夢見る徒花
△ ▽ △






竜胆、と呟いた声が、掠れて震えて消えて行く。閉じて行く目を覗き込むようにして、ただ彼女の名前を繰り返し呼ぶ。嗚咽が喉をせり上がる。何処にも行くな、なんて、らしくない言葉が震える唇から滑り落ちる。













「竜胆?」
「…あれ、名前?」
「起きた?なんか寝ぼけてたよ」
「ん、ヘンな夢見たかも…」


珍しいね、と名前が笑った。
眉間に入りっぱなしになっていた力を抜いて、竜胆は深く息を吐く。彼女が開けたのであろうカーテンが揺れて、朝陽が差し込んでいる。

随分悪い夢を見ていた気がする。
名前がベッドに肘をついて、まだ横になったままの竜胆の顔を覗き込む。どこかまだ夢現な竜胆は寝転んだままでぼんやりと彼女を見上げる。朝陽のなかで微笑む彼女は綺麗だ。


「ご飯食べよ、もう出来てる」
「ん、ああ…」


笑いながら寝室を出て行く名前の背中を見ながら、起き上がった竜胆は頭を掻く。悪い夢を見た気がするのだが、どんな夢だったかよく思い出せない。だけど彼女が出て来て、そして別れるような、そんな夢だった。縁起でもないと軽く頭を振って、竜胆はリビングへ向かった。

顔を洗って廊下の向こう、リビングのドアを開けるといい香りが鼻腔をくすぐる。スープマグに湯気のたつスープをよそいながら、名前がまた笑う。


「目、覚めた?」
「ん」
「パン、バゲットにする?食パン?」
「食パン」
「りょーかい」
「ん、……ありがとな」


素直に礼を言ってダイニングチェアに腰掛ける竜胆に、名前がまた珍しい、と笑う。コーンスープ、トースト、ベーコンの入ったサラダにゆで卵。朝食の支度は先に起きた方、時間に余裕がある方がする。名前は朝が弱いから、割合で言えば竜胆の方が多かった。商社に勤める彼女より、出勤時間の定めの無い竜胆の方が自由度が高い所為もある。
向かい合って食事を摂る時、テレビは点けない。スマホも鳴らない限りは触らない。特にルールを決めた訳ではないが、あまりゆっくりと時間を取れない二人の習慣だった。


「ん、美味い。これドレッシング新しいの?」
「そう、会社の人に聞いてね、昨日買ってきたの」
「へえ」
「ナッツ混ぜても合いそうだね」
「ああ、いいなそれ」


名前に言わせると、竜胆は女子力が高い。家事全般はもちろん、料理にもお洒落にも明るい。ネイルを変えると直ぐに気づいてくれるし、別段得意とは言えない名前の料理も必ず褒めてくれる。
彼女が嬉しそうに笑うのを見て、竜胆もつられたように微笑んだ。


「竜胆は今日も仕事?」
「いや、今日は休みでいいかな。特に用ないし」
「ほんと?休み一緒になるの、なんか久しぶりじゃない?」
「あー、そうだな」
「ね。蘭くんとこ行く?」
「いや…今日は家に居たいかな」


ここ最近は面倒な案件が重なった所為で、竜胆は家を空けることが多かった。名前の方も繁忙期で残業や休日出勤続きだったから、改めて思い返せば確かに二人とも予定がない日は随分久しぶりな気がした。
竜胆は頭の中でタスクを確認して、それから昨年から別々に暮らすようになった兄の予定も思い返す。蘭は名前を気に入っていて、だから彼女の休みの日は会いに行くことも多い。酒を飲んだりゲームをしたり、はたまた三人揃って映画を観たり。名前と竜胆が食事を作って、蘭が酒を作る。そんな休日は好きだが、たまには二人きりで過ごしたいと思うのは恋人なのだから当然だろう。



「珍しいね、竜胆がそんな事言うの」
「そうか?」
「うん、でも嬉しいよ」
「…そう」
「今日は二人でゆっくりしよっか」
「ん」


ふにゃりと笑ってみせる名前に、竜胆も微笑み返す。絵に描いたような幸せな朝だ。


朝食の後片付けは竜胆がした。朝食を食べ始める前に回していた洗濯物は、名前がベランダで干している。片付け終わった竜胆がそれを手伝い、そのままベランダの柵に肘をついて電子タバコを蒸す。手持ち無沙汰になった名前が竜胆の隣で同じような格好をして見せる。彼女に煙がかからないように吐き出して、竜胆は笑う。


「コーヒーでも飲むか」
「いいね、竜胆のコーヒー大好き」
「おねだりが上手いな?」
「ふふ、そうかな」


部屋に戻った竜胆がコーヒーメーカーのスイッチを入れる。マグカップを二つ出してカウンターに肘をついた名前はずっと笑っている。ガキか、と貶しながらフィルターをセットする竜胆の口元も笑んでいる。


「……お前は相変わらずだな」
「え?なにが」
「ずっとガキのまま」
「ちょっと?」


名前がじとりと目を細める。


蘭と竜胆、名前は幼馴染みだった。灰谷兄弟が六本木を牛耳るようになった頃、名前の両親は離婚して彼女は隣県へ引っ越した。彼女がこの頃蘭に初恋を抱いていたことを、竜胆は知っている。名前は隠せているつもりのようだけれど。
竜胆と名前が再会したのは、20になった年だ。親元を離れ東京で就職した彼女が街中でしつこいナンパ男に絡まれているところに偶然現れたのが竜胆だった。
竜胆はすぐに大人になった名前に気付く。何故なら彼女は竜胆の初恋の人だったから、とは、名前は知らないことだ。
彼女は当時小さな出版社に勤めており、竜胆と違いまっさらで真っ当な明るい道を歩む人間だった。それでも二人は恋をして、竜胆が堅気でないことを知りながら名前はそれを受け入れた。それから彼女は転職し、憧れだったという商社に就職する。竜胆は裏社会での実力を増す。全ては順調だった。




「美味しい」
「ん」

彼女が選んで買った色違いのマグ。竜胆は知らないが北欧系ブランドのそれは名前のが灰色で竜胆のが藍色だ。
並んでソファーに座ってコーヒーを啜る。名前は竜胆が淹れたコーヒーが好物だ。



「なあ」
「んー?」
「仕事、どう」
「んー相変わらずかな。忙しいけど、上手くやってると思う」
「あの課長は」
「そうそう、この間部長にちょっと怒られたみたいで最近静かだよ」
「そりゃ良かったな」

名前の最近の悩みはパワハラ気質な課長だった。ひどくなるようならどうにか手を回そうと考えていた竜胆は小さく息を吐く。



「竜胆は?仕事どう」
「まあまあかな。あんまデカいヤマがなくて兄貴が退屈してる」
「あはは、蘭くん相変わらずだね」
「まあ俺もちょっと鈍ってる気するけど」
「危険が少ない方が私は嬉しいんだけどね」
「はいはい」

昔と違って竜胆も蘭もほとんど怪我を負うことは無くなった。だけど名前は喧嘩三昧だった二人を知っているからか、時折小言のように言う。

静かな部屋は二人で暮らすには充分すぎるほど広い。日差しに明るく照らされた高層階のマンションは防音もセキュリティーも最高レベルだ。家族で暮らすのにも申し分ない。もし名前が妊娠して子供が産まれたら、三人でこんな朝を迎えられたら。竜胆はぼんやりと考える。あくびが出るような平和な時間も、彼女となら。いや、名前とだからこそ。



「なあ名前」
「んー」
「結婚するか」
「……え」

どっか行くか、みたいな調子で呟いた竜胆を、名前の丸くなった目が捉える。


「りんど、」
「悪くないと思うんだけど」

その目に涙の膜が張るのを見て、竜胆は照れたように視線を逸らす。

そうだ、名前となら、きっと幸せな家庭ってやつを築ける。兄貴も喜ぶ−−−


「……ありがとう竜胆」
「お前はどうなの」
「私は、」
「うん」

名前の目から涙が溢れる。ふにゃりと笑ったまま、大粒の雫が頬をつたう。震える声が、


「できない、ごめん、竜胆」



ばちん、暗転。

幸せな明るい部屋も、光の中で微笑む名前も、照れたように笑う竜胆も、全て暗闇に沈む。








「………また夢だ、」


じっとりと汗ばんだ背中に飛び起きた拍子に滴がつたう。半身に彫り込まれた刺青の境目を幾筋も汗が落ちて行く。思わず目の当たりを覆った手のひらがかたかたと震える。

最愛の恋人が殺されてひと月−−竜胆は眠りに落ちる度、幸せだった日々を夢に見る。


「名前、」


掠れた声が喉からこぼれ落ちる。






夢見る徒花




『続報です。先月帰宅途中に何者かに殺害されたとみられる苗字名前さんですが、警察は通り魔の犯行と断定しました。複数の監視カメラに苗字さんの背後を歩く男の姿が映っており、この男を指名手配として全国的に−−−』




「竜胆?寝てたのか」
「マイキー?どうかしたのか」
「名前殺した奴、見つかった」
「……そうか」
「三途が確保したと連絡があった。お前も来るか」
「ああ…すぐ行く」
「竜胆」
「……」
「俺がやろうか」
「……いい、俺にやらせてくれ」
「そう。蘭がもうこっちに着くみたいだから、早くしないと先越されるぞ」
「分かった。すぐ行く」




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