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随分と日が延び、上着を手放せるような暖かい陽気になってきたある日。舞白は自室でそっと目を開けた。自分を囲むようにある大きな本棚と正面に飾られた鏡が目に入る。1つ欠伸をして、今日の予定を反芻する。仕事は休みで、やらなければいけないことも、昨日のうちに終えている。それさえ分かれば、特に問題はない。・・・たとえ、さっきまで自分が何をしていたのか分からなくとも。
天窓から差し込む日の光が今日の快晴を伝えているのを感じて、部屋に引きこもるのはもったいないと思い、すっと立ち上がる。一応、何かあった時のためにスマートフォンだけは、帯の間にしまい込んで、部屋を出る。
空気を通すために開け放たれた窓からは心地の良い風と日の暖かさが入ってくる。こんな日は縁側でうとうとしたら気持ちいいのかもしれないと思い、そのまま縁側へと足を向けると、そこにはすでに先客がいた。
「あれ?兄さん?」
てっきり離宮の方にいると思っていたが、母屋の方へ来ていたらしい千羽陽が縁側の柱の傍で寝っ転がっていた。足音を立てないように近づいて、顔の傍に膝をつけば、心地よさそうな寝息が聞こえてくる。どうやら、ぐっすり寝ているようだ。舞白は小さく微笑んで、そっとスマートフォンを取り出すと、カメラモードを起動させて兄の方へ向ける。
カシャッ。
小さな音が響いて、画面には兄の寝顔が映し出される。その無防備さにもう一度微笑んで、舞白は写真を保存した上でスマートフォンをしまった。それと同時に、兄のうめく声がする。
「ん、ましろ・・・?」
「すみません。起こしちゃいましたか?」
「・・・いや、ちょうどいい。そこに座れ」
「え?あ、はい」
言われるままに千羽陽が顎で示した先・・・縁側の端に柱へ寄りかかるように腰をかければ、もぞもぞと千羽陽が動いた後で膝に重み。
「兄さん?」
突然の行動にやや驚きながら再度声をかけるが、羽陽は気にした様子もなく、少しして再び寝息を立て始める。丁度良いとは枕代わりということだったのだろうか。
舞白はそっと手を伸ばして、千羽陽の髪に触れる。千羽陽のふわふわとしたその髪質は父とよく似ている。千羽陽は嫌がるだろうけれど、舞白はこの髪質が好きだった。自分のまっすぐな髪とは違い柔らかなさわり心地に、そっと髪の毛を撫でてみる。
そのまま髪の毛をよければ普段は前髪で隠されている左目が露わになる。それもそっと撫でてみる。隠されているものを見るというのは、秘密を共有しているようで少し誇らしくなってしまう。体をゆっくりと曲げて、瞼の上に触れるだけのキスを落として、舞白は前髪を元に戻す。
舞白の今の髪型は朧気な記憶の中にある母を真似たものだった。昔、見たことのある写真に父とともに映っていた舞白の母は今の舞白のような髪型を、そして千羽陽の母は高めの位置で髪を1つにまとめていた。それを見てから、舞白は千羽陽の母がしていたような髪型を避けている。もうとっくに時効なのかもしれないが、どうしても千羽陽の前でする気にはなれないのだ。なぜなら、舞白の顔は母たちによく似ているから。
ゆったりとした手つきで千羽陽の髪を撫で、髪に隠されてしまっているその顔を見やる。気持ちよさそうに眠る千羽陽は一体どんな夢を見ているのだろうか。そんなことを考えながら、気づいたことが1つ。
「・・・ちょっと白髪増えましたね、兄さん」
思わずくすくすと笑いながら零した呟きは幸運なことに千羽陽には気づかれなかったようだ。暗紫色に混じる白髪に本来なら悲しむべきなのかもしれないが、自分の髪色と似たそれを見るとどうしても嬉しさがこみあげてしまう。
「このまま貴方が僕の色に染まることはあるのでしょうか」
そうだったら良いのに。いや、そうならないからこそ兄なのかもしれない。
千羽陽の髪の毛をすくい上げて日の光を当ててみる。きらきらと光るその色彩は父と同じ。そして、その近くにある舞白の色彩は母と同じ。血の繋がりはこんなにも近いはずなのに、色彩は遠い。それでも、千羽陽が父とは似ていない所を舞白はたくさん知っている。その優しさもたくさん知っているのだ。
「兄さん。大好きですよ、貴方のこと」
面と向かっては言えない言葉をそっと風に乗せて顔を上げる。太陽の眩しさのせいか、涙が一滴頬を伝った。
大きな欠伸を1つして千羽陽が目を開けると、その視界に映るのは中庭の風景。しかし、いつも見慣れている離宮からのものではなく、母屋側のそれだった。柔らかい感触の枕を不思議に思いつつ、仰向けになれば、柱に寄りかかって眠る舞白の顔が見える。どうやら、舞白の膝枕で寝ていたらしい。そういえば、途中で舞白の声がしたような気もする。首を前へ傾けて眠る舞白の頬には涙が伝った跡がある。
「・・・泣いたのか」
そっと手を伸ばして涙の跡を撫でてやれば、舞白の表情が柔らかさを増す。
「どうしてお前はそうまでして、俺の傍にいるんだろうな」
もちろん遠くへ手放してやるつもりなど毛頭無いけれど、それでも自分のしていることがこの弟の負担になっているであろうことは承知している。
少し考えて千羽陽は体を起こす。そして、起こさないようにそっと舞白の肩に手をかけ、自分の方へ引き寄せる。引かれるままに倒れた舞白の頭は千羽陽の膝へと着地し、先ほどまでとは逆の格好になる。下へ下ろしていた足を縁側に引き上げてやって、千羽陽は満足そうに笑った。そして、舞白の髪留めをとり、解かれた指通りの良い髪を撫でる。舞白の髪質は千羽陽や舞白の母とよく似ている。そのせいで、色々と思い出す部分はあるが、それでも千羽陽は、舞白の髪が一番綺麗だと思っている。髪の毛をそっと掬い上げて、そこにキスを落とす。
「よく頑張っているな。・・・兄として誇らしく思っているんだぞ」
柄にも無いことを呟いてしまったと、その気恥ずかしさを紛らわすために千羽陽は舞白から視線をそらし、雲1つない空を見上げた。