時間割と睨み合いながら鞄の中に今日使う教科書、羊皮紙、筆記用具一式を順番に詰め込んで最初の授業の教室へと向かう。教室は時間割にちゃんと書いてあるけれど、こんな大きいお城の中で一つの部屋を見つけ出すなんて一人じゃとても無理だった。重い鞄を抱えながら廊下を彷徨っていると壁からすり抜けてきたひだ襟服の男の人と目が合って肩が震える。

「おや、新入生ですか?そのネクタイの色はグリフィンドール生ですね。何かお困りならこのニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿がお聞きしますよ」
「え、あ…」

まるで空を飛んでいるかのようにふわふわ浮かんでいる男の人は何かを言っているが、彼の名前がニコラスさんという事以外いまいち聞き取る事が出来なかった。でも今はそれよりも透けた身体が気になってしまい、思わず手を伸ばしてニコラスさんの腕に触れてみるがそれは叶わなかった。

「ゴーストを見るのは初めてですかな?」

ゴースト。聞いた事がある単語に頭の中で辞書を捲る。ニコラスさんの腕を透過した指先がひやりとした。ゴーストって確か…。

「ゆうれい」
「?異国の言葉ではそう言うのですか?」

ぽつりと零れてしまった日本語に、ニコラスさんは興味深げに首を傾げた。私はというと、幽霊が実在する事に驚いて、思いっきり固まってしまった。というのも、よく兄に幽霊の怖い話を聞かされては怯えていたからなのだが、ニコラスさんは兄の話で聞いた幽霊と同じには全く見えない。
「ユーレイ」と復唱するニコラスさんにハッと我に返って手に持った時間割を握り締める。そういえば私教室に行く途中だったんだ。早くしないと遅れてしまう。

「先程も新入生が私に道を尋ねて行きました。確か変身術が行われる教室に行きたいと。貴女もそうなら私がお教えする事が出来ますよ」
「み、道…教え…あっ、そう、です!教室、に、行きたいです」
「はい。異国の言葉を教えてくださったお礼にきちんと教室までご案内しましょう」

ニコラスさんの案内で着いた教室には、もう沢山の人が集まっていた。入り口から一番近い席に座ってなんとか間に合った事にホッとして鞄から教科書を取り出す。先生はまだ来る様子が無く、ざわつく教室内にチャイムが鳴り響いた。
「ニャア」と、猫の鳴き声が前方から聞こえて、英語辞書と教科書を見比べていた顔を上げる。
黒板の前、先生の物であろう教科書が積まれた教卓の上に、トラ猫が一匹佇んでいるのが目に入った。

「…?」

何でこんな所に猫がいるんだろう。先生のペットなのかな。
じっと教室に居る生徒達を観察するように見ている猫がなんだか不思議で、同じように私も教室内を見回してみる。
先生がまだ来ていないからか、皆談笑していたり、杖を振り回していたり、教科書を読んでいたりと、思い思いに過ごしている。…先生、遅いなぁ。もう一度猫に視線を戻した時、私は驚愕の声を出しそうになった。

「もう授業は始まっていますよ」

なんと、猫が教卓を飛び降りたかと思えば今朝時間割を配っていた先生の姿に変わったのだ。それはまるで、変身したかのように。
ヒュウ、と前の席の誰かが口笛を吹いて「お見事」と呟く。先生はその人の事を一瞥すると、目を細くする。

「変身術は、ホグワーツで学ぶ魔法の中で最も複雑で危険なものの一つです。いい加減な態度で私の授業を受ける生徒は出て行ってもらいますし、二度とクラスに入れません。初めから警告しておきます」

一気に教室内が静かになり、さっき口笛を吹いていた人は頬を掻いて苦笑していた。丸い眼鏡がよく似合う男の子だ。彼の友達らしき隣の黒い髪が綺麗な男の子に小突かれている。その近くにルーピンくんの姿を見つけて、そういえば彼等は今朝ルーピンくんと一緒に居た人達だと思い出した。

先生は、変身術の担当教師で、マクゴナガル先生、というらしい。

それからマクゴナガル先生は、杖を振って机を豚にして、また戻して見せた。皆が歓声を上げ、私も目を丸くしたまま瞬きを繰り返す。しかし、驚いている暇はない。先生は次に黒板に向かうとスラスラと綺麗な筆記体を書き出し、ノートを取るよう指示してきた。
皆が一斉に羊皮紙を机に広げる音と、インク瓶の底に羽ペンの先が当たる音が聞こえる。慌てて私も羊皮紙を広げて羽ペンにインクを付けるが、使い慣れない羽ペンで書く英字は歪で、全部書き写した頃にはマクゴナガル先生が次に行う事の説明をしていた。

マッチが一人一本ずつ配られて、先生がマッチに向かって杖を振れば、マッチは鋭い針に姿を変えた。

「このように、マッチを針に変える練習をします。それでは始めてください」

周りがマッチに杖を振っているのを見て、私も鞄から杖を取り出しマッチに向かって振る。しかし何も変わらず、時間だけが過ぎていく。

変身術は、魔法の中でも、複雑で、危険。
先生が言っていた言葉を思い出し手が震える。いい加減な態度の人は追い出すって言っていたけれど、もしこれで私がマッチを針に変えられなかったら――…。でも、魔法なんて、使った事ない。

結局、その時間マッチを針に変える事が出来たのは二人だけだった。あの眼鏡の男の子と、黒い髪の男の子だった。それに比べ、私のマッチは最初に配られた時と同じ姿をしたまま机の上に転がっている。それでも私だけじゃなく、他に数人同じ状態の子が居たので少しだけ安心した。

昼食を挟んで一日の授業が全て終了した時、私は部屋に戻ると、直ぐ授業の復習をする為に教科書を開いた。
変身術は仕方がないとはいえ、魔法史は全くわからなかった。何より、先生の喋る英語が聞き取る事が出来ずに、ノートも筆記体を読み取るのにかなりの時間がかかった。結局時間が無くて全部は書き写せなかったのだけれど。
他の教科はギリギリなんとか理解したという状態だ。まだ一日目だというのにこの状況では明日、明後日はどうなる事やら…。
吐いた溜め息は何回目だろう。

「なんか…疲れたな…」

どうして私はここに入学することになったんだろう。私は至って普通の暮らしをしていた筈なのに。

全てを狂わせたあの日。
珍しく父の部屋へと呼ばれ、私宛のその手紙を差し出され、私達が魔法使いである事を告げられた。その時の事は、今でもよく覚えている。
私が魔法使いだといわれても魔法なんて使った事もないし、父はそれ以上何も話してはくれなかった。
大丈夫、大丈夫だ。まだ一日目、頑張らなきゃ。
そう言い聞かせて読めない英語の羅列を読む為に兄から貰った“サルでもわかる英語”という本を開いて、教科書を読むことに専念した。