春を冠する名前の通り、彼女には酣の頃の春の匂いや雰囲気が似合う。フェイ・ルーンは、チームメイトの菜花黄名子に対してそんな印象を抱いている。尤も、彼の目線は最初から極めて他人行儀なものだったかもしれないけれど、それでも冷めた心に浮かんだその想いは本物だった筈だ。菜花黄名子は春みたいな女の子。長い髪を軽やかに靡かせて、彼女はフィールドを駆け回っている。その丸っこい顔に浮かべられるのは、必ずと言って良いほど満面の笑みだ。それは、フェイにとっては少し眩し過ぎる笑顔である。だから逸らしたいと思うのだけれど、何故か彼女から目を離せない。彼女の光が、フェイの知らない暖かさを伴って抱きしめているような――そんな、とても不思議な感覚に襲われている。黄名子に釘付けになったまま動かない視線を、フェイは今日も心底疑問に思う。それから、僅かな抵抗として、太陽を見る時と同じようにゆっくりと目を細めている。

「――黄名子は不思議だね」
「?、いきなりどうしたやんね」

 立ち止まったまま呟きを落とすと、黄名子はそれを疑問そうに拾い上げ、こちらに向き直った。茶色の髪が緩やかな波紋を描きながら翻る。試合中は激しい闘いの場と化すグラウンドでサッカーをするのには、その長く豊かな髪は邪魔ではないかとフェイは思うのだが、あれには黄名子なりのポリシーがあるらしく、彼女に髪を切るという選択肢は無いようだった。現時点でサッカーに支障をきたしている訳でもないのだから、別に良いか。フェイの思考は次第にそんな結論へと導かれていた。
 
「…何でもないよ」

 春の陽射しが暖かい訳を、忙しさと雑踏の中に呑まれているこの時代の人々は今更考えようともしない。その事実と同じように、黄名子が持つ不思議な暖かさはフェイの周りに当たり前に存在している。フェイは、そんな彼女が眩しくてたまらない。自分を引き付ける力さえなければ、すぐにも目を逸らしたいのに。でも、黄名子がそばにいるこの世界を案外悪くないと捉えているのもまた、彼の中に鎮座している不可解な事実であった。厳しくも心地好い。その矛盾に在る限りない矛盾の正体を、フェイは知らない。知ってしまっても変わる事など何もないから。そう言い訳を繰り返して、彼はそっと瞳を閉じている。
 黄名子は「おかしなフェイ」、とくすくす笑いながらドリブルを続けている。フェイにとって唯一、彼女との繋がりたりえるサッカーボールは真っ直ぐな軌跡を描きながら、黄名子の足に吸い付き、離れ、また吸い付くという動きを何度も見せている。フェイはその軌跡がとても好きだった。黄名子もきっと好きだろう。好きでなければ、今彼女は、時空を不自然に歪めてまでこの場にはいない筈だ。彼女の目的が分かっていない今でも、それだけは真実だと彼は思う。
 フェイのすぐそばを、黄名子が走り去っていく。瞬間、彼の鼻孔を優しい匂いが擽った。フェイの知らなかった匂い。知っていたけれど、気が付かずに通り過ぎていた匂い。あたたかい、幸せな春の匂いを、彼女はふんわりと全身に纏っている。黄名子はやはり、フェイにとってとても眩しい存在だった。春の暖かさが持つ暖かさを、フェイはまだ素直に享受することが出来ない。もし受け入れられたとしてもすぐ手放す事になってしまうだろう。自分達は互いにイレギュラー、この世に存在するべきではない者たちだから。此処を去る時、その暖かさや優しさはきっと彼を苦しめる鎖になる。フェイにはそれを受け入れる強さが無かった。与えられた知らない物をすんなりと飲み込むことが出来る、人の明るい部分が固まって出来たような、そんな強さが。
 
「フェイはボール、蹴らないの?」

 黄名子は無邪気な声で尋ねてくる。フェイはゆっくりと目を開けた。正面から彼女を捉え、微笑んでみせる。上手く、綺麗に笑えている筈だった。
 ――優しさを享受出来る訳ではないけれど。彼女を完璧に受け入れられもしないと思うけれど。それでも、今此処に自分たちがいたということ。黄名子が笑っていたこと。彼女からフェイに、そっとボールが渡されたこと。それから、漂う、春の匂いを。フェイは、この世界からの餞別としてこっそり心の中に仕舞っておこうと思った。忘れてしまう事も出来ない臆病な自分を、彼は捨てきることが出来なかったのだ。光の中、少しばかりの間、この世界にフェイが生きていたこと。優しさに愛された、この、小さな少女は、花びらに乗って消えてしまいそうなくらい儚いその歴史を、覚えていてくれるだろうか。
「ありがとう。じゃあ、僕も蹴ろうかな」
「うんっ、じゃあパス練しよー!で、そのあとはシュート練習で良いやんね?」
「――うん」
 心の中で、フェイは「ありがとう」と小さく繰り返してみる。出来るならば、黄名子の「これから」が今まで通り幸せなものであれば良い。自分が消えてしまっても、そして、たとえ彼女自身が消えてしまったとしても。二人が確かに生きていた証は、土に塗れたサッカーボールと、春の良い匂いに満ち溢れた光の中にしっかりと刻まれている。



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