(さて…困った。)
その日、メフィストは理事長室の執務机、そのPC画面前で首を捻っていた。
膨大な数式の羅列が一定のスピードでスクロールされていく。
今度の会議で使う表だが、実際にメフィストの頭を悩ませているのは別の事柄だったりする。
カチカチと打ち込む指先にも迷いはない。にも関わらず、メフィストの表情は曇り、常の生彩を欠いていた。
「フェレス卿」
呼びかけられて、顔を上げる。
居たのは書類を抱えた奥村雪男
「ああ…奥村君ですか」
ご苦労様です。そう素っ気なく続けて書類を受け取った時、雪男はこちらを覗きこむようにして瞳を合わせてきた。
「――…大丈夫ですか?」
「何がです☆」
間髪入れずに即答すると雪男は困ったような顔をした。
「いえー…すごく難しい顔をされていたので」
そう言われて、メフィストはわざとらしく首を捻って見せた。
「ふむ…疲れてるんでしょう。何せ先日の争いで疲弊した騎士團に人的余裕なんてありませんしー…何より罷免した筈の私をこうして仕事に駆り出させる程、余裕もないご様子ですし?」
なんて嘆かわしい!!そう大袈裟に顔を覆ってみせた道化師に、雪男は慎重に言葉を選ぶ。
「怒って…おられるんですか?」
「ええ、以前より今日と明日、明後日の3日間は休みを申請していましたのでね☆」
間髪入れず即答する口調は明るいが、どこか棘のある物言いに雪男は肩を竦めただけで言及を避けた。
(なるほど、他の教師が近付かない訳だ…)
その引き攣った顔を隠せず、雪男は頷いた。しかし、雪男のその表情は再びPC画面に視線を向けたメフィストには気付かれることはなかったが。
メフィストは普段より公私混同しないと言及する人物である。
それは仕事に私情を持ち込まないと言う意味だけで見られがちだが、彼を少なくとも知る者が居れば声を上げて否定するだろう。
実際は逆なのだと。
メフィスト・フェレスは個人的な干渉を好まない。不用意に私的な干渉をすれば、それすなわち身の危険なのだと、雪男を始めとする正十字学園の関係者はよく知っていた。
かつて彼の屋敷で勤めていたメイドや執事がある日姿を消した、などの不穏な噂は小さいながらも絶えた事がない。
真相は解らない。だが、事実消えた人間が何人かいて、この道化師は余計な詮索を嫌う。そのプライベートは一切不明。
普段、有休申請など滅多にないことも事態に拍車を掛けていた。メフィスト・フェレスの名前で有休が申請された時には総務課を始め、職員室でもちょっとした騒ぎになった位だ。
…そんな彼が以前から休暇を申請していて、それを邪魔されたのだ。不機嫌なのは火を見るより明らかだった。
「旅行か何処かに行かれる予定でもあったのですか?」
「―――……」
雪男が何気なく口にした言葉に、メフィストは答えなかった。それが肯定なのか否定なのかは解らないが、どこか彼の琴線に触れたことだけを雪男は理解した。
「フェレス卿が有休を申請したって、総務課の人達がちょっとした騒ぎになってましたよ」
「逆ですね☆」
PCから面を上げたメフィストは、雪男の視線を真っ向から受け止めて口を開いた。
「私に会いに。こちらには不慣れなので色々と案内をしようと考えていました。」
「外国の方なんですか?」
「ええ、外の国の子ですよ。ようやく正式にこちらに滞在する手筈が整ったので…楽しみにしていたのですが。」
先程の不機嫌から一転、饒舌に話始めたメフィストに雪男は目を瞬いた。
「…貴方が?」
「私が、です」
何か問題でもありますか?首を傾げたメフィストに雪男は苦笑した。
「そんなことに興味があるなんて意外で…」
「失礼ですよ、奥村先生―…」
メフィストの声は不自然に途切れた。
彼が雪男の背後を凝視していることに気付いた時、
ちゅう。小さな鳴き声がした。
見れば僅かに隙間の開いた扉と、そこから顔を出している小動物――…鼠の姿。
(あれ…?あの扉、開いていたかな)
いや、違う。根本的な違和感を感じて、雪男は首を振った。
それ以前に、あんな扉はこの部屋にあっただろうか。あんな…植物を思わせるような、精緻な装飾をされた扉など。
(扉は理事長室に 無 か っ た )
そう考えていた雪男は気付くのが遅れた。ガタンとメフィストが席を立つ音が聞こえて、
すぐ足元を横切った感覚に気付くのが遅れた。
「…うわっ!!」
足元を横切った小さな影にメフィストが大きく息を飲んだ音が聞こえて。
「動くな!!」
ついぞ聞いた事のない口調と声量に雪男は思わずバランスを崩した。ぐらり…。
「大丈夫か?」
ついぞ聞いた事のない荒い声音に、嗚呼これがこの男の素なのだと雪男は理解した。
その声はすんでのところで踏みとどまった雪男に向けられた訳ではない。足元でこちらを不思議そうに見上げる深緑の鼠に向けられていた。
「おいで…こちらに」
その言葉と共に
スッと屈んだメフィストに雪男の目が驚愕に開かれた。この男が自分たちよりも下にその頭を、その身体を降ろすことが信じられなかったのだ。
目上の者に頭を下げる所は見たことはある。優雅な一礼を。だが、それはどこか芝居掛かったような、敬意や服従といった意味ではなく、外交辞令としてのものばかりだったように雪男は感じていた。
だが。これは何だろう。
床に膝をついたメフィストはスッと手を差し伸べるだけで鼠を捕まえようとしない。
自分の手に乗るのを待っている。もし、鼠が踵を返したら…ずっとそのまま手を差し伸べたまま待つのだろうか。ふと脳裏を横切った考えに雪男は頭を振った。それは余りにも気の長い話で、馬鹿馬鹿しく、何よりこの男には不釣り合いに見えた。
そんな雪男の逡巡に反して、鼠は小さく鳴いて、メフィストの掌によじ登った。ほぅ…と、つかれた溜め息は果たしてどちらをのものだったのか。
「…おかえり」
手のひらに乗せた鼠に、ゆるゆると笑みながら、再びメフィストは席についた。
「よく帰って来てくれた。私の可愛い――…」
そう言って小さく呟かれたのは名前のようだったが、とても雪男には発音も耳で捉えることも出来ないような言葉だった。
嘘のように、まるで棘が抜け落ちたかのように穏やかにメフィストはこちらを見ると頭を振った。
その瞳は言外に語る。
『触れてくれるな』、と。
ふと思い立って、雪男は背後を振り返ってみたが。そこに扉は既に無かった。
【そこにあるのは全てを拒む白の壁】
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