09


人気も無く、車の往来も少ない。完全に帳の下りた道を一台の黒い車が闇の中に溶け込むようにして静かに走っていく。
その車内では掛け慣れない黒渕の眼鏡の弦に拓磨が指を滑らせていた。

「眼鏡一つで結構印象が変わるな」

人一人分を開けて拓磨の隣に座っていた大和が拓磨から受ける印象について興味深そうに呟けば、声を掛けられた拓磨はそうか?と自分では良く分からないと微かに首を傾げる。

「それなら印象操作にも役立ちそうです」

これから対峙する相手を思えば、花菱もこれは一つの自衛策になるのではないかと拓磨の顔をルームミラー越しにちらりと見た。

拓磨が現在耳に掛けている黒渕眼鏡はただの眼鏡ではない。小田桐が部下を走らせて、鴉のアジトとは別にある情報部隊専用の拠点から持ってこさせた代物だ。
一見ただの眼鏡に見えるが、弦の部分には会話を盗聴する為の発信器が組み込まれており、別の場所で待機する小田桐ら情報部隊が持つ受信機へと直に会話が飛ぶようになっている。
通常市販の盗聴器は窓や壁といった障害物、距離の問題が発生するが、そこは情報部隊の頭、小田桐がどうにかして技術的問題もクリアさせたらしい。
また、発信器の仕込まれた左側の弦とは逆の右側の弦にはフレームの黒色に更に濃淡の濃い黒色を使い、鴉のマークが描かれている。その眼鏡を外してまじまじと見なければ分からない程フレームの色と溶け合っている鴉のマークには秘密があり、眼鏡のブリッジの部分に仕込まれた小型カメラの起動スイッチになっていた。
証拠や言い逃れ防止の為の盗撮、盗聴。
機材は全て小田桐が短時間の内に用意していた。

「ですが、大和さんはそのままでいいんですか?」

直ぐに前へと視線を戻した花菱がハンドルを右へと切りながら、話を続ける。
運転席に座った花菱の左隣、助手席には黙したまま居心地が悪そうな顔で周防が座っており、向かい合わせにセットされた後部座席に拓磨と大和。その向かいに花菱の部下が二人、周囲の警戒をしつつ直近で交わされる会話に静かに耳を傾けていた。

花菱から上がった指摘に拓磨は隣に座る大和の横顔へと目を向ける。

「必要ない。俺には探られても痛い腹はないし、おそらく…面も割れてるだろう」

大和は今後生じるかも知れない懸念事項を頭の中で思い浮かべながらも特に動じた様子も無く、冷静な面持ちで花菱へと言葉を返した。

したっぱは別として、鴉内で拓磨の顔を知らない者はいないだろうが、鴉外の人間となると話は別だ。拓磨の代わりに表立って動くことの多かった大和のことを鴉の総長だと勘違いしている人間もいる。
大和はその可能性を示唆した上で、一段低めの冷めた声と射ぬく様な鋭い眼差しを助手席へと投げた。

「それよりも…俺はこっちの方が今後の問題だと思うが」

助手席で沈黙を保つ周防は急に冷え込んだ車内の空気と、自分へと向けられた複数の視線、気配を敏感に感じ取って、じっとりとした嫌な汗を背中に滲ませた。

「拓磨の護衛には使えるかもしれないが、部外者には変わり無い。鴉の内情、特に花菱。お前の面がバレたことが一番厄介だ」

遠回しに叱責されたと感じ取った花菱がびくりと肩を揺らし、本当に申し訳ありませんでしたと誠心誠意謝罪の言葉を口にする。

「その辺り、どう考えてるんだ拓磨」

周防の飼い主が氷堂であるなら、拓磨の害になるようなことは周防もしないとは思うが、大和は鴉の総長としての拓磨と周防との関係をはっきりさせておく為に敢えて口に出した。

「そうだな…」

眼鏡の弦から指を離した拓磨は窓の外へと視線を流し、僅かに思案する様子を見せた後、途端に興味が失せたような表情を浮かべる。そして、車内に視線を戻さぬまま花菱に命令を下した。

「車を止めてソイツを放り出せ」

「分かりました」

「え…っ」

あまりにも淡々とした拓磨の決定と花菱のやり取りに、拓磨から放り出せと名指しされた周防が戸惑ったような声を上げる。

「聞き間違いだよな?放り出せって、俺は拓磨さんの護衛で…」

しかし、拓磨の命令に忠実な花菱は周防の言葉など気にせずに言われた通り車を減速させると、路肩に寄せ、静かに車を停車させる。
助手席から振り返った周防の視線を横顔に感じながら、拓磨はその視線を切って捨てる。

「降りろ、周防」

「ですが…!」

「今の俺にお前の護衛は必要ない。むしろお前に居られると迷惑だ。……自分の立場を良く考えろ」

大和は口を挟むつもりがないのか、黙したままやり取りを聞いている。

「ことが終わったら回収に来てやる。それまでここで大人しく待ってろ」

「いや、でも………」

中々素直に応じない周防に花菱が横から声を低めて忠告する。

「聞こえなかったか?うちの総長が降りろと言ったんだ。部外者が口答えするな」

「……っ分かった。分かりました!けど、このこと兄貴には連絡させてもらいますから」

前半は花菱に、後半は拓磨に向けて言葉が投げられる。
それに拓磨は好きにしろとだけ返して、周防はまだ納得がいかない顔のままその場で車から下ろされた。







一人減った車内で、遠ざかっていく周防の人影が片手に携帯電話らしき物を取り出している姿をミラー越しに確認して、それまで黙していた大和がほんのりと暖かさを感じさせる声で言った。

「ちゃんと言ってやらなくて良かったのか」

「何を」

「お前がそれでいいなら俺は構わないが」

「……少し考えれば分かることだ」

どのみち周防はこの会談には連れて行けない。
先程まで同行を許していたのは、部外者を鴉の中に残していける筈がなかったからだ。そして、それは決して周防の身を案じたからではない。全ては自分の為。
拓磨は個人としても、鴉の総長としても、周防の行動を制限する必要があった。
これから会う予定の相手は、猛とは系列は違うと言ってもヤクザに違いはなく、周防の顔や名前を知っている人間が居ないとも限らない。周防の存在から猛へと、有りもしない鴉と氷堂組との繋がりを勘繰られたくもない。
…元より鴉の俺と氷堂組の猛とは無関係だ。
だから、

「花菱の件に関しても余計な詮索はしてこないだろ。そんなことしても向こうには何の得にもならない」

「お前がそう信じるなら俺もこの件は捨て置く」

拓磨の口から出た、相手への信用を前提とした意外な台詞に大和は薄く口許に笑みを掃き、拓磨に同意の意を示した。
ただ一人、ハンドルを握る花菱だけがどこか罰の悪そうな表情で目を泳がせていたが、誰も気付くことはなかった。
故に拓磨は、花菱と猛が既に顔を会わせていたことなど知るよしもなかった。

「本当に申し訳ありません、総長…。でも……」

口内で呟かれた囁きは誰の耳にも届くことはなく、花菱は目の前に広がる暗闇へと意識を戻した。
その何物にも染まらぬ漆黒。静かすぎる静寂の中、感じたのは圧倒的な存在感。投げられた眼差しには畏怖を覚えた。

『お前達の危惧する事態は理解した』

さすが大物というべきか、花菱が目的の人物とどう接触するかとわざと相手の視界に入るようにして周囲を彷徨いていると、さっそく向こう側からコンタクトがあった。
相手は不審者や敵対組織の人間かと勘繰った様子で、ビルの一角に入っているコーヒーショップで窓の外を眺めながらその時を待っていた花菱に接触してきた。
始めに何者かと訊かれ、花菱はトワの名前を出した。だが、それだけでは通じなかったので氷堂さんの同居人のことについてだと用件を口にした。途端、目の前の人間の顔色が蒼白くなり、慌てて直ぐに取り次ぎますと言ってコーヒーショップから相手は飛び出していった。
その様子に、果たして我らの総長は彼らにとって何なのだろうかと花菱は僅かに疑問を抱いた。が、それも直ぐに霧散してしまった。取り次ぎに飛び出して行った相手の部下が数分もしないうちに戻ってきたのだ。そして花菱はその部下に向かい側にあったビジネスホテルの一室まで案内され、そこで秘密裏に目的の人物と顔を合わせることが出来たのだった。

『対処もこちらでしてやる……が、これ以上、アイツの重荷を増やす様な真似はするな』

『…善処します』

『そうしろ。でなければ、後藤 拓磨には消えてもらうことになる』

『っ!?それはどういう…!』

机を間に挟んで直立する花菱を、一人掛けのソファに深く腰掛けた相手、氷堂 猛の眼光が何か含みを持たせて射ぬく。その意味あり気な眼差しと不穏な空気を孕んだ台詞に花菱は顔をしかめ、睨み返す。

『話がそれだけなら、帰れ。俺も暇じゃない』

『待って下さい!今の言葉は…!』

『意味などそのままだ。その名がアイツを蝕むのならそんなものは無い方が良い。むしろ、ーー訊いてどうする?お前達に何が出来る?俺とお前達の間には何ら関わりがない』

もはや、この時間は存在しないのだ。
トワからの指示とはいえ花菱自らが今しがた、鴉の総長である後藤 拓磨と氷堂組の氷堂 猛との、目に見える形での関わりを断ち切るよう伝えたばかりだ。その上、氷堂はその言伝てに是を返した。
それは鴉として、表立って氷堂に接触出来なくなったことを意味する。

『一ノ瀬にもそう言っておけ』

言いながら猛が花菱を追い払う様に右手をひらりと振る。すると、部屋の出入り口に待機していた男が廊下へと続くドアを開け、廊下で待機していた男を呼ぶ。この場まで花菱を案内した男が緊張した様子で入室してきて、行きと同じ様に花菱を部屋から連れ出そうとした。

『…っそれなら、俺からも一つだけ。−−氷堂さん。これだけは覚えておいて下さい。うちの総長に害なす者は例え何者であろうと、俺は容赦はしない』

二度と後悔はしないと決めた。
あの日、あの時、無力だった自分とは違う。今、自分は一部隊を預かる身。総長を護る手段がある。

様々な感情を呑み込んで、煮えたぎった鋭利な眼差しが猛を真っ向から見据える。横合いから男に腕を掴まれた花菱は、即座に男の手を振り払い、もう言うことはないと毅然とした態度で踵を返した。

だから花菱はその後のことは何も知らない。

『容赦はしない、か。この俺に面と向かって…』

不愉快な気分とはほど遠く、ソファに座っていた猛はクツクツと愉快そうに口端を吊り上げていた。その背後で今まで黙って成り行きを眺めていた唐澤が口を開く。

『最近の若者は怖いもの知らずですか』

『いや、拓磨の周りだけだろう。…相沢に花菱、一ノ瀬か。使える駒はあるに越したことはねぇ』

『それでどうしますか。偽装工作で部屋を一つ借りて拓磨さんの所在を移しますか?』

『アイツを手元から離すつもりはない』

猛は唐澤の言葉にそう返しながら、室内に掛けられた時計に目を走らせ、ソファから立ち上がる。

『そもそも拓磨の戸籍は草壁であって、奴等の捜す後藤じゃねぇ。住民票も拓磨が草壁の家を飛び出してから他所に移した形跡もない』

『えぇ。確か草壁の所在を掴むのに調べた時に、書類にはそのように記載されていたと記憶しています』

拓磨はとっくに無くなっている、有りもしない草壁家に住所を置いたまま生活している。

『そうだ。拓磨の身柄は俺達が押さえたが…余程、親族に居場所を知られたくなかったんだろう』

中学生で、庇護下であるはずの親戚の家を飛び出したくらいだ。とはいえ、庇護下とは名ばかりで、拓磨の扱いは良くはなかった。書類上の保護者の末路を思えば自ずと知れる。

『拓磨には好きにさせておけ。変わりにマンションに話の分かる女を移させろ』

その女をカモフラージュに使う。
だが当然、猛はその女と一緒に過ごすつもりはない。猛の帰る又は通うマンションに氷堂の息の掛かった店の女がいれば、万が一、後藤=草壁の図式に気付いたとしても、猛と拓磨の関係にまでは気付くまい。

『分かりました。では、リリアンヌの藤花さんを手配致しましょう』

『アイツか。暫く顔を見てねぇな』

『藤花さんは仕事一本の方ですから、店に掛かりっきりになっているのでしょう』

『あれは仕事中毒者だからな』

『では直ぐに。拓磨さんには気取られぬよう、会長の部屋とは離れた部屋を用意させます』

『あぁ、頼んだ』

直ぐ様手配を始める唐澤を尻目に、猛はふとマンションで退屈しているであろう拓磨の顔を思い出し、微かに口許に笑みを刻んだ。

何かを護るのも悪くない。
それは護るべき対象が拓磨だからか。

じんわりと温かくなった胸から熱を追い出す様に猛は小さく息を吐く。同時に緩んだ気を引き締めると、予定通りの行程をこなすべく歩き出した。

そして、松前組の若頭、岡林が接触してきたのはそんな日の翌日だった。






こうして拓磨の預かり知らぬ所で、猛は情報を手に入れ、密かに手を回していた。ただし、自らは動くことはせず、ただ一番近くて一番遠い場所から拓磨の動向を見守っていた。

『会長。日向から、周防が放り出されたと連絡が来ていますが、どうしますか』

「放り出された理由は?」

護衛として周防を連れていくことを拓磨は了解した。連れて行きながら今更、反故にはしまい。ならば、連れて行けない問題が発生したか。
携帯電話を片手に話しながら、猛はリビングにあるソファに腰を降ろし足を組む。

『それが…どうやら拓磨さん達は熊井組の若頭と会談することになったそうです』

「…そうか。そういうことか。…周防には拓磨の指示に従うよう言っておけ」

『分かりました』

唐澤との短い会話を終え、その夜もまた猛は動く気配を見せず、拓磨の好きにさせた。


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