頬を撫でる心地よい風と木々が揺れる音に閉じていた瞼をゆっくりと開けた。寝起きでぼんやりとする頭のまま、辺りに広がる草原とその向こうに広がる街らしき景色を見渡し、瞬きを繰り返す。背中に感じるゴツゴツとした感触に視線を真上に向ければ、茶色い木の幹と枝、生い茂る鮮やかな緑色の葉が此方を見下ろしている。
そうしているうちに私の意識ははっきりとしてきて、視線を広々とした草原に戻してからゆっくりと乾いた唇を動かした。

「何処だここ」

目が覚めたら見知らぬ草原に居ました、なんて何処かのよくある漫画や小説の話だけだと思っていたのだが、そうではなかったらしい。夢でも見ているのではないか、と思ったが先程頬を抓って“これは現実だ”と確認済みである。何故こんな所に居るのか、私は起きる前、否寝る前の事を思い出してみるがどうも記憶が無いのだ。自分の名前はちゃんと分かっている、しかし今迄自分が何をしていたのか何処にいたのか家族の顔すら思い出せない。
記憶喪失、というものなのだと思う。記憶喪失者が自分で自分をそう言うのはなんだか可笑しい感じもするが、何であれそういう分類だろうと自分の中で自己完結しておく。
どうしたものかと小さく息を吐きながら身体を後ろの木に預けてみる。するとゴツゴツとした木の感触と丁度頭のつむじにコツリと何かが当たり、何かが膝の上に落ちてきた。何だ?と落ちてきたそれを手に取ってみれば、どうやらプレートのようだ。

「幸せの木…?」

“ Happy Tree ” と、プラスチック製のそのプレートにはマジックのようなものでそう書き記されていた。
木に預けていた身体を起こし重い腰を上げる。腕を上に上げ、大きく伸びをしてから木を振り向けば木の丁度真ん中に何かが掛けられるようになっているのに気が付く。ああそうか、私の頭に当たってこれが落ちたのか。ということはこのプレートの書かれているのはこの木の名前なのだろう。
見上げてみれば相変わらず大きな大木が佇んでおり、風によって揺れる木の葉達がさわさわと心地いい音色を奏でている。
うん、いい木だ。なんて呑気に頷きながらプレートを元に戻そうとしてなんとなく、裏返してみて少しの違和感に気が付く。何も書かれていない真っ白いプレートが木漏れ日に照らされてキラキラと光りながら微かな凹凸の存在主張しているではないか。
これは…切り傷?
細い刃物のようなもので刻まれた何かに指を這わせて目を凝らす。

「正…一?」

確認するように口に出して読めば、どういう事だろうか、誰かの名前か?と首を傾げてハッとする。
そうか、正の字だ。何かを数える為にここに刻んだんだ。でも、一体何を…?
正の字の数は6だ。6回あるいは6個、6匹…ええい、考えたらキリがないぞ。そう首を振りながら先程から少し痛む頭を手で押さえる。
とりあえず、ここが何処なのかを知らなければ。確か向こうに街があった、そこに行けば何か…

「おい、お前」
「おぎゃあああ!!」

背後からいきなり聞こえた声に悲鳴をあげて振り向けば、目をまん丸くして驚いた顔をしている男の人と目が合った。
び、ビビったぁ…!考え込んでいたからか気配に全く気が付かなかった。というかかなり恥ずかしい叫び声をあげてしまった気がする。
まだドキドキと鳴り止まない心臓を片手で押さえながら落ち着くように深く息を吐く。そして申し訳なさそうにこちらを見ている男の人に向き直った。

「わ、悪いな…驚かせるつもりはなかったんだ」
「いえ…私も叫んだりしてすみませんでした」

お互いに頭を下げながらそう言えば、男の人は「じゃあお互い様だな」と爽やかに笑った。オレンジ色の髪が太陽の様に眩しく、白いタンクトップに首にかけてあるヘルメットは大工を連想させた。
優しそうな人だ、しかもイケメンときた。生きてて良かった。思わず拝みそうになるのを堪えて、私も釣られて笑みを浮かべた。

「ところで、見ない顔だけど新入りか?」
「え?あー…なんていうか…その、目が覚めたらここにいて…」

目が覚める前の記憶が全くないんですよね、と目を逸らしながら言う。正直に言うべきか一瞬悩んだが、ここで嘘をついてもどうにもならないだろうと腹を括る。不審者扱いされなければいいんだけど。
恐る恐る彼に目線を戻すと、彼はまた爽やかに笑うと「じゃあ新入りだな」と背を向けた。

「とりあえず来いよ。案内するから」

あまりにもあっさりと受け流されてしまい驚いたが、ついて来いと言った彼の背中が遠くなって行くのを見て慌てて手に持っていたプレートを戻して追い掛ける。頭の痛みはいつの間にかなくなっていた。

追いついたところで、ふとあることに気付き足を止めてしまった。すると彼も不思議そうに足を止め、私の視線の先に気付いたのか「あぁ、」と苦笑する。
私の視線の先は彼の腕だ、彼には腕がなかった。両腕が二の腕辺りから切断されており、包帯がまかれている。見すぎてしまい彼に嫌な思いさせてしまった事を謝れば「いいよ、別に。気にすんな」と笑ってくれた。
やはりイケメンだった。

「そういえば名前教えてなかったな。ハンディだ。よろしくな」
「私はなまえです。こちらこそ」

そう言って彼、ハンディさんの肩にかけてあった脚立を持てば、ハンディさんは一瞬きょとんとしたが「ありがとな」と呟く。
もう片方の肩にも何やら重そうな鞄をかけていたが、貴重品が入っていたら失礼なので脚立にしたのだがハンディさんが鞄の方を持ってくれないかと頼んできたのでトレードする。どうせなら両方持つと言ったのだが、流石にそれは申し訳ないと断られてしまった。
歩きながら話すのは先程流されたと思っていたここに来た経緯の事で、ハンディさん曰く私のように目が覚めたらここに居たというのはよくある事らしい。ただ、目が覚める前の記憶がないのは初めて聞くという。まあ別に思い出したいと思っている訳ではないので良いだろう。
そんな話をしているうちに街が見えてきた。道路には普通に車が走り、店に入っていく人達、そして近くの公園には子供達が楽しそうに走り回っている姿が見える。きょろきょろと周りを見回して立ち止まっていれば、数歩先にいたハンディさんがこちらを振り向き目が合った。

「ようこそ、幸せの街ハッピータウンへ」

幸せの街、か。なんでここに来たのかも自分が何者なのかもわからないけれど、今はどうでもいい。今はただ、これからこの街で生きていくのだとそれだけはわかった。

「なんだか夢の国みたいな名前ですね」

そう言ってマスコットキャラでもいないかなと歩き出せば、隣に並んだハンディさんが小さく「そうだな」と呟いた。その顔が複雑そうに歪められていたのに私は気付かなかった。







あれからハンディさんに連れて行かれたのは、まず服屋だった。好きなものを選ぶように言われてお金を持ち合わせていない事を話せば私の肩にかけている鞄に視線をやり「中に入ってるから」と告げられる。勿論それは先程ハンディさんから預かった鞄であり、中に入っているというお金も勿論ハンディさんのものだ。
いやいやいや、今日初めてあった見ず知らずの奴にそこまでしなくてもと首を振りながら鞄を返すが受け取ってはもらえず、鞄を持って欲しいと言ったのはこの為かと理解する。
両者共頑なに譲らなかったが、ハンディさんが折れ、「じゃあ貸しにする。いつでもいいから返しにこいよ」と言い渋々頷いた。これは一刻も早く働き口を探さなければならないなと鞄を肩に掛け直して比較的安い値段の服を手に取った。

「本当、何から何まですみません」
「気にすんな、俺がしたくてしてる事だから」

両手いっぱいの買い物袋をゆらゆらと揺らしながらすっかり日が暮れた街を歩く。結局服から食べ物まで全てハンディさんがお金を出してくれた。
街から少し離れた道を歩き、街の大工をしているというハンディさんの家に一度ハンディーさんの荷物を置いて、いい空き家があるのだという話を聞きながらついて行くと一軒の木造の家が見えた。
赤い屋根に赤いポストというどこにでも建ってそうな家にハンディさんと一緒に入り、少し汚れた廊下を歩けばぎしりと音が鳴った。どうやら大分年季の入った家みたいだ。住むところがあるだけ有難いので文句はないが。

「家具は前の住人が置いていった物が残ってるな。ここは定期的に掃除もされてるし安心して住めると思うぞ」

中央に大きなテーブルが置いてあるという事はここはリビングルームだろう。電気のスイッチを弄り、キッチンでガスや水の確認をしているハンディさんを横目に窓に近付いて外を眺める。暗い中にぽつぽつと灯りが見えるのはきっと他の住人の家なのだろう。
お隣に挨拶とかした方がいいのかな。でもさっき確認してみたらお隣というのかは微妙な程かなり離れたところにあったな。
そんな事をぼーっと考えていれば、窓ガラス越しにハンディさんと目が合い振り向く。

「ガスも水も問題ないみたいだし、じゃあ俺はもう帰るな」

そう言い玄関に向かう彼の背中に頭を下げて、今日の礼と別れを告げれば「また明日」とドアは閉められた。それを見届けて部屋の隅に置きっぱなしにしていた袋の山の中から食材の入った袋を持ち上げて冷蔵庫へと押し込む。そしてそのままソファに倒れ込み、天井を見つめる。
今日はなんだか色々ありすぎて疲れた。不安じゃないと言えば嘘になる。でもそれと同時にこれからの生活を楽しみにしている自分もいるのだからきっと大丈夫だろう。
まずは片付けをして、それからーーー…

だんだんと重くなっていく瞼に抗う間もなく意識が遠のいた。