小説 | ナノ



ぶちり、と
音を立ててちぎれたボタンに
見えた白い肌に全てが呪わしくなった


[君は誰と戯れる]



その日、奥村燐は雨の中、傘も差さずに歩くメフィストを見かけた。

自慢のマントは雨で変色し
トレードマークのシルクハットも然り。

颯爽と歩くというよりは歩調はずっともっと緩やかで、燐は首を傾げた。

「おーい、メフィスト」

「奥村くん、ですか」

振り返ったメフィストに、燐は歩を進める。

距離を詰めるに従って、メフィストの両手が何かを抱えているのだと分かった。成る程、両手がそれでは傘も差せないだろう。

(傘、必要だよな)

そう暢気に考えた燐は、それがよく見知った人物であることに思わず足を止めた。

「あ…」

ガチガチと歯の根が合わなくなる。怒りとも恐怖とも判らない激情に、反射的に倶利伽羅へと手が伸びていた。

「なにか御用ですか」

倶利伽羅を抜くより速く響いた声に思わず手が止まる。しかし、威嚇するように噴き出した青い炎にメフィストは僅かに目を眇めたようだった。


「お前、それ地の王アマイモンだろ」

「それで、なにか御用ですか」


それでも視線は、かつての敵に固定されたまま反らさずにいれば、そっとその視線を遮るように、メフィストのマントが翻った。なんだその態度。まるでこちらこそが悪役のようじゃないか。

「用がないのなら帰りなさい」

こちらの表情に不満を見て、メフィストは笑ったようだった。表情はいつもの飄々とした道化そのもの。しかし、そのどこか虚ろな声音に戸惑い、青い炎は鳴りを潜めた。

「そいつ…どうしたんだ?」

「…分かりません。恐らく魔力の酷使に器が変調を来したのでしょう」

貴方との戦闘でかなり消耗していましたので、と。淡々と事実を告げる声に燐の胸が痛んだ。

「なんで酷使したんだ?」

「分かりません。ただ、ヒトに危害は加えていません。それは確かです」

脳裏にかつての悪魔狩りが、そして『よくもボクのベヒモスを』と叫んだ声が反響する。

そうして、こんなに大声で話しても、騒いでもぴくりとも身動きしないアマイモンに、燐の顔が歪んだ。

「用事がないなら帰ります」

言葉を失った燐に背を向けてメフィストは歩き出した。

「…おい、メフィスト!!」




++++++++


そわそわと落ち着きなく、ベッドの前に座り込み、尻尾を揺らす兄の姿に雪男は10回目のため息をついた。

目の前にはアマイモンが横たわり、そのすぐ側にメフィストいる。

血相を変えて帰宅した兄に出会えたのは幸運だった。すぐさま出て行こうとした所での鉢合わせ。

事情を問い質すと、これから理事長の家へ行くという。行かせろと言うだけの兄に痺れを切らして同行したのが30分前の事である。

広い邸内に感慨を受ける間もなく通されたのは彼でもアマイモンの寝室でもなく、ただのゲストルームらしい。

いかにも不機嫌といったメフィストを見てこれが最大の譲歩なのだ、と反射的に雪男は理解した。

公私混同しないと公言する、潔癖症の自称紳士は私室に踏み込まれるのを拒絶したのだろうと。

本来ならば邸内にも踏み込まれたくなかった筈だ。

実際、門前払いを食らい、それでも諦めなかった兄の意地には脱帽する。それにはフェレス卿への同情も多分に含まれていたけれど。

当のメフィストはと言うと、やはりベッドの端に腰掛け、組まれた膝の上で頬杖を突いている。

目を閉じ、まるで双子など眼中にないとー…否、実際眼中にないのだろう。

身体はこちらを向いてこそ居るが、ただそれだけだ。それでもアマイモンの頭から手を放す事はない。時折、思い出したかのように長い爪で髪を梳いていた。

アマイモンはといえば清潔なシーツに包まれ、微動だにしない。
肌は紙の様に白く、まるで隈さえ消えてしまうかと思わせるほど顔色が悪い。

「お前らどこに行ってたんだ?」

「最近できた、郊外の公園です」

燐の質問に、メフィストは目を閉じたまま答えた。

律儀なヒトだ。もしこれが僕と兄さんならきっと僕は答えない。問答無用で外へと叩き出しているだろう。…大人の余裕、とも取れる態度だが、フェレス卿の口角が僅かに引き攣るのを僕は見てしまった。

「あ、あの工場の側のとこだな」

しかし兄には見えなかったようでいつもの調子に話し掛けている姿に、今度は僕の頬が引きつる。

「工場?」

「そ、祓魔師用の薬作ってるんだろ?前に雪男が言ってたぞ」

その話題に興味を覚えたのか、フェレス卿はひたり、とこちらに視線を合わせてきた。




「私は知りませんが」




僅かに空いた間が重いを通り越して痛い。すごく痛い。

「ん?最近できた奴だよ、ほら、お前を捕まえた奴が建てて」

兄の続く筈の言葉は不自然に途切れた。

「エギン派の製薬会社、ですか?」

急に低くなった声に双子は反射的に首を竦める。背筋が凍るような、なんの誰何も抑揚も欠落した、平坦な声に。

顔が上げれない。

彼の腕の先、眠るアマイモンの白さが妙に気になって

喉の奥が妙に渇いて、干上がってくる感覚ばかりが気になって

少し上にある筈のメフィストの顔を見るのが何故か怖くて目を合わせられなかった。



「ぅ…」

小さく呻く声に空気が壊れるまでは。



弾かれるように、メフィストが顔を背けて、雪男は深く息を吐く。

思い出したかのように鼓動が存在を主張し始め、背中をドッと冷や汗が流れ落ちた。

「起きたか、アマイモン」

暫しアマイモンを覗き込んでいたメフィストは、それは軟らかく微笑した。

「…ぁ」

「眼振を起こしているぞ。目を閉じてなさい」

労りに満ちた声音と態度に絶句していると、閉じない瞳に彼は苦笑したようだった。その両目をそっと掌が覆う。

「…………、」
「無理に話すな」
「……、……」

それでも微かに動く唇に、メフィストは仕方ないなと呟くとそっと顔を近付けた。

ともすればキスしそうな距離感に「げっ」と燐は呻いたが、メフィストは一向に構わないらしい。じっと蒼白い唇を見つめていたかと思えば、僅かに顔を離して低く呻く。

「フェレス卿、彼はなんと?」

雪男の問いかけにメフィストは首だけをこちらに向けた。浮かぶ冷笑とその動作はまるでゼンマイ仕掛けの人形で。先程の優しげな表情は拭い去ったかのように消えている。

「聖水汚染が起きてますよ、
あの周囲」

その言葉に、今度は雪男が苦虫を噛み潰したような顔をした。

首を傾げた燐を見て、雪男はため息をついた。これで13回目だ。

「聖水汚染。
聖水による環境汚染のことだよ」

「聖水?っていいやつじゃねーの?」

「聖水、聖銀、聖酒…。普段は聖薬系のそれらも過ぎればバランスを崩します。要はプールの消毒液と同じ扱いですよ」

再び、顔を伏せたメフィストに兄は何かを言いたそうにしていたが結局、何かを言うことはなかった。




しばらくののち

「どうやら、聖薬だけではないようですね。」

今度こそ身を起こしたメフィストがゆるく頭を振って額を押さえた。

「かなり、有害物質に満ちた環境の様です。奥村先生、研究班と警備班に緊急連絡―…」

メフィストの声が不自然に途切れた。ごほっ、と重い音を立てて咳き込んだアマイモンによって。

「アマイモン…?」

「っ、ぅ…ごほっ」

身体をくの字に折り曲げて咳き込む姿に燐はおろおろと焦る。

「おいおい、これ医者呼んだ方がいいんじゃねーの…」

「気持ちは解るけど彼は悪魔だよ、兄さん。流石に一般的な…」

ごほ。ごほっ。ごほん。

ひときわ大きな咳き込み。それと同時に彼の口の端を伝う液体に3人の顔色が変わった。

言い争いを始めた双子はもとより、状況を把握しようと静観していたメフィストでさえも。

「おま、それ血!?」
「う…うつ伏せになって!!」





「アマイモン、其を吐け」



必死に、何かを守ろうと空を掴む手をメフィストは抑えつけていた。


++++++++


「有害物質に浄化成分。ヒトの器と悪魔の力、両方を損傷。虚無界の実体は損害軽微。私の結界内だという事が唯一の救い、か」

「つまり…?」

「他の悪魔から寝首をかかれることが無い、という意味でですよ」




【にこりと笑った道化師の顔には
何の温かさも、感情さえも無かった】



(TДT)力不足っ

[novel-top]