天体観測
「星が綺麗だな」
言いながら高橋は爽やかに笑った。星の輝く夜である。A棟の屋上に天体望遠鏡を持ち込み空を眺めている最中のことだった。
「そう思うだろ?えっと……木村」
「…前橋です」
呆れながら本日五度目の名前間違いを指摘する。高橋はポンと手を叩き何度も頷く。奴は名前というものにそれほど価値を見出だしていないようで他人の名前を覚えることを放棄しているのだ。短い付き合いではあるが、俺は奴が人の名前を間違えずに呼ぶところを見たことがない。
「で、前田。何の話してたっけ?」
俺は前橋だ。つい先程間違いを指摘したにも関わらず間違うとはどういう了見だ。
隣で首を左右に傾げていた高橋は不意にその動きをやめ、勢いよく俺の方を見た。
「思い出した!星が綺麗なんだ!」
高橋は嬉しそうに手を広げ、爽やかに笑った。この笑みに心奪われた女性は数知れず、奴の病室には看護婦ばかりが往来しているそうである。食事を持ってきた看護師が奴の病室あたりを指差して教えてくれた。病室には看護師しか来ない理由はまさしくそれだと隣の患者が恨めしそうに言っていたのを覚えている。
「な、岡本。綺麗だろ?」
「……そうですね」
俺は岡本じゃないが最早何も言うまい。
高橋は子供のようにはしゃいでいた。空を見上げては勝手に星座を作ったり、俺の右足のギプスをつついて爽やかに笑うのだ。はっきり言って鬱陶しい。
俺には奴が何故入院しているのか知らない。同じ病室の奴らに聞いても答えは返ってこなかった。どうやら結構長い間入院しているらしいことだけわかった。
「はたしてこの星星は幸せなのかな?ねぇ、秋山」
「…どういう意味ですか?」
「誰にも覚えてもらえないで消えていく星は幸せなんだろうかって。誰にも知られずに消えていくのは悲しいと思うんだ」
高橋は爽やかに笑ったが、その瞳には何か違う感情が込められていた。それが何なのか、俺は知りたくないから目を逸らして天体望遠鏡を覗く。奴の所持品であるこれは俺が家に持っているものよりも大きい。だが型はかなり前のものである。それにしては使い込まれていない。まるで最近使いだしたようだ。
「じゃあ高橋さんが覚えていたらいいじゃないですか」
「うん?」
「高橋さんが全部覚えていたら星は悲しくないですよ」
「……でも、俺はね」
高橋の声に覇気が無くなった。
その先は聞きたくない。
俺は天体望遠鏡を覗き込んだまま手を動かし、奴の体を叩いた。掌に伝わる感触から、どうやら狙い通り肩を叩けたようである。
「中森…」
「だから俺は前…もういいです中森で」
言いながら天体望遠鏡から目を離すと、高橋は爽やかに笑っていた。その瞳は潤んでいる。俺が天体望遠鏡を奴の方に寄せると、奴はそれを覗きながらしきりに目を袖で擦っていた。
「…これで星は幸せだね」
「そうですね」
鼻声になった奴はもうこちらを見ない。見られない、と言った方が正しいだろう。
明日取れるギプスを見つめながら、俺は隣で輝く星を記憶に刻みつけた。
天体観測(星は爽やかに微笑う)
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