小説 | ナノ


どぼん。

重いが空気の孕んだ音がして、私は背後を勢いよく振り返った。

連れて歩いていた筈の弟がいない。

「あ…アマイモンンンンっ!!!!」

私の声は夜明けを迎え始めた砂浜に反響して消えた。



【夜明けの前で】



足首より少し上だろうか。寄せては返す波間は規則的では無かったが絶えずアマイモンの足下を浚っていく。


その圧倒的な寂寞に言い様のない喪失を感じて、私は恐ろしくなった。

たったそれだけの水に私の弟が浚われる訳がない。そう笑い飛ばすのはもうひとりの自分だ。しかしその言葉とは裏腹に、脳裏で叫ぶ私の声は悲痛とも焦燥とも言えぬ感情で揺れていた。

「―――…何をしている?」

そんな感情を全て、押し殺した私の声は普段よりも冷ややかに朝靄の中へ消える。ずっとずっと小さな声だったが、アマイモンには聴こえたようだ。

「…水が……綺麗で……。」

ただそれだけを答えた弟は、こちらを一瞥することはない。水平線を眺めたかと思えば、足下に視線を落とす。



ざ……っ、ぱん!!

一際大きな音を立てて打ち寄せた波は、水面に触れようとしていたアマイモンの前髪を容赦無く濡らした。

「――――……。」

一瞬、不思議そうに目を瞬いたのが私にははっきりと判った。


顔を縁取り、落ちる水滴を透かして、アマイモンは笑う。


その、楽しい筈なのに、可笑しい筈なのに、悲しげにさえ見える容貌を隠して、金色の紗が私の目を射した。
…ああ、夜明けが、来た。


「……帰るぞ、アマイモン」
「――はい、兄上。」

何事も無かったかのように、再び私の背後を歩き始めた弟の気配に、私は足を止めた。元々、そう距離もなく歩いていた私達だ。とたんに距離はゼロになる。

「――…兄上?」
「また…はぐれられるとたまらんからな」

言い訳じみた物言いにも、弟が文句を言うことはない。了承とも許容とも言えぬ返事に、手を握り返してきた指先の強さが、ただありがたいと思った。

「――…ああ、兄上。夜明けです」




【私の手のひら、その温度で弟の冷えた指先が少しでも癒えればいい。そうと思った黎明3分前】




夜明け前の砂浜を兄上と手を繋いで散歩した。兄上の右手は珍しく素手で、ボクの左手をつかんで、歩いていく。兄上は難しい顔をしていたけれど、ボクが見上げていることに気付いたら小さく小さく笑ってくれた。その悪魔とも天使とも言えぬ中立の笑みが、この朝と夜との狭間の、人間達がマジカルアワーと呼ぶ時間の空とも似ていると思って、ボクの唇は小さく小さく音を立てた。…すきです、と。



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