▼ 47
久し振りに訪れた玉狛支部に足を踏み入れ、初めに会った人物が陽太郎だったので取り敢えず「またきたのか」という何時もの言葉に反応を返し、今現在玉狛支部に居る人たちの名前を聞いた。
するとどうやら俺をここに呼び出した人物が居ないようなので、約束の時間を潰そうかと埃まみれであろう仮眠室(仮)に寄ろうかなあと陽太郎に相談すると「そんなことをするくらいならおれにかまえ」と言われたのでキッチンを借りて適当におやつを作ることにした、というかさせられている。
三週間ぶりに来たので正直何処に何があるかなんて全く把握出来ていないが、陽太郎の助言を元に材料を集めながらレシピを携帯で調べ、焼きメレンゲが無性に食べたくなったので卵白と砂糖と適当に残っていたレモン汁を使って……およそ四十個ほど作った。
甘い匂いが充満した空間で陽太郎と共に作り出来立てを食べたら、普通に美味しかった。甘いものっていいよね、なんて現実逃避していたが、使い道に困った卵黄をどうにかしようと携帯でレシピを調べ直し、適当な材料でクッキーを作ることを決意する。
「はあ、うん、俺は何しに来たんだろう」
「おれに会いにきたんだろう?」
「陽太郎に? まあこれじゃあ、陽太郎に会いに来たようなもんだよ」
メレンゲをこぼしまくった罪状を与えたばかりの陽太郎が自分用の台に乗ったままドヤ顔でそう言うので、隣で溜め息を吐きながら携帯を陽太郎に渡し、レシピに書いてある小麦粉やらバターやらのグラムを読み上げるよう指示してそれぞれの重さを計る。
玉狛支部に来てから二時間以上は経っているが、俺の待ち人が全く現れる気配を見せない。なので、お菓子作りを止められない俺はオーブンを再度温めながら、ボウルのなかに卵黄やら小麦粉やらバターやらをぶちこんでクッキー生地を作る。
因みに焼いたメレンゲは冷ましてからそれっぽいお洒落な透明なビンに入れて置いておいた。
「陽太郎、生地の写真とかないの」
「ないな」
「じゃあもうこれでいいや、」
前に孤児院の子供達とクッキーを作ったときを思い出しつつ、こんなんだったかなあと適当にクッキー生地の工程を終わらせてクッキングシートだかなんだかに形を整えたクッキー生地を並べる。
この作業なら危なくないから陽太郎も出来るかな、と思ったので陽太郎に携帯を俺のポケットに仕舞うように言ってから手を洗わせてクッキー生成を手伝ってもらう。型抜きなんて無かったので大体丸型だけど。
「みてみろ」
「ん? ハート?」
「そう、あいのしょうちょうだ」
「愛の……………そうだね、」
「そういえば、たんじょう日、じんにあいをわたせたのか?」
小さな手にクッキー生地をべたべたとくっつける陽太郎に、こどもの体温は高いから上手く出来ないのかなあなんて思いながら「いや別にー」と返し、歪なハート型クッキーをクッキングシートに並べてやる。
俺も作るか、ハート。
「なぜだ? はずかしがることはないぞ?」
「え、恥ずかしいっていうか、愛抱いてないし」
「そうか? おれにはそうは見えないがな……」
「? 陽太郎には俺と迅がどう映ってるんだ」
指で形を整えながら陽太郎のハートのとなりにハート型クッキーを作り、意外と手間がかかることに気が付いてそれ以降はただの丸型を作ることに専念する。
奇抜な形は陽太郎に任せよう。
「こなみはどうだ?」
「どう? どうと言われても」
「やはり、まだまだだな」
じっと見つめてくる『呆れ』という純粋な陽太郎の視線に肩を竦めつつ、温まったことを知らせるレンジの音を聞いてサイドエフェクトを意識する。
『いろんなやつがなまえをあいしてるのに、なまえはあいしてないのか? それともきがついてないのか?』
色々聞きたいことがあるが、何から攻めたら効果的なのか分からない。なので無言でクッキー形成を終わらせ、温まったレンジにクッキー生地の乗ったクッキングシートを被せてレンジに入れる。取り敢えずレシピ通り二十分セットしておこう。
というかそもそも陽太郎の言ってる愛と俺の考えている愛は違うのでは? なんて根本的なところから疑問点が生まれたけれど、それを聞いて分かるのだろうか。
どうでもいいようなことを悩んでいると、がちゃりと部屋の扉が開いた音がしたので、レンジの様子を見る俺と手を洗っている陽太郎はそちらを見る。
「ああレイジ、かえったか」
「お久しぶりです、おかえりなさい」
陽太郎が永遠と冷水で手を洗っていて全くクッキー生地が取れる気配を見せないのでお湯に切り替えさせながら、少し狼狽えたように反応を返すレイジさんが此方に近付いてくるのを視線の隅で捉える。
レイジさんに会ったのはいつぶりだろう、何週間ぶりとかいう話じゃないよな。
「久々に見たと思ったら陽太郎と菓子作りか」
「え? あ、はい、」
カウンター越しにある机に持っていた紙袋を置いたレイジさんが相変わらずの無表情でそう言うので、自分のサイドエフェクトに感謝しつつ、何となくトリマルくんの顔を思い出した。
三週間前にここへ来たとき、小南さんからトリマルくんはレイジさんを師匠としていると教えてもらったけど、もしかして無表情まで教授されてるんじゃなかろうか。あの大事な筋肉は教授されていないようだけど。
自分でもよくわからない視点で師弟関係を想像していると、レイジさんはカウンターの上に置いておいた焼きメレンゲ入りビンを眺めて「それも作ったのか」とキッチンに回り込んできたので、肯定しながら陽太郎のお湯加減を調整して石鹸を渡した。
「陽太郎も手伝ってくれました」
「そうだぞ、あいについてかたりながらな」
陽太郎は手を洗いながらそう言うと、近くに寄ってきたレイジさんを見上げて爆弾発言を落とした。おーい、それ言わなくてもいいやつ。
苦笑いで貫き通そうとしていたが、手を洗い終えた陽太郎はレイジさんに手を伸ばして台から下ろさせてもらうと、部屋の隅で寝ていた雷神丸を呼び寄せてから改めてレイジさんを見上げた。
「なまえはかわいそうなやつだ、あいを知らないらしい」
「愛? また深い話をしていたな」
「しし、知ってるし」
「む、ならば、こなみのあいはなんだ?」
キリッとキメ顔でそう言う陽太郎の愛の定義がよく分からないな、なんて思っていたが、無茶ぶり質問に答えられるほどの愛は知らないので正直に「すみません、わかりません」と言ってお湯で手を洗う。
「こなみのはな、かかわりたいあいだ」
「関わりたい愛?」
「あいつはすなおじゃない、なまえのちかくにいたいことをかくしてるあいだ」
それは愛と呼ぶのだろうか、なんて思いつつ俺となぜだかレイジさんも陽太郎の話を聞く。暇なんだろうか。
「おれは、よしよしのあいだ」
「よしよし?」
「そうだ、なまえはなきむしだからな。よくねているときによしよししてやるとなきやむ」
「え、な、泣いてない」
「まあ、みとめたくないのならそれでいい」
陽太郎はため息を吐いてからそう言うと、珍しく素直に近くへ寄ってきた雷神丸に乗り、ほんの少しだけ高くなった視線のまま「といれだ」とだけ言って話を切り上げて行ってしまった。
え? な、泣いてないよな。雷神丸と陽太郎とは結構な回数一緒に寝ているから分からないけど、え、俺泣いてたのか? いやたまに朝起きたら涙が出てることはあるけど、玉狛支部に居るときもそうだったのか?
泡立てた石鹸のついた手を無言でゴシゴシと流し続けていると、隣で溜め息を吐いたレイジさんがお湯を止めて「洗いすぎだ」と見つめてくるので、はっと我に返ってからその二度目の『呆れ』の視線を受けつつタオルで手を拭く。
「陽太郎の言ってたこと考えてたのか」
「え? ああ、はい、」
「泣いてるのは知らないが、陽太郎の言う愛は感情のことだろうな」
「感情?」
「小南が名字のことを気にかけているのは事実だが、そこに俺たちの言う愛があるのかは分からない」
感情、つまり陽太郎の場合、誰かが俺に感情を抱いた時点でそれを愛だと認定しているということだろうか。これが俺だけに適用する法則ならば、たしかに俺の周りは愛で溢れているんだろう。例えそのなかに悪い感情があったとしても陽太郎ならそれも愛と呼びそうだ。
そうなると、陽太郎のなかにいる俺は愛に囲まれていて幸せだろうな。俺のなかの俺もそれになれたらいいのに、現実に向けられているのは変な視線ばかり。
「陽太郎の世界にいる俺は幸福者ですね」
「名字は違うのか」
「いや俺は幸福者になりたいんじゃなくて、誰かになってほしいだけの人間なので大丈夫ですよ」
そう言ってからレイジさんの視線を掻い潜り、オーブンの目の前に立ってクッキーの様子を見る。あと二十分。
すると何時ものレイジさんなら俺の逃げに気が付いて「そうか」なんて言って見逃してくれるのに、今日に限っては『既視感』の視線を俺に向けて黙り込んでしまった。
『洞島も、そんなことを言っていたな』
洞島、つまりアキちゃんのことか。
確かレイジさんはアキちゃんと同じ学校に通ってはいたけど関わりはそんなになかったんじゃ。
「アキちゃんと知り合いでしたっけ?」
レイジさんは俺がどんなサイドエフェクトを持っているのか知ってるので、構わずにサイドエフェクトで読み取った情報から話を展開させる。すると慣れていないからか少し驚いていたけれど、直ぐに納得したように「いや、」と反応してくれた。
「一度話しただけで知り合いという関係ではない」
「? 一度話したときに俺の言ったことと似てる話をしたんですか?」
「まあ、そうなるな」
それは随分と濃厚な話をしたんだな。
「あいつが喧嘩しているところに出くわしてな、疑問に思っていたことを聞いたらそう返ってきた」
「疑問?」
「……したくないのならしなくていいし、やめたいのならやめればいいと言ったんだ」
「、喧嘩をですか」
「ああ、遠目でもあいつには喧嘩以外の居場所があるように思えたしな」
喧嘩を居場所にしてる人や逃げ場にしている人はきっと何処かに存在して、そういう人達はやめたいと思っても直ぐにはやめられないだろうし、もしかしたら喧嘩から離れることに恐怖さえ覚えるのかもしれない。
けれどアキちゃんは違う、喧嘩は自分のためではなくて相手のためにやっていて、怪我をしてもそれが相手の喧嘩を買わないよりはマシだと考える人だから売られた喧嘩はキチンと買っていたらしい。
そんな人間を煙たがる人はいると思うけれど、アキちゃんは優しいし、接して分かる人にはそれが分かるからきっと周りに人が絶えなかったんだろう。
けどアキちゃんは周りにどんな人間がいようと、キッチリ線引きして俺たちのことを一番に考えてくれていた。自分のことよりも。
「俺とアキちゃんは違いますよ、俺はまだまだ自分本意のところがありますし、守りたいものの線引きも曖昧ですしね」
オーブンの中で並べられたクッキーを覗き込みながらそう言うと、レイジさんは少し窓の外に視線を逸らしてからシンクに寄り掛かり、ポツリと呟く。
「お前がそうなりたいなら、そうなればいい。ただそれに辛くなったら、一瞬でも元の自分に戻ることを許してやれ」
「、はい」
ジジーッとオーブンから音が小さくなるだけの空間は、結構悪くない。
レイジさんと最後に話したのなんてカラオケにいる時少し電話したくらいなのに、それでも色々悟って結局本人の意思を尊重してくれるなんて、やっぱり優しい人だ。しかも、優しさだけではなく厳しさも兼ね備えつつ、言葉にトゲが一切なくて、レイジさんのそういうところが好きだ。
「レイジさん、俺に稽古つけてください」
「……今からならいいが」
「クッキー焼き終わってからでも?」
「ああ」
「やった、」
訓練自体久しぶりで少し緊張するけれど、きっとそれすらもレイジさんは汲み取ってアドバイスをくれるんだろうなあ、なんて考えながらクッキーが焼き上がるまでの残り時間を会話で潰す。
そして筋トレの結果報告や戻ってきた陽太郎との会話で時間を潰してから焼けたクッキーを皿に盛りつけ、俺とレイジさんは訓練室に向かった。
◆◇
俺のことを呼び出した人物が戻ってきたのは夕方頃、レイジさんとのブラックトリガーの訓練最中だった。未来視えるのにそのタイミングの悪さはなんなの、と思って制服姿の迅を訓練室の天井にぶら下げたのはここだけの秘密だ。
「いやー、ミノムシってあんな気持ちなのかねー」
「知らん」
陽太郎と買い物に行くらしいレイジさんと泣く泣く別れて仮眠部屋に居座る俺は、目の前の迅に顔を背けて眉を寄せる。久々のレイジさんとの訓練だったのに、と続けて言うと、大して悪びれもなく笑ってからベッドに座るので少しいらっとした。
そしてふと、この部屋に全く来ていなかったわりに埃が溜まってない……というより初期の頃より綺麗になってるんじゃないかと思えるほどの状態に少し疑問を覚え、部屋を然り気無く見回す。すると、それに気がついた迅が靴を脱いでベッドの上に胡座をかいてから口を開いた。
「おれが宇佐美に頼んでるんだ、暇なときに掃除してくれって。おれもたまにしてるし」
「ふうん、この部屋使われるようになったんだ」
「ちがうちがう、おまえが使うからだって」
「……え?」
「おまえが帰ってこられるようにさ」
「な、んだそれ」
嘘をついていない。嘘をついていないと分かるからこそ困惑し、そこまで俺のことを考えてくれている事実に少し驚く。
与えられてばかりだと嘆いていたけれど、きっとまだ俺が知らないものが与えられている。それに、迅は俺のその気持ちを知っていながら与え続けてくれる。それがどういう意味なのか分からないけど、その事を素直に受け入れ続けることができない俺は天の邪鬼だろうか。
「迅はさ、返報性って知ってる?」
「? さあ」
「与えて貰ったら与え返したい、与えたから与え返して貰いたい。そういう人間の性の話」
「おまえはたまに難しいこと考えるよなー」
俺の言葉に苦笑いを溢す迅に、立ったままの俺はため息を吐いて腰に手を当てる。
与えられ過ぎて罪悪感を感じたことがないのか、と思いつつもそんなことを口に出すほど子供でもないので話を止め、当初話そうとしていたであろう話題を切り出す。
「で、迅は俺に話があったんだろ?」
ベッドの近くのサイドテーブルに置かれたデジタル式の時計を眺めつつ夕暮れ時の時間帯の数字を頭に浮かべながらそう尋ねれば、迅は「まあね、」と呟いてからベッドに倒れるように横になった。
それに対して俺は何となくベッドの掛け布団に顔を埋めた迅に近寄り、首をかしげる。何やってんのこいつ、制服皺になるぞ。
「迅?」
「んー、?」
「………眠いのか?」
「いや、」
「……………なんなの」
視線になんの違和感も無かったのに突然訳の分からない行動をとった相手に珍しさを覚えながらベッド際に座り、小さく息を吐く。
迅といるとやっぱり、俺はおかしい。自分でも把握できてない何かが触れたがるし、顔がみたいだなんて変なことを思う。
すると迅はむくりと顔を上げ、むくりと上半身を起こしたかと思うと這うように近づいてきた。
「じ、迅さん?」
「名字は、無防備なのかそうじゃないのか分かんないなー」
ずいっと呆れた表情で覗き込むようにして見つめてするなり『呆れ』の視線を向けてくる迅に、意味が分からなくて視線を逸らす。
距離が近い、顔が近い。俺の手の直ぐそばに迅が手をついているということにもなぜだか変に意識してしまい、こういう感情がどうして湧いてくるのか知らないまま逃げるように距離をとろうとする。
だが、迅はそれを見越したように俺の肩に額を押し付けてきた。
「名字、」
「な、なに?」
「………名字は凄いよな」
「、あ?」
右肩に温もりを感じながらその言葉に意味もわからず驚き、会話を繋げようという意思を何処かに置いてきたような反応を返してしまう。
視線の感じられないつむじを見つつ、これがもし迅の甘え方なら随分と可愛らしいなと思うが、それを素直に受け入れられるような立ち位置でもないので戸惑うことしかできない。どうしよう。
「名字は、おれが視ていた中で大体いつもいい方の未来を選んできてる。それがどれだけ凄いことなのか分からないと思うけど、おれは分かる。名字は凄い」
「、そうなん、だ」
「クラスメイトくんのことも人殺しの噂も、まだ解決したわけじゃないけどいい方向に向かってる」
いつもとは少し低い声のトーンで話す迅に疑問を覚えるが、ここで話の腰を折るのも嫌なのでそのまま気がつかないふりをして相づちをうつ。
「でも、まだ最後の未来は変わらない」
「……………うん」
「確定じゃないって分かってるのに、夢にまで見る」
夢にまで、その単語で俺が迅を知らないところで苦しめていたことを察する。
迅のサイドエフェクトは夢で未来を視るものでもないのに、俺の死を何度も視ているから脳が覚えてしまったのか、夢にまで出てきてしまっていたらしい。只でさえ責任感が強いというか、色々背負いがちだから。でもそれを俺が謝ったところでどうにもならないのは分かるし、分かるからこそ何も出来ていない自分が嫌になる。
右肩に額を押し付けたままの迅をじっと見つめて指先で頬に触れると、驚くでもなくされるがまま少し顔をあげて見つめてくる。
ああうん『悔しい』って視線をしてるよ。
「今目の前で生きてる名字が死ぬなんて、そんな未来、覆すしか選択肢はないのにな」
「……頑張ってるつもりだよ、俺も。きっと俺の知らないところで迅も何かしてくれてるんだろ」
頬に触れていた手で髪を耳にかけてやると、迅はその行為をじっと見つめてから俺のその手をとって自分の頬を擦り寄せてきた。
その迅らしかぬ行動に心臓を跳ねさせながら目を見開き、部屋の空気全体がいつもと違う色を醸し出し始めてることに今更ながら気がつく。
擦り寄せられた頬に親指を滑らせ、迅が俺を思って弱っていることが何だか不謹慎にも嬉しい俺は、付け込むように人間味を感じ取って安心させるように微笑む。
「大丈夫、きっと上手く行く」
「……………分かってる」
耳が赤くなってきた迅に気がつきながら、自分の心拍が上がってきていることにも気がつく。
この感情はどうなんだろう。少なくとも確実に言えるのは、俺と迅の距離が物凄く近くて、いつもと違う雰囲気で接してるということ。
すると、迅がそんな俺の肩に手をつくと、ぐぐっ、と力をかけて押してから気を取り直したように体重を乗せてくるので、二段階の方法に疑問を持つ余地を与えて貰えなかった俺はそのままベッドに押し倒されて上にある顔を見上げざるを得なくなる。
一旦迅の顔から離れた自分の手を握りしめ、手汗が出てきそうな感覚に陥った俺はベッド上に手を投げ出した。つまるところ、抵抗もなにもする気はない。
「迅?」
「………二人だろ」
「?」
「名字にキスをした人」
「、? ふたり、新斗さんは……ってその未来も視てたのか」
「誕生日にな」
「それは、ごめん?」
片方だけ髪の毛が耳にかかった迅を見上げ、俺の好きな青い目に自分が映っているのが見えて少し嬉しくなる。
向けられている『嫉妬』の視線も、意味が分からないけど何故か心地いい。
「何に嫉妬してる?」
「………二人に」
「何で?」
「…………おれは名字の未来を変えられないのに、その二人が変えるから」
問いかけに素直に答えてから視線を逸らす迅がなんだか凄く、変な感じ。
だからだろうか、投げ出していた手を相手の首の後ろに回し、引き寄せるように抱き締めてから向かい合うようにして横に寝かせた。さっきより近くなった顔に心臓が締め付けられるが嫌じゃなかったので、そのまま暫くじっと顔を見つめてから口を開く。
「俺は迅が居るからこうやって今生きようと思えてるんだろ。俺の未来を変えてないって迅は言ったけど、迅は俺を変えてきたんだから、もっと凄い」
腕枕されながら目を瞬かせている至近距離の迅に、にこにこと笑みを浮かべやる。もし視線が読み取れない俺がここにいても、迅が今喜んでいることは一目瞭然だっただろう。
そして視線を逸らして「そうかい」と笑う迅に、今度は俺が覆い被さるようにしてベッドに手をつく。
「……………、」
あ、駄目だ、このアングルは駄目だ。
孤児院に迅が泊まりに来た時の感情を思い出した。
その日から何かが変わった自分の気持ちにも気がついていて、今、この瞬間、上から迅を見下ろしてソレがどう変わっていたのかやっと理解する。
俺は、迅が"そういう意味"で好きになりかけているのだ。
なりかけている、で留まってるのは、きっと倉須のことが昔の俺の頭や心で引っ掛かっているからだろう。
倉須がある程度俺から離れている今だから言えるけれど、昔の俺の心は少なくとも"そういう意味"で倉須のことが好きだった。あながち俺の同姓愛者の噂は間違っていなかったのだ。
まあ現実は許されず今の俺もそれを許さなかったので、その想いは封印して墓場まで持っていくつもり。だけど、今の俺の気持ちは少し迅に傾いている。
多感すぎる、まるで好きな人が何人もいる小学生だ。倉須のことが好きだった昔の俺と、迅を好きになりかけている今の俺。
「…………」
押し倒してからいきなり黙りこんだ俺を不思議に思ったらしい迅は、頬に手を伸ばして真っ直ぐ見つめる。
青く透き通った俺の好きな目、やさしくてちょっと泣きそうな瞳。その瞳に自分が映っているのが今度は何だか悲しくなってきて、報われない恋を二つしている自分がバカみたいに思えてきた。
するすると頬を撫でてくる迅に期待しそうになるが、前に迅が言っていた『報われないし救われない』という言葉が結果の裏付けになってるので舞い上がることはしない。
「名字、なに考えてる?」
「じん、るい」
「、は?」
「人類」
「……それ、本気で言ってんの?」
何言ってんだ、俺は。
俺の言葉にひきつった表情になった相手を見つめ、我に返った俺は上から退いて自分の言葉に対して首をかしげる。
無意識過ぎて意味がわからないし、これからどう誤魔化していけばいいのかわからない。
「……ごめん、本当は迅のことを考えてた」
前までなら、ここでどんなことがあろうとも嘘を突き通していた。なのに、今では迅の前じゃ簡単に嘘だと白状してしまう。
それが好きとか信頼とかと関係していることなんだとしたら、自分が成長したようで嬉しくもあり、自分の中の優先順位が変動しそうで不安でもある。
孤児院の皆には嘘を吐き続け、迅には嘘だと白状する。それは双方のことを思ってそれぞれ対応をしている結果だけど、それでも一番優先順位が高い孤児院への対応が卑怯なことばかりで、自信をもって正しいことをしているとは言えないのが辛い。
「……………おれのことか」
なにそのかお。だから期待させないで欲しいんだけど。
体を起こし、はあ、とため息を吐いて後ろに手をつくと迅が見つめてくるので、わざと彼を見ずにベッドのシーツを掴みながら床を見下ろして目を閉じる。
誰かを好きなることは役割に反することではないのに、素直に好きだと言えないのは男同士であることと、報われない人生だと知っているから。それに倉須のことを引き摺ってるから。
「クッキー、」
「……………クッキー?」
「そう、クッキーとメレンゲ焼いたやつ。陽太郎と作ったから食って」
そしてそのままゆっくり目を開いてから立ち上がり、こいつがここに俺を呼び出した理由がよく分からないままここを立ち去ろうとすると、迅はベッド上に胡座をかきながら俺を見上げて口を開いた。
「頼みがあるんだ」
「、へ?」
そう言って真っ直ぐ見つめ、真摯な視線をぶつけてくる迅に俺は驚く。
迅が俺に頼み事だなんて珍しい、なんて思いながらサイドエフェクトを意識すると『定期的におれと会って欲しい』だなんて内容が読めてこれまた驚く。
「どういう意味? なんで会いたい?」
「あー、読んだのか」
「うん」
「定期的に会って、名字の未来を視ておきたいんだよ」
「………、ああ、そう」
その言葉に、自分の心が少し残念に思ったのがいやでもわかる。
そっちかよって、馬鹿みたいだ。与えられる側から少しは変われると思ったのに、結局この事も俺のためじゃないか。積み上げられたこの恩がもし積み上げられ過ぎて倒れてしまったのなら、その時迅の傍に居られるんだろうか。
そんなことを考えて視線を逸らし、窓の外に広がるオレンジに色づき始めた空を見つめて小さく息を吐く。
「優しすぎるってのは、罪だな」
「それを名字が言うのか?」
「だからさ、前にも言ったかもしんないけど、迅と俺の優しさは違うんだって」
「それでも優しさは優しさだろ。おれだって名字の優しさはズルいって思ってるっての」
完全に昔の俺の悪いところが出てきて八つ当たりをしそうになっていると、迅は少し物珍しそうに俺を見つめてベッドから立ち上がり、目の前に立つ。
「与えられてるって名字はよく言うけど、おれだって与えてもらってる」
「……なにを」
「それこそ優しさとか、何気ない一言とか、これを言うのは結構恥ずかしいけど………おれを信頼してくれてることとか」
そう言う迅に胸が締め付けられる俺は単純で、きっとこのままここに居たら耳まで赤くなる自信があるので逃げるように部屋のすみを見つめる。
「返報性だっけ? 確かに、ちゃんと返されてるよ」
「……………ほんとかよ」
「この状況でおまえに嘘は通じないだろ」
目の前にいる迅が呆れたようにへらりと笑うので、予想通り熱くなる自分の顔に戸惑って眉を寄せる。すると、迅は少し驚いたようにしてからおもむろに手を伸ばしてきて、頬に触れてから俺の目元を撫でた。
やめてほしい、なにがか分からないけど『かわいい』だなんて視線を送らないでほしい。
「、じん」
「…………うん」
「俺もう、帰らないと」
「……………わかってるって」
絶対に赤くなってる自分の顔が恥ずかしくて視線を逸らそうとすると、それを阻止するように迅が手を動かすので逃げられない。だから、目の前の迅が早くこの状況から解放してくれるのをソワソワして待つ。
好きってスゴいな。こんなにも色々なことを忘れたくなるほど強い影響力がある。だから怖い。
「、迅くん?」
「はあ……………」
「ちょ、」
解放を待つように小首を傾げて名前を呼べば、それを真っ直ぐ見つめていた迅は一瞬目を伏せてからまた溜め息を吐いた。
「迅くん? どうしたの? お腹でもいたいの?」
「おいこら子供扱いすんな」
「悠一くん」
「、やめなさい……で、次はいつ会えるんだ」
「そんなの分かんないだろ。いつも大して約束してないし」
「じゃあ、一週間会えなかったらおれに会おうとして」
「わ、わかった」
まるで遠距離恋愛をしている恋人のようだ、なんて考えて虚しくなったけれど、考えるだけはタダなのでその思い付きは心のなかだけに留めておく。そして俺の返事を聞く迅は暫く目を合わせてからなにも言わず離れたので、その時に向けられた視線が変に嬉しそうだったことの理由はわからなかった。
「じゃあ、またいつか?」
「おれも名字も一応忙しいからな」
「え、俺もまた忙しくなるのか」
「まあ、そんな感じ」
「……頑張るよ」
「へえ? 何のために?」
「何のためにって……あ、未来のため?」
「忘れてんじゃん」
「わ、忘れてないし、」
肩を竦めてヤレヤレという表情をする迅に肩の力を抜き、やっといつもの自分が戻ってきたような感覚になって思わず話の脈略関係なく微笑む。
「忘れたら許さないからな」
「……………うん」
わかってる。死ぬなって倉須にも言われたし、何より孤児院のみんなを置いて死ぬわけにはいかない。死なないように努力しないと。
けれどこう言ってくるということは、俺の未来の結末はまだ変わっていないということ。だから迅も会いたがる、それ以外に理由はない。わかってる。
そして結局俺たちふたりは仮眠することなく仮眠部屋から出る。
迅が自室に戻るのを見送ってから居間でクッキーを食べている陽太郎の頭を撫で、小南さんに軽く挨拶してから玉狛支部を後にした。