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それはおそらく唐突なことだったと思う。少なくとも、律にとってはそうだった。しかし、律が気づいていなかっただけで、しゅうからすればそれはずっと前からそうだったのかもしれない。
今日も一日、でっかい子どもの世話に追われて疲れたなぁなんて思いながら帰宅する。それに加えて職場の後輩からの相談にも乗ったこともあって疲労度が高い。こういう日はしゅうに癒してもらうしかない。そんな風に考えながら鍵を開けて中へ入る。
ただいま、と声をかけながらリビングを目指す。最近は、空っぽな顔をして玄関にいることが多かったのだが、今回はその限りでないようだ。しゅうの空っぽな顔を見て不安にならないわけではないが、その顔が自分の姿を捉えた途端に輝き生気を取り戻す様は何度見ても律の優越感を刺激する。
リビングのドアを開けながら、もう一度、ただいま、と声をかけると同時に腹部に衝撃。がはっ・・・なんていかにもな呻き声を上げて蹲れば、そのすぐ傍に立つ気配。足下に落ちていた凶器・・・目覚まし時計を見ていた視線を、痛む腹部に手を当てながら上げれば、そこには静かに怒りを帯びたしゅうがいた。
理由を問えば、スマホが顔の目の前に差し出される。そこに表示されている写真に写っているのは数時間前の自分。発信者はヤマトになっていて、あいつまた送ったのかと内心、舌打ちを打つ。
前にも相談に乗っている所を撮影されて、しゅうに送られたことがあった。律としては、しゅうのことだからそういう部分に関しては違うと理解してくれるだろうと思っていたのだが、結果としてはベランダに閉め出された・・・なんてこともあった。しかし、立場上、相談に乗らないという選択肢はなるべくなら使いたくないものであったし、今回はヤマトも傍にいなかったから大丈夫だろうと思っていたのに、これはどういうことだろうか。
またかよというように動く度に悪態を吐く狼のパペットに、またかという台詞はぜひヤマトに言ってくれと思いつつも、そうも言っていられない状況なので相手との関係や話の内容について説明する。・・・もはや、弁明するというような雰囲気だが。
そんな律にしゅうはにこりと微笑む。これは分かってくれただろうかと、立ち上がって抱きしめようとした律の視界は突如として真っ暗になった。そして、顔面への衝撃の反動で立ち上がろうとしていたはずの体は後ろ側へと押し戻されて派手に尻餅をつく。さらに追撃がきたようで、もう一度、顔面に衝撃。それのせいで後ろの柱に思いっきり後頭部を強打した。角じゃなくて面の部分で本当に良かったと思う。
バタンとドアが勢いよく閉まる音を聞いて、涙で滲む視界を開けば、玄関を出て行くしゅうの後ろ姿が辛うじて見えた。それを認識して慌てて滲む視界を乱暴に開いて立ち上がる。足下には端が破れて中の羽が飛び出してしまったクッションが落ちていた。さきほど、玄関を出て行くしゅうの周りに羽が見えたのはこれのせいだろうか。
廊下にも舞っている羽を踏んで滑らないようにしながら玄関を目指す。靴を履いて、本当はそのまま飛び出したかったけれど、鍵だけは閉めておく。スマホは尻ポケットに乱暴に入れて、走り出す。地面に置ちていた羽がしゅうの行き先を教えてくれる。これはきっと探してほしいということだ。そう自分良い風に解釈して、ひたすらに走る。
ぱっと見ただけだから確かではないが、足下になかったということは凶器の目覚まし時計はしゅうが持っているのだろうか。羽を纏って、チクタクとやたらうるさい秒針の時計を抱えて一体どこへいこうというのだろうか。
やがて行き着いた先は、近くの公園。公園といっても土地のないここの辺りだから簡素な遊具が1つ2つあるだけの、まるで空き地のような空間。その真ん中に立ったしゅうは静かな瞳でこちらを見ている。名前を呼ぼうと口を開いたと同時に目に映ったのは、深くお辞儀をするしゅうの姿。その手には目覚まし時計があって、羽を纏った体が西日に照らされて天使みたいに見えて・・・、いや、天使に見えるのはきっといつものことだ。
あまりにも綺麗にお辞儀するものだから、たっぷり数秒間はそれに見惚れて、ようやく戻ってきた意識で、しゅうの名前を呼べば、同時に目覚まし時計が宙を舞った。
目が離せなくて自然とそれを追う。ガシャンと大きな音を立てて地面に落下したのは、律の目覚まし時計。かなり前に常連客から誕生日にともらったそれを、そういえば、しゅうはよく変えないの?と言って見ていた。その常連客が働き始めてすぐの頃から、親のように見守っていた優しい婦人だったことと、目覚まし時計のデザインが気に入っていたこともあって、まだ使えるしと使い続けていたのだが、しゅうにはひっかかっていたのだろうか。
律の口元に自然と笑みが浮かぶ。きっと今、しゅうが抱いている感情は律が望んでいたものだ。壊れてしまった目覚まし時計が惜しくないと言ったら嘘になるが、それさえ分かれば気にならなくなる。
ふわりと風が吹いてしゅうの髪についていたふわりと羽が飛んでいく。もしかしたら、律の頭にも同様についているのかもしれない。しかし、今は見た目など二の次だ。飛んでいった羽のようにしゅうの気持ちまで飛んでいってしまったら、それこそ取り返しがつかない。目覚ましはまた買えばいいけれど、しゅうに関してはそういかないのだから。
律はぐさりと突き刺さる胸の痛みを感じながら一歩を踏み出す。物理的な攻撃よりもこっちのほうが、やはりというべきかとても痛いのだ。それでも、このままではいけないから、自分が改めないといけない。これはチャンスなのだから、もっと努力をしないといけない。
ゆっくりと進んでいって、律はしゅうの前に膝をつく。そして、しゅうを見上げながら精一杯の謝罪を口にした。それに対してしゅうは少し考えてから小さく笑った。
羽を纏うしゅうは冗談とかではなく天使に見えた。捕まえておかないときっと天へ還ってしまうことだろう。それを繋ぎ止められるかどうかは律次第。誰かを愛するにはもっと努力が必要だ。相手が天使ならば、尚更。
(『どうしようもない僕に天使が降りてきた』のイメージで)