*かえりみち(病死パロ)
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 前兆は確かにあった。しかし、舞白にとってそれらはある意味で日常的なものでもあったし、何より気づいたところで、どうする気もなかったのも変えようのない事実だった。例えば、倦怠感や頭痛、腹痛。どれも仕事が忙しくなればよく感じていたものであったし、それらを理由に仕事を休むなど、それこそあり得ないことだった。だから、そんなものは甘えであると、気のせいであると、いつものように言い聞かせて仕事を続けた。いくつか記憶のない部分もきっと、仕事をしていたのだろう。あの日、意識が完全にブラックアウトするまでは。

 ゆっくりと目を開くと見慣れた自室の天井が目に入る。舞白は二度三度と瞬きを繰り返し、ぼんやりとした頭で状況を整理する。そして、当然のように仕事へ行かなければと考え、あぁもうその必要はないのかと、すぐに自分の現状へ思考が行き着いた。
 もうここしばらく仕事へは行っていない。そして、おそらくもう行くこともないのだろう。体が弱ったことで弱気な発言をしているとか、そういうわけではなく、事実として自分自身が一番分かっている。
 仕事に関しては自分を見限った時点で、引き継ぎに使えそうな資料を出来る限り作っておいたし、彼らは自分なんかよりもよっぽど優秀だから、問題はないだろう。そう考えると、本当に自分の存在意義が分からなくなってきて、自然と自嘲的な笑みが浮かぶ。
 そのまま視線をやったのは奥の部屋の扉。そういえば、しばらくあの中へは入っていないが、彼はどうしているだろうか。いつも舞白の話を聞いてくれていた彼が何度も舞白を止めようとしていたことはもちろん知っていたし、強行手段に出ようとしていたことも知っている。しかし、それよりも、思っていたよりもずっと早く舞白の体が限界を迎えてしまったのだ。
「ごめんね。全部、無駄になっちゃいそうだ」
ぽつりと呟いて、そのまま目を閉じる。脳裏に浮かぶ彼はとても複雑な顔をしていた。

 「舞白兄様。入っても良いかしら」
控えめな声が聞こえて、舞白は再び目を開ける。どうやら、目を閉じたまま、微睡んでいたようだ。
「どうぞ」
襖の方へ声を返しながら、ゆっくりと上半身を起こす。それと同時に襖が開かれて椿が入ってくる。きちんと襖を閉めてから、舞白の方へ歩み寄る椿は大事そうに何かを持ってくる。
「今日は鶴を折ってきたの。昔、舞白兄様が折ってくれたのと同じものよ」
そう言って、椿が差し出した手の上には、少し歪な形をした細工鶴。
「花見車だね。ありがとう。すごく上手に折れたのに、もらっていいのかな?」
「舞白兄様のために折ったのよ。もらってくれないと困るわ」
「・・・それもそうだね。本当にありがとう、椿」
舞白は再度お礼を言って、細工鶴を受け取る。昔は椿が体調を崩すとよく細工鶴を折って届けていたものだが、そのお返しということなのだろうか。
「あのね、舞白兄様」
「どうかした?」
「私、明日、やまとと買い物に行くの。だから、その、何か欲しい物はあるかと思って」
舞白がこのような状況になってからというもの、椿はよく部屋を尋ねてくる。椿には詳しい状況の説明はなされておらず、療養中とだけ伝えられているらしいが、聡い弟のことだから、実は全てを察しているのかもしれない。そう思うと、気遣いが心苦しく思えて、舞白は困ったような笑みを浮かべる。
「特にない、かな」
「・・・そう」
「あぁ、でも。土産話を聞かせてくれたら嬉しいかな」
少し落ち込んだ様子を見せた椿にそう付け加えれば、
「分かったわ」
すぐに返事が返ってくる。その様子を見て舞白は息が苦しくなるのを感じた。

 「舞白くん。今、大丈夫?」
椿が部屋を出て行ってしばらくして、枕元に置いてあった本を読んでいると、再び襖の向こうから声がした。
「はい。大丈夫です」
返事をして、読んでいた本を膝の上で閉じる。何度も読んでいる本だから栞はいらない。
 襖が開き、中に入りながら律が問いかける。
「本読んでた?」
「はい。ずっと寝ているのも変な感じで」
「そっか。まぁ、無理をしない程度になら良いんじゃないかな」
本好きだもんなと付け足されて、舞白は本に視線を落とす。そして、少し間を置いてから、そうですねとだけ答えた。
「そういえば律さんが此処に来るのも珍しいですね。何かあったんですか?」
話題を逸らすように聞いてみる。千羽陽や椿の言動に付き合ってくれている律は何かと忙しい。その中でも暇を見つけては、ハーブティーを持ってきてくれたりしていたが、今日は何も持っていない。
「何かあったとか、そういうわけじゃないんだけど、・・・何かリクエストがないかと思ってさ」
「リクエスト、ですか?」
「そう。今日の夕飯のリクエスト。何か食べたいものとかあれば、それを作ろうと思うんだけど何かある?」
その質問に舞白は戸惑った。その様子を遠慮と捉えたのか、律が付け足す。
「今日は時間があるから、ある程度のものなら応えられるよ。魚でもいいし、肉でも他の物でもいいし」
「・・・あ、えっと。ありがとうございます。でも、特にこれといって食べたいものはなくて。・・・手間のかからないもので大丈夫です」
努めて笑顔でそう返す。気を遣わせてしまったことが何よりも心苦しかった。きっと他にもやることがあるはずなのに。
「手間のかからないもの。・・・普段、作ってるものもそんなに手間がかかってる訳じゃないんだけどな。これなら食べられそうってものはある?」
「何でも大丈夫です。律さんの料理は美味しいですから」
ここ最近の舞白のご飯はほとんどが律が作っているものだ。そのどれもが食べやすさや栄養バランスを考慮して作られていることを舞白は知っている。
「・・・そっか。それじゃあ、白米と麺類だったらどっちがいい?」
舞白の様子を見て何かを感じたのか、律が質問の仕方を変える。
「えっと、麺類、ですかね」
「分かった。さっぱりとこってりだったら?」
「どちらかと言えば、さっぱりがいいです」
「温かいものと冷たいものは?」
「・・・温かい方が嬉しい、です」
戸惑いながらも答えていく舞白にさらに幾つかの質問をした後で、律は疲れたら休むように言い置いて部屋を出て行った。
 ちなみにその日の夕飯は水菜と鶏肉のあっさりとして温かいうどんだった。

 夕飯を食べ終えて、食休みがてらに窓の側まで移動して、窓枠に組んだ腕を乗せて月を見上げる。今夜は満月だ。そのまま腕に頭を乗せて月を眺めていると後ろから声。
「冷えるぞ」
いつの間に入ってきたのかということに少々驚きながら、舞白はゆっくりと振り向く。
「おかえりなさい、兄さん」
にこりと微笑んだ先に見えるのは、少し疲れた様子の千羽陽の顔。
「あぁ。・・・月を見ていたのか」
「はい。今日は満月みたいですよ」
「そうだな。・・・とりあえず、冷えるから布団に戻れ」
心配からかけられる言葉に逆らう理由もないので、舞白は素直に布団へ戻る。布団の横に腰を下ろした千羽陽の視線から言わんとすることを察して、布団の上に座るのではなく、おとなしく布団に入り横になる。そうすると、満足げに頭を撫でられた。
「布団の中は退屈か?」
「・・・退屈というか、することがなくて」
「したいことをしていていいんだぞ。新しい本もあるだろう?」
そう言って千羽陽が視線を向けた先には積み上げられた本の山。それらは舞白の為にと用意された物だったが、もったいなくてほとんど手がつけられていない。
「そうなんですけど・・・」
言い淀んで視線を逸らせば、またしても頭を撫でられた。
「・・・舞白」
「はい」
静かに名前を呼ばれ、返事をしつつ千羽陽の方を見れば、そこには穏やかな笑みを浮かべる兄の姿。半ば自分に向けられることはないと思っていたそれに舞白は息をのむ。
「共に、死のうか」
落とされた言葉を脳が解釈することを拒んだようで、何度も反芻される。
「・・・え?」
なんとか口から出せた言葉はそれだけで、全身が燃え上がるような、それでいて冷め切っていくような、もはや何がなんだか分からなくなっていく。
「俺がお前にしてやれるのは、そのくらいだからな」
「でも、そんな、いきなり」
「いきなりでもない。兄らしいことの1つもできていないしな、俺は」
「そんなこと、そんなことないです」
必死に首を横に振る。目からはとめどなく涙が溢れ、視界がぼやけていく。それでも、千羽陽の笑顔だけはしっかりと見えていた。
「俺じゃ不満か」
「それはない、です。兄さんが、いい、です」
涙を拭うために伸ばされた手を舞白は必死に握った。

 隣で自分を抱き込むように眠る兄を起こさないようにそっと体を起こす。頭がとても痛むのは泣いたせいか。しかしながら、気分はとても晴れやかだった。それこそ、思い残すことはないくらいに。
「行かなくちゃ」
舞白は小さく呟く。根拠も行く宛もないが、ただそう思った。何かを残す必要もない。
「早く行かなくちゃ」
そっと布団から出て、襖へと向かう。そっと開ければ月明かりと穏やかな風の気配。外へ出て、襖を閉める前に丁寧に頭を下げる。そして、元通りに襖を閉めたら後は歩き出すだけだ。


 荷物はいらない。言葉もいらない。―――もう何もいらない。



 そうして舞白は姿を消した。


 

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