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夕方の海はとても暖かい感じがするのにどこか寂しい。電車をいくつか乗り継いでやってきたのは県をいくつか跨いだところにある海。人通りが少ない町は静かで、それでいて優しい雰囲気を纏っている。
砂浜に降りる階段に腰をかけて水平線を眺める。空と海が交わる場所。とても遠いそこは確か4.4メートル先なのだという話がどこかにあった。とても遠く見えるのに、実際は意外と近い。もし水の上を歩けたら、1時間もかからずに到達できる距離。自分もそこに行くことはできるだろうか。
「こんにちは」
そんなことを考えていたら後ろから声をかけられた。驚いて振り返れば、そこには車いすの女性が1人。
「えっと、・・・こんにちは?」
とりあえず返事をしてみたものの驚きで最後が疑問系になってしまった。
「旅行の人かしら?ここじゃあまり見ない顔だったから気になって」
驚かせてごめんなさいねと微笑む女性はとても柔らかい雰囲気を纏っていた。
「旅行、というか。行き先は決めていないんですけど、その、海が見たいなって思って」
「そう。ここを選んでくれてありがとう。私も数年前に来たばかりなんだけど、この海の綺麗さに惹かれたの。すごく綺麗でしょう?」
「はい」
会話を交わすごとに肩の力が抜けていくのを感じる。ずっと気を張っていたのがほぐれていくようだ。
「あ、いきなり話しかけちゃった上にそのままあれこれ話してごめんなさい。私は『はくら』というの。貴方の名前も聞いても良い?」
「ましろ、というらしいです。・・・その、よく覚えていなくて」
九十九から聞いたその名前を名乗ってみる。でも、自分の名前という感じがしなくて、違和感がつきまとう。
「それじゃあ、お揃いかもしれないわね」
「お揃い?」
「私の『はくら』という名前は白い桜と書いて白桜と読むの。ましろの『しろ』が色の白なら、お揃いでしょう?」
「そう、ですね。・・・珍しい名前なんですね」
「そうね。同じ名前の人に会ったことがないから、自分だけの名前みたいで気に入ってるのよ」
そう言って白桜は微笑む。
「あぁでも、お揃いの人に会えるのも嬉しいわ。せっかくだから、シロくんって呼んでもいいかしら」
「はい」
ましろと呼ばれるよりもなんだか、落ち着く気がする。
「それじゃあ、シロくん。さっそくなんだけど、今日の宿は決まってる?」
「決まって、ないです」
「そう。それなら少し手伝ってくれたら嬉しいな」
にこにこと笑う白桜の視線の先には買い物客で賑わう商店があった。
「ありがとうございました」
会計を終えた客を見送って頭を下げる。白桜と出会って数日。あの翌日からここで働かせてもらっている。
白桜の買い物を手伝って案内されたそこは、海の見えるテラス席のある落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。白桜が車いすでも行き来しやすいように広めに作られた店内に席は少なく、だからこそ近くの客を気にせずにゆっくりできる場所だった。高さの問題かカウンター席はなく、ほとんどが低めのソファー席なのも珍しい。さらに、店の壁には本棚が複数設置されていて、本がたくさんあった。洋書や見たことのない言語の本もあって、自由に読むことができるらしい。白桜に勧められて、時間があれば読ませてもらっているが、面白い本がたくさんある。
エレベーター付きの建物の2階と3階部分は住居になっていて、今はそこの客間を一室借りている。海外を出張で飛び回っている旦那と、都内で忙しく仕事をしている息子がいるらしく、今は1人で喫茶店をしているのだという。時々、友人や息子さんの知り合いが手伝いに来てくれたりもするらしい。
女性の1人暮らしなのに、自分を泊めても大丈夫なのかを尋ねると、
「あら。シロくんは私に危害を加えるの?」
と聞き返された。慌ててそんなつもりはないけれど、と言えば、
「そうい・・・あ、息子もね、血は繋がってないのよ。それにこんな見た目でも護身術の心得はあるし。なんでしょうね。どこか息子と似てるのよ、シロくん」
と笑顔で返された。
「旦那が嫉妬してるのを見られたらそれもまたかなりの収穫だしね!」
白桜という女性は不思議な人だった。
宿泊代とご飯代のお礼に働かせてもらっているのだが、綺麗な部屋で生活させてもらって、ご飯も美味しくて、なんというかとても居心地が良かった。
店に来るのも町に住む人や仕事で町に出入りしている人、あるいは白桜の知り合いという常連客ばかりで、優しい人ばかりだ。店を開けると同時にやってきて、テラス席の一角を陣取り絵を描いている人もいれば、昼頃にやってきて1人掛けのソファー席で洋書を開く人もいる。白桜は複数の言語に精通しているらしく、会話を楽しむために外国のお客さんが来ることも少なくない。
ランチタイムのお客さんが落ち着くのを待って、自分たちも昼食を取る。その日のランチセットをテーブルに並べて、お店の中でお客さんと話をしながら食べるのだ。
「それにしても、白桜ちゃんも寂しくないの?」
そう尋ねたのは白桜と出会った日に行った商店のおばちゃん。
「寂しいってことはないわね。最近はシロくんもいるし」
「こうきくんはそろそろ帰ってくるの?」
「さぁねぇ。そろそろ日本語忘れて帰ってくるんじゃないかしら」
『こうき』というのが白桜の旦那の名前であるらしかった。
「でも、そうね。寂しくないってことはきっとないのよ。ずーっと一緒にいたいと思う時だってあるわ。ただ、それじゃ意味が無いのよ」
「意味?」
途中で会話に入るのは失礼かとも思ったが、気になったので聞き返すと、白桜はにこりと笑う。
「お互いが成長できないならただの依存だもの。どうせ愛し合って互いを大事にするのなら、互いの自己実現とか成長とかそういうのをサポートしていきたいと思うのよね。そうすることで、相手をもっと好きになれるでしょう?もちろん、ダメなところだって好きだけれど。どうせなら自慢したいじゃない。私の旦那は格好良いのよって」
「あらあら。ずいぶんなのろけ話をありがとう。でもまぁ、一理あるわね。ずっと一緒に居るとありがたみも感じなければ、ダメになっていく一方だし」
おばちゃんがあははと豪快に笑う。
「難しいね」
「そうね。でも難しいからこそ楽しいのよ。シロくんは好きな人いる?」
「よく分からない・・・かな。前はいたのかもしれないけれど」
目を伏せて考える。あの家に、いたのだろうか。そう思い出して身震いをする。あぁ、思い出したくないことを思い出してしまった。蘇るのはたくさんの鬱血痕と縄の痕。もうどちらも消えかかっているけれど。
「今は?」
「え?」
「別に前のことなんて良いのよ。私、出会ってないから前のシロくんのことなんて知らないしね。忘れた記憶はここにないんだから、『ない』のよ。もしかしたら、大切な人がいたのかもしれない。でも、それは一回リセット。もし本当に大切な人で相手もそう思ってくれているのなら、また始めればいいわ。始まらなかったり、違うと思ったらそこまでなのよ、きっと」
あっさりと白桜が言う。
「もしかして、白桜さんはそういう経験があるの?」
「あるわ。とても仲の良い親友だったんけど、事故で頭を打って記憶喪失になって。性格が全くの別人になっちゃってたから、色々と説明したり写真見せたり、遊びに行ったりもしたんだけど、何かも違ってたからお互いに気が合わなくてそのまま疎遠になっちゃったわ」
それでも今でも大事だし元気でいてくれることを祈ってるけどねと白桜が笑う。やっぱり白桜は強い女性だと思った。