真夜中の天泣




長い1日が終わった。
日付が変わって間もない真夜中だが、名前はまだ高専に居た。新宿の後始末は終わったものの、高専の後始末は途方もない。破壊された建物はそのままだが、瓦礫の始末は粗方済んでいた。早朝からまた再開となるので、高専職員は一時仮眠を取っている。全員疲れ果てていた。


「はあ……」


月明かりしかない長い廊下。名前は窓を開けて肘をつき、煙草に火を点けた。
四角くて平たいガスライター。夏油が彼女に与えたものだった。誕生日でもなんでもない日に、良いのを見つけたから、と。夏油はそういう男だった。

深く吸い込んだ白煙を窓の外へ吐き出す。
空高く浮いた白い月が、ひとりぼっちでこちらを見下ろしている。



「名前?」
「びっ、くりした、悟か」


不意に声を掛けられて、名前の肩が小さく跳ねた。
包帯を取り去ったままの五条が立っていた。


「寝ないの?」
「なんか眠くなくて」
「んー僕も」
「あ、そ」


名前のすぐ隣、五条は窓に背を預けて立つ。
僅かな光源である月明かりに背を向けているのに、五条の碧眼は妖しく輝く。


「……傑の最期の言葉、聞きたい?」
「聞きたくない」
「えー?」
「名前に何か言うことないか、って聞いた」
「聞きたくないって」
「……今更何もないってさ」
「は…そう」


白煙が夜気に浮かんで消えていく。
名前が口端だけで乾いた笑みを零した。



「名前はさ、傑と行きたかった?」
「何馬鹿なこと言ってんの」
「いや…いいんだ、ごめん忘れて」
「あのさあ悟」
「ん」
「私をなんだと思ってんの。10年の間傑だけ想って生きてきた純情な女の子だとでも思った?」
「…」
「純愛はさあ、今日のとこはもうお腹いっぱいでしょ」
「名前」
「子供みたいにいつまでもうじうじ片想いしたりしない」
「なあ、」
「傑なんて、もう、」
「もういい」


不意に五条の腕が伸びた。名前の腕を乱暴に引き寄せて、その腕に抱き締める。瞳に涙の膜が張った名前の指から、ぽとりと煙草が落ちる。


「…悪かった」
「……馬鹿じゃないの」
「ごめんて」
「もう言わないで」
「了解」


抱き締めた身体が想像より薄くて小さくて、五条は思わず少し力を緩めた。いつもぶっきらぼうでどこか冷めている名前が、たまらなく小さく弱々しく思えた。己が親友を失ったのと同時に、彼女もまた、大切だった男を失ったのだ。それがたとえ大犯罪者でも。

一筋だけ落ちた涙を五条の胸元に吸わせて、名前はそっと五条から離れる。




「……ありがとう」
「んえ?」
「ケジメつけてくれたんでしょ、私の分まで」
「…まあね」


身体が離れた途端、冬の夜気が2人の間を抜けて行く。


「まっ、今回は名前には色々世話になったよ」
「ん、貸しひとつね」


五条が大きな手のひらを差し出す。
ふん、と鼻で笑った名前がその手を取る。こんな風に握手したことなんてなかったな、と名前が頭の隅で考えた、刹那。


「……っ、ちょ、」


握った手をぐい、と引かれ、2人の影は再び重なる。
五条の両腕はあっという間に名前の腰に巻き付いて、高いところにある小さな顔を見上げる名前の目が驚きに揺れた。今度は咄嗟に、と言うよりは、明確な意思を持って大きな身体に覆われている。


「なに、」
「で、今回は何年払ったのさ」
「は?なんで知って、」
「何年」
「そんな大した量じゃ」
「言わないならこのままキスしちゃうけど」
「は?」
「ん?」


低くなった声が耳朶を打つ。鼻先が触れそうな場所まで、真剣な五条の顔が降りてくる。こんな近くで彼の目をみたことはなくて、名前は真剣なその顔に降参するしかなかった。


「な、7年」
「…は?」
「だから、7年」
「……前の時、5年だったよな」
「よく覚えてんね」
「じゃあもうトータルで12年も縮んでんの」
「…まあそうなるね」
「……」


海と空を閉じ込めたみたいな複雑な青を宿した六眼が、一瞬ひどく冷たく細められた。
名前が息を飲んだ次の瞬間、大きな手が片方彼女の顎を固定して、腰に回ったもう片方の手に力が入って、次に気付いた時にはもう焦点の合わない距離に五条の眼があった。夜気に触れて冷たくてかさついた唇が、ほんの一瞬重なった。


「…何すんの」
「すっげえムカついた」
「は、」
「お前死ぬなよ」
「いや死ぬよ。ていうかなんで今キスしたの。私ちゃんと言ったよね」
「12年も減ってんだぞ…」


どうにも会話がいまいち噛み合っていない。名前はわずかに眉間に皺を寄せる。


「傑絶対ェ殴る……」
「あの世で?私どうせ先逝くし殴っとくよ」
「あのさあ…本当笑えないからなお前…」
「ていうかなんであんたにキスされなきゃいけなかったの」
「考えが変わった」
「何の」


この間もちっとも緩まない五条の手の甲を、名前が思い切り抓る。なのにやはり離れていかない五条を、半ば諦めた様子で名前が見上げる。


「名前」
「なに」
「僕のモンになりなよ」
「………うん、嫌だ」
「何でだよ。イエス以外は受け付けない」
「ふざけんな」
「いつ死ぬか分かんないから、名前」
「それはそうだけど」
「もう1日でも惜しいってことじゃんね」
「それはよく分かんない」
「幸せにする。絶対多分」
「だからふざけんな」



いい加減見上げるのに疲れた名前が、はあ、と嘆息して力を抜く。勢いのまま額をぶつけた胸板は硬くて、ごつ、と額の方が痛んだ。


「結婚しようぜ、名前」
「無理。眠い。疲れた。離せ」
「いいって言うまで離さない」
「大きい声出すよ。夜蛾先生呼ぶよ」
「それはやめて」


ムードも何もない唐突なプロポーズに、名前は特大の溜め息で返したのに。五条はなぜだか楽しそうに、彼女の髪に鼻をつけて背中を撫でた。
このクソでかい子供が言い出したら聞かないことなど、長い付き合いの中で名前は身に染みて知っている。


「大体私結婚するなら健人がいい」
「はっ…?なんで七海」
「常識人だから」
「名前は自分で思うほど常識人じゃないよ?」
「悟にだけは死んでも言われたくないね」
「僕にしときな。今度婚姻届貰ってくるね」
「意味が分からない通り越して怖い」
「照れるなよ」


ちゅ、とやけに甘い音がして、名前は頭に口付けられたのだと気付く。なるほど五条は随分と楽しそうで、こういう時は何を言っても駄目だ。


「分かった、悟」
「ん、」
「考えとく」
「えー今決めてよ。さすがに同意なしじゃつまんないじゃん?」
「馬鹿言え。結婚ってのは人生の一大イベントでしょ。そう簡単に決められない」
「だって1日でも惜しいのに」
「…まだ死なないから、私」
「ほんとかよ…」
「本当だよ」


かち合った視線が心の内を探るように重なり合う。五条の目は真剣で、だけどどこか、置いていかれる子供のような不安を乗せている。


「本当だから、離して。寝る」
「医務室?送る」
「いいから。悟も寝なよ」
「じゃあ最後に、」


もう一回。言い終わらない内に再び唇が重なって、今度はちゅ、と愛らしい音を立ててゆっくりと離れる。何の抵抗もしない名前に気を良くしたのか、二度、三度、五条がその小さな口に口付ける。


「抵抗しないじゃん」
「無駄だなって思って」
「さすがよくわかってる」
「…おやすみ」
「ん、おやすみー」


そもそも同意してないんだってば、と反論するのもやめて、名前がそっと五条の胸を押す。
離れた身体が途端に寒くて、恋しいなんて思ってしまいそうな浅はかな思考に蓋をする。


夏油が死んだ。だからその傷を、大人のやり方で舐め合っただけ。とにかく疲れたし、妙に冴えたままの頭は実際の所はまだ眠れそうにない。だけどあのまま抱き締められていたら、何もかも流されてしまいそうだった。
名前は軽く頭を振って、ベッドのある医務室へ急いだのだった。



「…あ、やばい吸い殻忘れた」



ただただ本当に、長い1日だった。



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