かるんだからね」
「いらねェ第六感育ててンじゃねぇわ」


昔からそうだった。若狭の微妙な変化に名前は誰より早く気が付いて、負けなしで怪我ひとつ負わない喧嘩の後でもすぐに言い当てた。だから若狭は悔しかった。どうして自分は、名前が倒れるまで何にも気が付かなかったんだろう。


「ねぇ、そんな喧嘩ばっかして、いつか刺されたりしないでよ」
「そんなヤワじゃねェよ」
「私より先に死んだら許さないから」
「……俺は」


若狭の声が途切れる。


「なによ」
「俺は死なねェから。オマエも死ぬなよ」
「なにそれ。死なないよ」
「そうかよ」
「私、将来絶対イケメンと結婚して、大きな家で大きな犬を飼うって決めてるから」
「イケメンねェ」


名前の将来の話は、小さい頃から何度も聞いてきたのと変わらない。ペット禁止のマンション住まいの彼女は、ずっと犬と暮らす事を夢見ていた。


「そう。だからワカも、おじいちゃんになるまで勝手に死なないでよ」
「名前もな」


微笑む彼女に、若狭はうまく笑い返してやれない。視線を逸らして頭を掻いて、それから袋の中に残っていたトマトジュースにストローを挿す。


「あ、私の血液」
「久しぶりに飲んだわトマトジュース」
「まあまあいけるでしょ」
「んー」


若狭は名前の夢を叶えてやるつもりだ。ずっとそう思ってきたし、今だってそう思っている。


「俺の血の方が美味いんじゃねェの」
「そう?飲んでみようか」
「名前のよりは美味いだろ」
「私の血は今は薬漬けだからなあ」


屈託なく笑う名前に、若狭も笑う。
吸血鬼ならよかったのに。そしたらきっと病気にだってならないし、望むなら血だってこの体だって、なんだってくれてやるのに。



「……ワカは、」
「ん」
「ワカは私のことは気にしないで、ちゃんと幸せになってね」
「は、」
「将来綺麗な奥さんと結婚して、子供ができて…ワカがパパってなんか想像つかないね」
「…綺麗な奥さんねぇ」
「そう、ワカの遺伝子ならきっと子供もイケメンだよ」
「なら相手はオマエだな」
「あはは、私じゃ相手不足だなあ」
「うるせェ。俺の相手が務まるのなんか名前くらいだろ」
「ふふ、これから色んな人と出会えるから、大丈夫だよ」


何を言っても名前はいつもこの調子だ。若狭は不満げに彼女を横目で睨む。名前は笑ったままだ。


「名前の夢は俺が叶えてやるよ」
「ワカがパパになるまでは死ねないな」
「そん時はオマエがママだけどな」
「ふふ、それはどうかな」


大きな窓から陽の光が差し込んで、名前を包んで眩しく見える。規則的に点滴を落とし続ける四角い箱が、冷たい電子音を立てた。











◇ ◇ ◇












「ワカ!」
「おかえり真ちゃん、てその腕」
「やっぱヒビ入ってたワ」
「あっそ」
「ずっと外で待ってたのかよ?寒かったろ」
「クソほど寒い。早く帰ろーぜ」
「中で待ってりゃ良かっただろ…」
「俺病院嫌いなんだよ」
「えっワカその歳で病院怖いとか」
「バカ違ぇよ」



今牛若狭は病院が嫌いだ。いつも通り向かった病室ががらんどうになっていた時の、言い知れぬ恐怖と焦りがまざまざと蘇るから。名前の母親がひどく苦しそうな顔で、今朝急に、と震える声で呟くように話す姿を思い出すから。



「その腕じゃしばらくバイクは無理だな」
「ワカに乗っけてもらうしかねェなぁ」
「アシにされんのはご免なんだけど」
「なんだよ俺が終わるまで待っててくれたくせに」



前の日までいつも通り笑っていた彼女は、最初に倒れた日と同じように昏倒したのだと聞いた。やっぱり若狭は名前の変化に気付けなかった。例え彼女が微笑みの下で隠していたのだったとしても、気付いてやるべきだったのに。
葬儀には若狭も参列したけれど、その顔を見る事は出来なかった。と言うか、しなかったのだ。彼女の友人達の啜り泣きが響く会場内で、どうして自分は涙が出ないのだろうと考えて、まだ彼女が死んだなんて受け入れていないからだ、と他人事のように思い当たった。



「ワカってなんだかんだで優しいよなぁ、モテるわけだわ」
「僻むなよ自分がモテねェからって」
「クッソ余裕だな!」
「まあ、俺カノジョいるし」
「ええっ?嘘だろ?」
「あー、違ェな、振られたんだったワ」
「えっワカが?」
「いーんだよ。振られても、先に死なれても、俺にはアイツしかいないから」
「え、死なれて、って、」
「ほら早く行こうぜ、ベンケイ待ってんぞ」



真一郎の顔が曇るのを、若狭は気付かない振りをして笑う。



「マジで寒い。真ちゃん肉まん奢って」
「俺腕にヒビ入ってンのに?」
「待っててやったしケツ乗せてやってんじゃん」
「横暴!」
「何とでも言え」
「オイ待てって、ワカー」



今牛若狭は病院が嫌いだ。そして何もしてやれなかった自分は、もっと嫌いなままだ。






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