災いと名の付く男
△ ▽ △
禍福は糾える縄の如し、とは言うものの、私の人生は禍−−災禍と罪禍の連続だった。幼い頃両親を事故で亡くしたのを皮切りにそれは始まった。身を寄せた先、祖母の家が、今度は隣家の火事を貰って全焼する。一年の間に身寄りを無くした私は、十代の殆どを施設で過ごした。退所してからは目的も夢も無いまま、それでもただ何とか生きていた。
いらっしゃいませ、小さいけれどよく通るバーテンダーの声にちいさく会釈する。間接照明が柔らかく灯った薄暗いバーは、小さな音で流れるピアノの音が耳に心地良い。カウンターにつくと、コースターとおしぼりが音もなく差し出される。それから灰皿がことりと小さな音を立てて置かれた。ジントニックを、と短く発した声が、思っていたより疲れた色を滲ませていて笑ってしまった。
すぐに出てきたジントニックの細くて背の高いグラスに口を付ける。ライムの香りが鼻を抜ける。無意識のうちに深い息を吐いた。バッグから出したタバコを一本咥え、ライターで火を点ける。メンソールが血管に溶けて身体の隅々まで巡るような感覚。
「随分久しぶりですね、名前さん」
「うん、マスター全然変わらないね」
「そうですか?」
「ふふ」
カウンターの逆側の端にいるカップルにお酒を出してから、マスターが私の斜め前に立つ。初めてここにきた時のことはまだ覚えている。最初に就職した工場を辞めてすぐ、友人の紹介で働き出したのはキャバクラだった。2年働いて、その後−−−
「最近姿を見掛けなかったので、元気にしているか心配してたんですよ」
「うん?まあ…うん」
「……大丈夫ですか。ここにも何度か、聞きに来られたんですよ」
「そう…」
「名前さんを探してました。私は何も知らないので、お帰り頂きましたけど」
「ありがとう。迷惑掛けたね」
「…名前さんには、贔屓にしてもらってるので」
「いつの話?それ」
私が笑うと、マスターも笑う。
キャバを2年で上がったのは、引き抜かれた所為だ。梵天幹部、三途という男に。その店は梵天のいわゆるフロント企業だった。時折VIP席を陣取る柄の悪い男たちの中に、ピンク色の髪をした彼もいた。
自分でも全く知らなかったのだけれど、私には人を使う才があった。幹部たちは漏れなく曲者変わり者のオンパレードだったけれど、どんな風に配すれば滞りなく仕事が進むか、それが私にはよく分かった。構成員達もそうで、この人はココ君の所、その人は灰谷兄弟の世話係に、と采配するのは私の得意技だった。
そして私は逃げたのだ。
私が梵天で行ったのは人事の采配だけではもちろん無い。売春、クスリ、一発で手が後ろに回る犯罪の数々。脅迫や殺しに関わらなかったのは、拒否したのではなく向いていないと判断されたからだ。やれと言われればやっただろう。
「……この間、彼のボスが来ていきました」
「へ、マイキーが、?」
「ええ、二人一緒に。切羽詰まった様子でした」
「うーん、そっかあ」
マスターの声は心配の色を滲ませている。
それなのに私の方になんの焦りも無いのは、もう諦めているからだ。
吐き出した煙が薄暗い天井付近で薄らいで消えていく。
逃げ出したのは半年前。勿論、金もクスリも盗んじゃいない。だからもし捕まっても、謝れば命くらいは助かるかもしれない。命以外の何を失ったとしても。
「どうするんですか、名前さん」
「……どうしようかなあ。東京湾に身投げでもしようか」
短くなった煙草を灰皿で押し消して、私はのんびりと笑って見せる。
マスターが眉を下げて困ったように微笑んだ。
王を裏切る者はスクラップ。怪しき者は罰する。単純明快で分かりやすい、三途の処刑基準だ。
逃げ出した私は裏切り者に当たるのだろうか。怪しき者、には間違いなく該当するだろう。となれば間違いなく、私は東京湾で魚の餌になる運命である。
そんな凄絶な最期を迎えると分かっていながら、不思議と全く恐怖心が湧いてこない。むしろ私にあるのは、
「もういいの」
「名前さん、出過ぎた事を言いますが、シェルターに避難する手も、」
「ありがとうマスター。それよりお代わりください」
「名前さん…」
マスターの声を遮って、空になったグラスを振って見せる。
新しい煙草を取り出す。指に挟んで、唇に咥える。ライターに親指を、
「名前」
きい、とスツールが軋む音。ふわりと香る嗅ぎ慣れた匂い。カウンターに肘をついた長身痩躯の男が、かちん、とオイルライターの火を灯した。
視界の端で、瞠目したマスターがそっと遠ざかる。顔の前で揺れる小さな火柱に、私は咥えた煙草の先をそっと寄せた。
「春千夜」
「随分探した」
「そう」
「此処にいるなんてな」
小気味良い金属音が鳴る。春千夜がライターの蓋を閉めた音だ。拳銃の安全装置を外す音はもう少し重い。
「どうして逃げた」
「うーん、自分探し?」
「ハッ、よく言う」
「放っておいて欲しかったな」
マスター、ウイスキーダブルで。春千夜が横目で通したオーダーに、少し顔を強張らせたマスターが頷く。
「…クスリと一緒に飲むのはやめなよ」
「残念。今日はまだシラフだ」
「どうだか」
「本当だっつの。記憶トぶと困るしなぁ」
三途春千夜。梵天という巨大な反社会組織のナンバーツーで、首領マイキーの側近。この男のヤバさは桁外れだ。私はそれをよく知っている。
マイキーの為ならどんな汚れ仕事も危険も顧みない忠誠心と、人を殺すことや違法薬物に対しての抵抗感の著しい欠如。好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌い。ただの不良だった頃から、この人の王はマイキーただ一人だ。
あの日キャバクラのVIPルームで、私を見初め裏の世界に落とし込んだ張本人。
「それで?」
からん、と春千夜の手の中のロックグラスが氷の音をたてた。片肘を付いてこちらを覗き込むような体勢で、春千夜の顔にはいつもの笑みが乗っている。
「…なに」
「名前はどうしたい」
少し細めた色素の薄い眼が、ひたりと私を見据えている。意地悪だなと思った。私に選択肢などないくせに。
「私、は」
「ああ、言っとくけど一応聞いただけで、お前に選択権はない」
ほらね。私はこのまま海の藻屑となる運命だ。罪禍を重ねた私にはお似合いのエンディングだろう。
すっかり忘れていた煙草に口を付ける。これが最後の一本なのかもしれないな、なんてぼんやり考える。
「名前」
春千夜の長くて骨張った指が伸びる。私の指から煙草を抜いて灰皿に押し付け、それから空っぽの私の手を握る。冷たい手だ。春千夜はいつも体温が低い。
「俺から逃げられるなんて、考えねェことだ」
「…もう逃げるつもりないよ。疲れたし」
包み込むように重なった春千夜の手に隠れて、私のちっぽけな手は見えなくなる。よく磨かれたカウンターの上、春千夜の手の甲にまだ新しい傷跡が見て取れた。また人を殴ったのだろうか。春千夜は殺しより、いたぶる方が好きだから。
「そう、ならよかった。じゃあ帰るか」
「……帰る?」
「そ、俺ん家な。マイキーにはもう話してある」
「…春千夜の、家」
柔らかく微笑んだ春千夜に眼が釘付けになる。これから行く先は冷凍倉庫じゃないのか。
春千夜の家。彼が「帰る」と表したのは、私が逃げてきたのがそこからだからだ。私は春千夜の、
「殺されるかと思った?」
「どうして、」
「殺してなんてやらねェよ、名前」
「……」
「楽になれると思ったか?犯してきた罪から逃げられるとでも?」
「春、」
「逃げられるわけねェんだよ名前。罪からも、俺からも」
握られた手がじくりと痛む。春千夜がぎゅ、と握り込んだ所為だ。骨が軋むような痛みが強くなる。
罪だなんてよく言う。罪の意識を抱いたことのない男の言葉が背筋をぞわりと這い上がる。
私をキャバクラから引き抜いて、裏の世界に引き摺り込んで、そして。春千夜は私を自分のものにした。身も心も、全てだ。
「俺はテメェをアイシテルからなぁ。そうだろ?」
「……そうだね」
春千夜の手が緩み、親指が私の手を撫でる。冷たい。
私の暮らす家はすぐに引き払われ、住所は春千夜のマンションに変えられた。執着心の強い春千夜は、私を軟禁した。けれど梵天の仕事の手伝いにはよく行ったし、買い物なんかも春千夜を伴って行くことはあった。春千夜は私に暴力を振るったことは無い。それでもその男の怖さを、私はきちんと知っている。
ゆるく囚われたまま生きていても良かった。だけど私は逃げたのだ。そして逃げるのにも疲れて東京へ戻り、此処に来た。思ったより早く見つかったけれど、すべて予定通りだった。見つかって、殺される。罪禍を重ねた私に平穏な死などあり得ないのだから。なのに。
「名前」
春千夜が身を乗り出す。気付けば店内には他の人影はひとつもない。マスターさえも居なかった。
「愛してるぜぇ」
どこか恍惚とした表情で、春千夜の顔が間近に迫る。目を伏せるのと同時に、唇が触れた。手は冷たいのに、唇は発熱しているかのように熱い。愛も罪も、この男の口から聞くとそれだけで呪いのようだ。
逃げ出せたのだ、一度は。だから戻って来なければ或いは、逃げ果せたかもしれなかった。最悪自ら東京湾に沈んだとしても。それなのに私は東京へ、ここへ戻って来た。
「私も愛してるよ。春千夜」
「知ってんよ」
災いと名のつく男
逃げられないし、逃げる気もないのだ。
三途春千夜という男から、きっと始めから。