いい匂いがする。
瞼を開けた先に広がったのは鮮やかな水色だった。黄色い鹿の角の形をしたピアスがゆらゆらと揺れていて、開かれた瞳には間抜けな顔の私が映っていた。その瞳が優しげに細められ口元がゆるく孤を描いたところで漸く我に返る。

…え、誰?

全く存じ上げない目の前の男の人は相変わらずにこりと笑いながらソファに寝転がったままの私を見下ろしており、何だか気まずくなってきた。

「おはよー」
「お、おはようございます」

挨拶をされると思っていなくて、戸惑いながら寝起きで少し掠れた声で返事をする。いつまでも寝転がったままでは失礼だろうと身体を起こし、掛けた覚えがない毛布が膝に落ちた。もしかしてこの人が掛けてくれたのだろうか。そう聞けば「そうだよー」となんとも軽い返事が返ってきて礼を言いながらも、この人緩いな…と苦笑いを浮かべる。

それにしても何でここに居るんだろうか。ここ私の家だよね?不法侵入なのか?
そんな事を考えていると昨日結局何も食べずに寝てしまったからお腹が空腹を訴え、キッチンの方からカチャカチャと食器の音が聞こえて其方を見れば、これまた存じ上げない黒い海賊帽に黒い眼帯をした男の人がキッチンに立っているではないか。

「おっ、やっとお目覚めかい?お嬢さん」
「はあ…おはようございます…」

目が合っておたま片手にどうにも普通に声を掛けてくるものだから、状況を理解していない私の方がおかしいのだろうかという気にさえなってくる。取り敢えず顔を洗おうと立ち上がってリビングを出て洗面所に向かったが、顔を洗ってさっぱりしたところで依然リビングから聞こえてくる話し声はそのままで、どうやら夢ではないらしい。

「悪い人達ではなさそうだし…まあいっか…」

多分この街の住人なのだろう。寝ている人の家に勝手に上がり込むのはどうかと思うが、不審者でないのならまあ良しとする。
昨日買ったばかりのタオルで顔を拭き、寝癖を整えようと顔を上げると、洗面台の鏡に映る寝癖が酷い私の後ろからゆらりと出てきた男の顔に心臓が止まるかと思った。

「ってハンディさんじゃないですか」
「おう、起きたか。おはよう。トイレ借りたぞ」

後ろから現れたのは昨日ぶりのハンディさんであった。一瞬何故此処に居るのかと首を傾げたが、そういえばまた明日と言っていた事を思い出して納得する。確か、街を案内してくれるんだっけ。時間とか聞いていなかったからすっかり寝過ごしていたのか。

「じゃあリビングにいる二人はハンディさんのお友達ですか?」
「ああ、そうそう。悪いな、アイツら勝手に着いてきちまって」

なんだ、そうだったのか。ハンディさんの友達なら悪い人じゃないだろう。良かった良かった。

「お嬢さん朝飯出来たぞー…お、取り込み中か?」

洗面所の入り口から覗き込むように顔を出したのは先程キッチンにいた男の人で、私とハンディさんを交互に見て何故かにやにやと笑いだした。

「お前が思ってることは一切無いと思え。ラッセル」
「んだよ、つまんねぇな。まぁいい、お嬢さん朝食出来たから入れよ」
「あ、どうも…」

にこりと人が良さそうな笑みを浮かべて扉を開けてくれるラッセルさん?は意外にも紳士なんだなと思いつつ、我が物顔で言っているけれど此処私の家だよね、というツッコミは心の中だけで留めておく。
リビングに戻ると、部屋の中央に置かれたダイニングテーブルに四人分の食事が並べられていて、既に一人、鹿の角のピアスをした男の人が黙々と焼き魚と白米を頬張っていた。その人の向かい側に腰を下ろし、箸置きに丁寧に置かれた箸を手に取り「いただきます」と呟く。
ご飯とお味噌汁と焼き魚に卵焼き、それにほうれん草のおひたしだろうか。物凄く家庭的な朝食といった感じだ。とても美味しそうな食事を前に、胃袋が早く寄越せと言わんばかりに音を鳴らすが、その前に先程からずっと此方を見つめてくる彼をどうにかしたい。

「あの、さっきは自己紹介もせずにすみません。昨日から此処に住まわせてもらっているなまえっていいます。よろしくお願いします」
「俺はランピーねー、よろしくー」

物凄くあっさり終了してしまった。然しランピーさんは変わることなく此方見続けているし、そんなに寝癖酷かったかなとなんだか気恥ずかしくなって、視線から逃げるように俯いて前髪に撫で付けると、その手を突然捕まえられてしまった。何事!?と驚いて顔を上げると至近距離にランピーさんの綺麗な顔があって、悲鳴を上げなかった私を誰か褒めてくれ。

「ねえねえ」
「な、なんでしょう」
「俺と付き合わない?」
「…月…?」

月とすっぽん?ああ、アナタと私の事ですか。…うん、そうじゃないな。いや、間違ってはいないんだけれども。
いつの間にか頬に伸ばされていたランピーさんの手は、そのまま撫でるように顎へと移動し、クイッと上を向かされた。え、なにこの状況。
視界の端でラッセルさんがにやにやとしながらランピーさんの隣に腰掛けるのが見えて、いや助けろよと視線で訴えてみるものの謎に親指を立てられた。

「ら、ランピーさん、とりあえず離れましょう」
「えー?なんでー?」
「なんでも!切実に!」
「じゃあ付き合おう?」
「いやなんでそうなるの…」

言葉のキャッチボールがいまいち出来ていないんだけども。「いいじゃん、ねっ?」と可愛らしく首を傾げるランピーさんから一刻も早く離れたいのだが、生憎片手は箸を持ったままだし、もう片手はランピーさんに捕まってしまっている。どうすればいいのこれ…と遠い目をしていると、隣から溜め息と共に包帯の巻かれた二の腕がランピーさんの手を叩いた。

「そこまでだ。困ってんだろ」
「もー、ハンディ邪魔しないでよー」

ハンディさんがそう言うと、ラッセルさんもやっとランピーさんの肩を掴んで椅子へと戻してくれた。

「三角関係ktkr」
「ラッセル黙れ。なまえ大丈夫か?」

大丈夫の意味を込めて笑って頷くとハンディさんも笑い返してくれる。なんだか私、ハンディさんに助けてもらってばかりだな。礼を言うと「気にすんな」と返され不覚にもときめいてしまった。
「俺の扱い!」と叫んでいるラッセルさんはもう無視しておこう。

「つーかお前彼女いるだろ」
「えー?いるけど今3人しかいないよー?」
「よし、死ね」

ラッセルさんとランピーさんの会話に、成る程彼はそういう人種だったかと納得して苦笑しか出ない。確かに顔は良いが女の敵め。少し睨んでやれば何を勘違いしたのか「なまえちゃんが付き合ってくれるなら別れるよー」と言ってきた。そんなの聞いて何故私が頷くと思った。もう何を言っても無駄だと思った私は大人しくすっかりぬるくなってしまった味噌汁を啜った。

「ところでこれラッセルさんが作ったんですか?」
「そうだけど、口に合わなかったか?」
「いや、素直にめっちゃ美味しいです」

そう言えばラッセルさんはほんの少し目を見開いて照れたように笑った。然し「惚れたか?」と続けたラッセルさんに、この人モテないだろうなと確信し絶妙な塩加減の魚を口に運んだ。うん、美味しい。