「兄上?」
「なんだ?アマイモン」
机の上に広げられた衣服の山にアマイモンは首を傾げた。彩り豊なその山を、かれこれ30分は眺めている兄。アマイモンが部屋に来てからのことだから、もしかしたらそれ以上の時間、にらめっこしているのかも知れない。
(やっぱり兄上の思惑は読めない)
寒空の下、兄に手を引かれる形でアマイモンは石畳を歩いていた。先ほどの衣服の山の中から引っ張り出されたその1着は、兄の長身には丈の短い、かと言ってアマイモンには僅かに袖の余るニットのセーターである。
「…ちっ、やはり大きかったか」
手渡されたそれを着て見せたら兄上は不機嫌そうに舌打ちしたから、多分兄上の昔の服なのだろうとアマイモンは思っている。
兄に手を引かれる逆の腕は、アマイモン本来の長い爪をも優に隠し、ぷらぷらと持ち主の動きに合わせて揺れている。それを何とはなしに目で追って、ふと口にした。
「こういう格好の…たしか普段着、って言うんでしたっけ…?」
「…なにがだ。」
声をかけられて視線を上げると、普段の白いケープ付きのコートではなく、よくあるトレンチコートに身を包んだ兄上の姿。
「普段着、という格好でしょうか」
「そうだな、私服とも言える。」
取り敢えずお茶にしよう。そう言われて立ち寄った喫茶店で紅茶とケーキを頬張っていたら、外の街道がにわかに騒がしくなった。
「――…?」
「始まったな」
きらきらと仮装された人物や車が目の前を流れていく。聖人の仮装に混じり、響くオルゴールの音に見知った曲があった。
「あ、これ知ってます」
「ふ…それはそれは」
心底おかしいといった風の兄の態度にムッとして、流れる音に合わせて口を開いた。
「Du kannst mir sehr gefallen…♪」
「おや☆」
中性的な歌声に、店員の何人か振り替える。僅かワンフレーズだけの歌。アマイモンが口を閉じてもしばらく店中の視線を集めていた。
「まさかお前の歌を聴けるとは」
ぱちぱち☆と軽く称賛の拍手を贈る兄にアマイモンは小さく小さく笑った。最近になってようやく表に出始めた表情のひとつだった。
「その唄は"O Tannenbaum"と言う」
「ああ、O Tannenbaum,O Tannenbaum,…と続きますしね」
「では、その意味はご存じかな?」
兄の気取った口調に視線を戻すと煌びやかなパレードを背景に、兄の瞳がユラリと深度を増した。アマイモンを捕らえる兄の表情は逆光になって見えない。夕闇に溶けても尚、揺らめく緑の瞳と、唇の赤さがやけに目について…、随分と日が落ちるのが早い、と。どこか麻痺した脳裏が呟いた。
「さあ次は何処へ行こうか」
それでも兄の手を引く力と歩む歩調は落ちることはなかった。
「――…ここ、は…兄…上…」
大聖堂に響いた声はアマイモンのただひとつのみ。人のいない礼拝堂を迷いなく進む兄の靴音だけが静寂を乱していた。
「…クリスマスの意味を知っているか、アマイモン?」
ステンドグラスを見上げたまま、問い掛ける兄に、アマイモンは首を傾げた。
「親しい者達同士が出掛ける日ではないのですか?」
「違う。神の誕生を祝う日だ」
「神?…父上ですか?」
「人にとっては違うだろう」
振り返った兄は凄絶な笑みを浮かべた。祭壇の前、月明かりを背負う兄の姿は、神聖なものにも、彼の悪魔の真の姿のようにも見えた。
「兄上は…、」
「私は虚無界を捨てた悪魔だが」
言い終わるより早く答えられ、アマイモンは黙った。それを見て、兄は笑う。そうして、そのままの笑みのままアマイモンに手を伸ばした。
「天使と悪魔。神と魔神。人の作り出した対立と言う盤面では我らは黒。この場は白い。」
「…どちらにあるのですか?」
長い指先が伸びてきて、頤を持ち上げられる。覗き込まれて、喉が乾上がるような感覚がした。教会独特の静寂に飲まれて、つい囁くような口調になった。
「兄上のお心は、どちらに…あるのですか?」
「シりたいか?」
うなずくよりも速く、視界が、天地が反転した。
(え…?)
1拍遅れてトサリとした音に、肩に感じた祭壇の感覚に、自身を覆った影に、思考が停止した。押し倒されたのだと気付いたときには唇が重なっていた。
「んぅ…」
「私は虚無界を捨てた悪魔だが」
散々蹂躙されたあとに、ちゅっ、と軽く噛みつかれて離れた兄の口の端が楽しげに上がる。
「神の、ヴァチカンの狗に成り下がったつもりはないぞ」
「あにうえ…」
「神の家に悪魔が侵入するだけでなく禁忌を犯すのだ。見つかればただでは済まないだろうな」
再び近付いた距離に、意識せずとも喉が鳴った。
「…だが。綺麗なものを穢したいとは思わないか、アマイモン?」
艶然と笑う兄の姿に、全てがどうでも良くなって。
返事の代わりにアマイモンは目蓋を閉じることにした。
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