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気づけば白桜と暮らし始めて半月が経過し、常連客のほとんどと顔見知りになった頃。
「いらっしゃいませ」
カランコロンと来客を告げる入り口のドアが開く。お客さんはテラス席の常連さんくらいだったので、隅の席で読んでいた本をテーブルに置いて立ち上がる。そこにいたのは和服の男性と少女、後ろにも2人ほど人影が見える。
「4名様ですか?」
そう問いかけると、
「ましろ!」
忘れかけていた自分のものらしき名前を呼ばれる。
「え?」
「ここにいたのか。探したぞ」
足早に男性の方が近づいてくる。探されていたということは、あの屋敷の人だろうか。そう思った瞬間に体ががたがたと震え、思わず後ずさる。
「ましろ?」
名前を呼ばれてもどう反応していいかが分からない。もしかして、この人があの痕をつけた人なのだろうか。
「ましろ兄様?どうかなさったの?」
男性の後ろから顔を覗かせて、少女の方が男性よりも近くまでやってきて、手を伸ばす。
「何を怖がってらっしゃるの?お家に帰りましょう?」
『家』ということはこの少女も関係者なのか。そう考えると同時にその手を無意識に払っていた。
「にい、さま?」
少女が傷ついたような顔でこちらを見る。その顔にはっとするが、震えが止まらない。
「シロくん?お客様?」
どうしようと思っていると後ろから声がした。奥で経理の仕事をしていた白桜の声だ。車いすの音がして、白桜がこちらへやってくる。そのことを認識すると同時に体が動いていた。足がもつれそうになるのを必死にこらえて、白桜の方へ走る。
「あら。どうしたの?」
走ってきた勢いをそのままに抱きついたのに、白桜は全く動じることもなく、受け止めて背中を撫でてくれる。そして、入り口に目をやり、少し考えた後で、
「一番落ち着いて話を出来る方を1人だけ残して、後の方はテラス席へどうぞ」
と有無を言わせぬ綺麗な微笑みを浮かべた。
何やら揉めていたが、結局、金髪の青年が呆然とする和服の男性と傷ついた顔の和服の少女をテラス席へ連れて行き、黒髪を後ろで縛った青年が店内に残った。黒髪の青年を入り口に近い席に案内すると、白桜は先ほどまで本を読んでいた席にいるように言う。大人しく従って様子を見ていると、白桜はテラス席に3人分の飲み物と今日のオススメである手作りのチョコケーキを出し、それから、黒髪の青年の前に紅茶を出す。さらには自分たち用の飲み物も用意して、青年の正面に車いすを止めてから、こちらにむけて手招きをした。瞬間戸惑えば、車いすのすぐ横に椅子を持ってきて、もう一度手招きをする。その仕草に急かすような雰囲気はなく、ゆっくりと待ってくれていることが分かる。1つ深呼吸をして、その席へと向かう。
座ったのを横目に見て白桜が口を開く。
「初めまして。私はこの喫茶店の店主で白桜といいます。お名前を伺ってもいいですか?」
「りつと言います。一緒に来ているのは、和服の大きい方がちはや、小柄な方がつばき、金髪のがやまと。ちはやとつばきはましろくん、彼の兄と弟にあたりますね」
兄と弟。ちはやとつばき。口の中で反芻してみる。けれど、何も記憶に引っかからない。それよりも少女かと思ったのに弟ということは男なのか。
「あら。弟くんということは男の子なのね。てっきり女の子かと思ったわ」
白桜がさらりと思ったことを代弁してくれた。
「そういう風に育てられたそうで」
りつは苦笑いでそう答える。よく言われるのだろうか。
「今回、こちらに来た用件はシロくんを迎えにきた、ということでいいのかしら」
「そうなりますね」
りつの答えにびくりと肩を揺らす。
「でも、少なくとも私は無理に今すぐ連れて帰る必要はないと思っています」
付け加えられた言葉におそるおそる顔を上げれば、優しそうな困ったような笑顔と目が合う。
「ましろくん」
「・・・はい」
「俺の事は覚えてる?」
「すみません。分からないです」
青年・・・りつの笑顔に怖さは感じない。だからこそ申し訳ない気持ちになって、声が自然と小さくなる。
「自分の名前は分かる?」
「『ましろ』って九十九が呼んだので・・・」
「あぁ、九十九くんに会ったんだね。他に覚えてることはある?」
「何も、覚えてない、です。物の使い方とか名前は分かるけど、それ以外は何も」
「そっか。・・・目が覚めた時、何か怖いことや驚いたこととかはあった?」
優しい声が問いかける。この人になら打ち明けても大丈夫だろうか。ふいに震える手に手が重なる。細くて綺麗なそれは白桜の手だ。白桜の方を見れば、いつもの笑みが返ってくる。
「シロくん。良かったら私にも教えて?それが帰りたくない理由の1つなら、私は知りたいな」
「・・・目が、醒めた時に、体中に、その・・・鬱血痕と、な、わで、縛られたみたいな、痕が、あって。・・・すごく、こわっ、怖くて」
伸びた白桜の手がその上から抱きしめてくれた。
「・・・ちょっと失礼します」
そう言って、りつが席を立つ。抱きしめてくれる白桜越しにその姿を追えば、テラス席へ歩いて行ったりつが、そのまま何も言わずにこちらをじっと見つめていた和服の男性の方・・・ちはやを思いっきり殴ってから何事もなかったかのように戻ってきて、もう一度席に着く。
「すみません。どうしても聞いた以上は先に一発殴らないと気が済まなくて」
にこりと微笑んだりつの顔は晴れ晴れとしていた。
この人なら大丈夫かもしれないと思い、詳しい話を聞くと、りつは全てを知っているわけではないが、と前置きをした上でいくつかの話をしてくれた。千羽陽・・・と書くらしい兄と、舞白、それから椿は母が違う三兄弟であり、呉服屋の店主を務める旧家であること。律は父の代からのボディーガードで現在は主に千羽陽と舞白の身の回りの世話などをしていること。やまとは椿のボディーガードであること。千羽陽が父との折り合いが悪かったこともあり、舞白が当主と店主を務めていたこと。椿の格好は体が弱かったことなどもあり女性として育てられた部分があること。そして、千羽陽の不安定な精神状態を支える為に舞白が尽力していたこと。
「別に好んでそれをされていたというわけではなくて、そうすることで落ち着くからということだったんだと思う。色々と間違っているというのはもちろんだし、それに恐怖を感じるのも仕方のないことだと思う。とても怖い思いをさせてごめん。せめて、目が覚める時に誰かしらが傍にいて、説明だけでもできるようにしておけばよかったね」
「いえ、その。僕も何も聞かずに出てしまったので」
「記憶がないのはきっとその左目の傷が原因だと思うんだ。ちょっとした事故があって、その時に左目の怪我をしたことで発熱して、しばらく意識が戻ってなかったから」
「事故?」
「千羽陽が癇癪を起こして、それを君が止めている時に、場所が中庭だったから砂利で足を滑らせて、転んだ時に受け身を取り切れずに池の周りにあった石にガツンと打ったらしくて。普段から忙しかったから、疲れもあったんだろうね。一応、目自体に損傷はないって聞いたけど、その時点では目が見えないって舞白くん自身が言ってて、その後に発熱。しばらく熱も下がらず、意識も戻らずで、数日後に家を出たという感じかな?」
今でも心配で眼帯をしたままの左目に触れる。中の傷は白桜の知り合いだという町医者に見てもらい、良くなってきているが視力は戻っていない。
「そう、だったんですか」
「うん。それで、提案なんだけど、もし白桜さんが良いならこのままここで生活した方がいいかなと思う」
律の言葉に弾かれるように彼を見れば、いきなり言われても受け入れるの難しいでしょ?と聞かれる。それに頷けば、それまでずっと黙って話を聞いていた白桜が口を開く。
「私はシロくんなら大歓迎よ。距離があるみたいだからあれだけど、ここに来てもらって少しずつ話をしてみてから決めるとかそういうのでも良いんじゃないかと思うし。どちらにせよ、今すぐに決めることでもないでしょう?喜んで預からせてもらうわ。引き取ってもいいくらいだし」
茶目っ気たっぷりに笑うその表情に曇りはない。
「・・・お願いします」
小さく頭を下げれば、そのまま白桜に頭を撫でられた。
ギャーギャーと騒ぐ千羽陽と、名残惜しそうな椿と付きそうやまとを連れてその日、律は帰っていった。帰り際、手を払ってしまったことを少し離れた場所から謝罪すれば、気にしないで欲しいと悲しそうな顔で微笑まれた。
話を聞いた今でも、全てを受け入れることなどできないし、全てが真実だとも思えなかった。今でも恐怖は渦巻いていて、律は優しい人だと感じたけれど、兄と弟という存在を受け入れることは難しそうに感じる。いつまででもここにいていいという白桜の言葉を胸に舞白は震える体をただ抱きしめた。