町外れの森の中に小さな湖があった。町民ですらもろくに寄り付かない森だ。湖の存在を知らない者のほうが多い。湖が月光を反射して幻想的に煌めいている。鬱蒼とした樹々に囲まれているのもあってか、まるで立ち入ってはいけない領域のような気分にさせる。
そこに一人の若い女がやってきた。美しい顔立ちをしているが、目は虚ろで正常でないことは一目でわかった。そもそもこんな夜更けに一人で森にくる女なんて正気なはずがない。狂人かよほどの変人かどちらかだろう。

女はおぼつかない足取りで湖のほとりまで歩いていき水面を覗き込んだ。当然水面は女を映す。しかし水面は女だけでなく、後ろに黒衣を纏った男の姿まで映していた。

「やあ、ちゃんと来てくれたんだね。いい子だ」
「伯爵様…………」

伯爵と呼ばれた男の美しさといったら女の比ではなかった。夜風に靡く黒髪に整った顔、細い肢体に、なかでも際立っているのは目だ。赤い虹彩は普通の人間ならありえない色だった。その異質な美しさにはどんなに名のしれた者でもかなわないだろう。彼にはそう思わせる力があった。
男は女の腰に腕を回して引き寄せる。
よろけた体をしっかりと抱きとめると耳元で囁いた。

「愛してるよ。だから、俺にちょうだい?」

何を、とは言わなかった。それでも女は迷うことなく頷いた。
男は緩く口角をあげたかと思えば女の首筋に噛みついた。それまで心ここにあらずだったのに、意識を取り戻したように女の口から悲鳴が上がる。驚いたのか樹々に留まっていた鳥たちが逃げていった。

「あ、あぁあァあぁ!あ……ぁ…………ッ!」
「いい声だけど、響くから黙ってて」
「んぅっ!」

暴れる女の口元を手で覆う。しばらくは抵抗を続けていた女も次第に力を失っていった。男の支えがなくなると女は地に伏した。その体はぴくりとも動かない。
口元に残った女の血を手で拭い、男は女をおいて去ろうとした。そのときだ、男めがけて銃弾が放たれたのは。男はそれを難なくかわすと、放たれた方向を一睨みした。

「臨也ぁあああぁあ!手前またふざけたことしやがって!」
「やだなぁ、俺のことは伯爵って呼んでよ!出来損ないの祓魔師のシズちゃん!」
「出来損ないでもシズちゃんでもねえ!正当な祓魔師の平和島静雄だ!」

自称祓魔師だと名乗った静雄なる人物は伯爵――臨也に向かって銃を乱射した。
掠りでもしたらそれだけで効果のある銀の銃弾だが臨也はそれを簡単に避けていく。そんなものだからすぐに弾がきれてしまうのだが、静雄の武器は銃だけではなかった。
一番近い樹を拳で殴ると、決して細いわけではない幹が容易く折れてしまった。臨也が顔をひきつらせる。静雄の一番の武器は銃ではない、己自身の腕力だった。

「……人の食事の邪魔をして環境破壊までするなんて、俺より君が死んだ方が世界のためになるんじゃないの?」
「人間食い物にして死体転がす化け物風情なんかにそんなこと言われたくねえな」
「失礼だなぁ、中途半端に血を吸ったら吸血鬼になってしまうんだよ?俺は人間が好きなんだ。吸血鬼にするくらいなら人間のまま殺してあげるのが優しさだろ?」
「……気にくわねえ!」

折ったばかりの樹を両手で持ち振り回す。こんな野蛮な祓魔師を臨也は彼以外に見たことがない。背中から翼をはやして上空に逃げた臨也は静雄を見下げながら言った。

「しつこいなぁシズちゃんは。そんなに俺のこと執着しなくてもいいんじゃないの?」
「手前を殺れそうなのは俺しかいないんだとよ。だから死ね、今すぐ死ね!!」
「まったくもう……。今日は飽きちゃったよ」
臨也は再び地上に舞い降りると倒れている女の首根っこを掴んだ。静雄がまさか、と思ったときにはもう遅く女は静雄に向かって投げられた。いくらもう亡くなっているとはいえ避けるわけにはいかない。静雄は両手を広げて女を受け止めた。

「手前なぁ、一体どういう神経して……っ!」
「あはははは!ごめんねシズちゃん、その子はこっちで親元に返しておくから気にしないでいいよ!」
「はあ!?」

突風が吹いて静雄を風の刃が襲った。風は静雄の皮膚を切り裂き、その隙に臨也は夜の空に消えていった。腕の中にいた女も臨也と共にいなくなっている。残ったものといえば臨也から受けた傷と、女を救うことができなかったという悔しさだけだ。

「ちくしょう……っ!ふざけやがって……!!」

静雄の咆哮は森全体に響いた。それでも臨也が再び姿を現すこともない。
傷口に爪を立てる。痛いが頭を冷やすにはうってつけだった。冷静になると手当てのことを考える。傷は深くはないが吸血鬼が巻き起こした風でできた傷だ。もしものことがないとは限らないから、手当ては必要不可欠だ。

「……めんどくせえが、仕方ないか」

深く溜め息を吐きながら、静雄は森をあとにした。





 
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