これは夢だ。
真っ白い部屋の中、誰かが私の頭を優しく撫でてくれている。窓から吹く風がカーテンを揺らして、優しい子守唄が耳に届く。それがなんだか懐かしくて、涙が出そうになった。

声が、遠ざかる。

「おはよう、ナマエ」

重い瞼を開けると、視界に半月形の眼鏡とブルーの瞳が現れた。流れるような銀色の長い髪と鬚がゆらりと揺れる。その人が誰か理解するまで、流石の私もそう時間が掛からず、驚いて飛び起きた。

「ぃたっ…」
「これこれ、ゆっくり起きなさい」

途端に頭が酷く痛みだし、まるで内側から何かが暴れているようで頭を抱える。そんな私を見て校長先生はベッドの周りの仕切りのカーテンから出て行き、直ぐに一人の女性を連れて戻ってきた。女性の手には瓶の様なものが抱えられており、コップにそれを注ぐと差し出される。

「痛み止めです。幾らか楽になりますよ、飲みなさい」
「あ、ありがとうございます…」

ゆっくりとコップを受け取って口に含めば、口の中に苦味が広がり思わず眉を寄せる。
に、苦い…!

「薬なんですから当たり前です!さあ、飲んだ飲んだ!」

一口飲んで手を止めてしまった私を見て、女性がそう急かす。
うえぇ…。あまりの苦さに涙目になりながらもなんとか飲み干せば、女性はコップと瓶を持ってカーテンの向こうへと姿を消した。残ったのは校長先生だけだ。とりあえず状況を確認しようと口を開く。

「あの、ここって…」
「医務室じゃよ」

医務室…?あれ、私、飛行訓練で…急に目の前が真っ暗になって…それで…。

「此処の食事は口に合わんかの?」
「え…?ぁ…いいえ…?」
「ベッドは気に入らんか?」
「…いいえ」

校長先生が何故こんな質問をしてくるのか、私にはいまいちよくわからなかった。でも、少しだけ、ほんの少しだけ眉が下げられているのに気付く。
…今答えた事は全て本心だ。ご飯はあまり食べたことがないものばかりだけれど、不味いだなんて思った事はないし、ベッドも、今まで敷布団であったが、柔らかくて寝心地がいいと思う。
首を傾げて答える私に、校長先生は少し黙ったまま顎髭を撫でて、やがて吐き出すように言った。

「頑張る事と無理をする事は違う」

返す言葉は、見つからない。
そんなつもりは全くないのだ。私はただ、ただただやらなきゃって、頑張っているとは胸を張って言えないし、無理だってーー…本当はやりたくない事をするのは、無理をしているって言うのかな。

沈黙が流れて、何度か視線を泳がせては気付けば俯いていた。

「知らぬ事に戸惑うのも無理はないじゃろう。だが焦る必要はない」

カタ、と校長先生がベッド脇の机に何かを置いた。視線だけをそちらに向けると、校長先生は窓の外を見つめていた。

「気が滅入った時は外を散歩してみるといい。わしもよくそうしておる」

足音が遠ざかったのを聞いてゆっくりと顔を上げる。机の上には、一通の白い封筒とその上に、指の爪程の大きさのルビーが付いたペンダントが置いてあった。
まず、封筒を手に取った。
見慣れた日本語の、癖のある字、そして差出人には兄の名前が書かれている。封に貼られた可愛らしい猫のシールを剥がして、中の便箋を取り出す。

私の名前から始まって、最初の挨拶も程々に、そこには校長先生から手紙が送られて来た事、私から手紙が来なくて心配していた事、体調管理をしっかりする事と返事を書く事…そして最後に、“帰ってきたかったら帰ってきてもいい”と書いてあった。

「…帰りたいよ」

ぽつりと呟く。涙が便箋の上に落ちて、インクが滲んだ。きっと兄の気遣いだ。本当に帰ったりなんかしたら、また兄が私の代わりに父に怒られてしまう。そんなのはもう、嫌だ。

シャツの袖で目を拭って机に手紙を戻す。その時、指先に触れたペンダントの鎖がカチャリと音を立ててそのまま持ち上げてみた。
そういえば、手紙にペンダントの事は書いてなかったな。もしかして、校長先生がくれたのかな…?
ゆらゆらと揺れる真っ赤なルビーを見つめながら、さっきまで窓の外を見つめていた校長先生の姿を思い出す。同じように窓の外に目を向けてみると、校舎から離れた森の近くに小屋のようなものが見えた。